第31話:「偽りの顔、本当の心」

 蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。春の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。凛は、母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスを無意識に指で弄びながら、深い思考に沈んでいた。


 ノックの音が静かに響き、美園紫苑が部屋に入ってきた。


「凛先生、次の患者さんの資料ができました」


 凛は紫苑の方を向き、彼女の表情を慎重に観察した。紫苑の目元には、新しく導入したというイヴ・サンローランのマスカラが、その美しい瞳をより印象的に引き立てている。


「ありがとう、紫苑。一緒に確認しましょう」


 二人は診察室の中央にある小さなテーブルに向かい、互いに向かい合って座った。凛はファイルを開き、内容を確認し始めた。


「相生霧香さん、15歳。主訴はカプグラ症候群ね」


 紫苑は静かに頷いた。彼女の首元で、ティファニーのオープンハートネックレスが柔らかく揺れる。


「はい。特に母親に対して強い症状が出ているようです。『母が偽物に入れ替わった』と主張し、家庭内での関係性が極端に悪化しているとのことです」


 凛は眉をひそめ、ファイルをさらに読み進めた。


「脳の検査結果は正常……。統合失調症の兆候も見られない。興味深いケースね」


 紫苑は真剣な表情で凛を見つめた。


「凛先生、今回も先生の能力を使う必要がありそうですね」


 凛は深く息を吸い、決意を固めた表情で紫苑を見返した。


「ええ、そうね。霧香さんの心の奥深くまで入る必要がありそうよ。でも、紫苑。今回は特に慎重に進める必要があるわ」


 紫苑は凛の言葉に、強い決意を込めて応えた。


「分かりました。私にできることは何でもします」


 凛は微笑み、紫苑の手を軽く握った。その瞬間、凛の心に紫苑への複雑な感情が湧き上がる。読めない心、そして親友としての強い絆。凛はその感情を抑え込み、再び患者のファイルに目を向けた。


「では、治療の方針を立てましょう。まず、霧香さんとの信頼関係を築くことが重要ね。カプグラ症候群の患者は、周囲の人々を信じられなくなっている。私たちも『偽物』だと思われる可能性があるわ」


 紫苑は頷きながら、メモを取り始めた。彼女の手首には、カルティエのラブブレスレットが控えめに輝いている。


「そうですね。患者さんの不安や恐怖を理解し、共感的な態度で接することが大切だと思います」


 凛は満足げに頷いた。


「そうよ。そして、私が霧香さんの心の中に入る際は、特に注意が必要。彼女の内面世界は、おそらく混乱と不安に満ちているはず。私自身が迷子にならないよう、しっかりと現実とのつながりを保つ必要があるわ」


 紫苑は真剣な表情で凛を見つめた。その瞳に、凛への深い信頼と、わずかな不安が混ざっているのが見て取れた。


「凛先生、私がしっかりとあなたを見守ります。何か異変があれば、すぐに報告します」


 凛は安堵の表情を浮かべた。しかし、その心の奥底では、紫苑の心が読めないことへの不安が渦巻いていた。


「ありがとう、紫苑。あなたがいてくれて本当に心強いわ」


 その瞬間、診察室のドアがノックされ、看護師が顔を覗かせた。


「先生、相生さんがいらっしゃいました」


 凛は立ち上がり、深呼吸をした。彼女の表情には、これから始まる困難な治療への覚悟が浮かんでいた。


「分かったわ。案内してください」


 紫苑も立ち上がり、凛の隣に立った。二人の間に流れる空気は、緊張と期待が入り混じったものだった。


「頑張りましょう、凛先生」


 凛は紫苑に微笑みかけ、ドアの方を向いた。そして、相生霧香が部屋に入ってきた。


 霧香は小柄な体格で、淡いブルーのワンピースを身につけていた。首元には、母親からのプレゼントだという小さな真珠のペンダントが揺れている。しかし、その表情は緊張と不安に満ちていた。


「こんにちは、霧香さん。私が担当医の蒼井凛です。こちらは看護師の美園紫苑さん」


 凛は優しく微笑みかけたが、霧香の目は絶えず部屋の中を漂っていた。まるで、何かを警戒しているかのようだった。


「あの……先生は本物ですか? 偽物じゃないですよね?」


 霧香の声は震えていた。その言葉に、凛は一瞬戸惑いを覚えたが、すぐに冷静さを取り戻した。


「ええ、私は本物よ、霧香さん。あなたの不安はよく分かります。一緒に、その不安の原因を探っていきましょう」


 凛は霧香をソファに案内し、自身も向かい側に座った。紫苑は部屋の隅に控えた。


「霧香さん、まずはあなたの状況について教えてくれる? 何が起こっているのかしら?」


 霧香は深呼吸をし、おずおずと口を開いた。


「私のお母さんが……お母さんじゃなくなってしまったんです」


 凛は霧香の言葉を注意深く聞きながら、彼女の表情や仕草を観察していた。霧香の指先が無意識のうちにペンダントを握りしめている様子に、凛は内なる不安を感じ取った。


「どういうことかしら? もう少し詳しく教えてくれる?」


 霧香は目に涙を浮かべながら、震える声で話し始めた。


「お母さんの顔は同じなんです。でも……中身が違うんです。笑顔も声も仕草も、全部偽物なんです。本当のお母さんは、どこかに連れ去られてしまったんだと思います」


 凛は霧香の言葉に深い共感を示しながら、ゆっくりと頷いた。


「それは、とても怖い経験だったでしょうね。あなたの気持ちはよく分かります」


 霧香は凛の言葉に少し安心したような表情を見せた。しかし、その目にはまだ深い不安が宿っていた。


「先生……私、おかしくなってしまったんでしょうか?」


 凛は優しく微笑んだ。


「いいえ、霧香さん。あなたはおかしくなんかなっていないわ。ただ、今はとても混乱していて、不安なだけなの。私たちと一緒に、その混乱の原因を探っていきましょう」


 霧香は小さく頷いた。その仕草に、わずかながら希望の光が見えた。


「霧香さん、特別な方法であなたの心の中を一緒に探検してみませんか? それによって、あなたの抱えている問題の根源が見えてくるかもしれません」


 霧香は驚いた表情を見せたが、すぐに興味深そうに頷いた。


「はい……お願いします」


 凛は紫苑に目配せし、準備を整えた。


「では、目を閉じて、深呼吸をしてください。私があなたの手を取ります。そうすることで、私たちは一緒にあなたの心の中に入っていけるのです」


 霧香は言われた通りに目を閉じ、凛も同様に目を閉じた。凛が霧香の手を優しく握ると、二人の意識は徐々に霧香の内面世界へと沈んでいった。


 目を開けると、そこは霧に包まれた広大な空間だった。足元は不安定で、まるで雲の上を歩いているかのような感覚だ。遠くには、かすかに建物の輪郭が見える。


「ここが……私の心の中なんですか?」


 霧香の声が、霧の中から聞こえてきた。凛は霧香の姿を探したが、霧が濃すぎて見つけることができない。


「ええ、そうよ。霧香さん、あなたはどこにいるの?」


 返事はなかった。代わりに、遠くから誰かの泣き声が聞こえてきた。凛は声の方向に向かって歩き始めた。


「紫苑、聞こえる?」


 凛は心の中で呼びかけた。


「はい、凛先生。霧香さんのバイタルサインは安定しています。でも、脳波に少し乱れが見られます」


 凛は安堵しつつも、警戒を怠らなかった。霧の中を進んでいくと、次第に建物の形がはっきりしてきた。それは霧香の家のようだった。しかし、家の輪郭はぼやけており、まるで霧の中で溶けていくかのようだ。


 家の前に立つと、ドアが開いていた。凛は慎重に中に入った。


「霧香さん? どこにいるの?」


 凛の声が、空っぽの家の中に響く。すると、二階から物音が聞こえてきた。凛は階段を上がり、音のする部屋に向かった。


 ドアを開けると、そこには二人の霧香がいた。一人は泣きじゃくっており、もう一人は無表情で立っている。


「霧香さん……?」


 凛が声をかけると、泣いている方の霧香が顔を上げた。


「先生……助けてください。私のお母さんが……お母さんが……」


 凛は慎重に霧香に近づいた。


「お母さんがどうしたの?」


「お母さんが偽物になってしまったんです。本当のお母さんはどこかに連れ去られて……」


 霧香の言葉が途切れる。凛はもう一人の無表情の霧香を見た。


「あなたは?」


 無表情の霧香が口を開いた。


「私は、理性です。この子の感情が暴走しているのを止めようとしています」


 凛は状況を理解し始めた。霧香の心の中で、感情と理性が分裂しているのだ。


「霧香さん、二人とも。あなたたちは本来一つのはずよ。なぜ分かれてしまったの?」


 泣いている霧香が答えた。


「お母さんが急に変わってしまったんです。優しかったお母さんが、急に厳しくなって……私のことを理解してくれなくなって……」


 理性の霧香が割り込んだ。


「それは単にお母さんが態度を変えただけだ。人は変わるものだ。それを受け入れられないのは、この子が未熟だからだ」


 凛は二人の言葉を注意深く聞いていた。そして、ゆっくりと話し始めた。


「霧香さん、あなたのお母さんが変わってしまったことは、とてもショックだったのね。でも、人は成長とともに変わっていくものよ。それは決して悪いことではないの」


 凛は泣いている霧香の手を取った。


「あなたの感情は大切よ。悲しみや戸惑いを感じるのは自然なこと。でも、それと同時に」


 凛は理性の霧香の方を向いた。


「理性も大切。感情だけで動くのではなく、状況を冷静に見つめる目も必要なの」


 二人の霧香は、凛の言葉を聞きながら、少しずつ近づいていった。


「二人とも、あなたたちは本来一つなの。感情と理性のバランスが取れたとき、初めて現実を正しく見ることができるわ」


 凛の言葉が響く中、二人の霧香の姿が重なり始めた。光が部屋中に満ち、凛は目を閉じた。


光が収まると、そこには一人の霧香が立っていた。彼女の表情には、悲しみと理解が混ざっているように見えた。


「先生……私、少し分かった気がします」


 凛は優しく微笑んだ。


「そう、良かったわ。でも、まだ終わりじゃないわ。お母さんのことを一緒に見てみましょう」


 凛は霧香の手を取り、部屋を出た。階段を降りると、そこにはダイニングテーブルがあり、一人の女性が座っていた。霧香の母親だ。


 しかし、その姿は不自然だった。顔の一部が歪み、まるでモザイクがかかったようになっている。霧香は母親を見て、体を震わせた。


「お母さん……?」


 凛は霧香の肩に手を置いた。


「霧香さん、よく見てみて。お母さんの姿が歪んで見えるのは、あなたの中で何かが起きているからよ」


 霧香は恐る恐る母親に近づいた。


「どうして……お母さんがこんな風に見えるんですか?」


 凛はゆっくりと説明を始めた。


「霧香さん、人は成長するにつれて変わっていくの。あなたのお母さんも同じよ。今までとは違う一面を見せ始めたのかもしれない。それを受け入れるのが難しくて、あなたの心がお母さんの姿を歪めてしまったのね」


 霧香は涙を浮かべながら、母親の姿をじっと見つめた。


「でも……お母さんが厳しくなったのは、私のためじゃないんですか?」


 凛は頷いた。


「そうかもしれないわ。親は子どもの成長に合わせて接し方を変えることがあるの。それは愛情が変わったわけじゃない。むしろ、あなたの成長を信じているからこそかもしれないわ」


 霧香の目に、理解の光が宿り始めた。彼女はゆっくりと手を伸ばし、母親の顔に触れた。すると、歪みが少しずつ消えていき、本来の母親の姿が現れ始めた。


「お母さん……ごめんなさい。私、お母さんのことを誤解していたみたい」


 母親の姿が完全に元に戻ると、彼女は優しく微笑んだ。


「霧香、あなたは私の大切な娘よ。いつでも、どんなときでも」


 その言葉を聞いて、霧香は母親に抱きついた。部屋中に温かな光が満ち始め、霧が晴れていく。


 凛は、この光景を見守りながら、紫苑に心の中で語りかけた。


「紫苑、霧香さんの状態はどう?」


「凛先生、霧香さんの脳波が安定してきました。心拍数も落ち着いています」


 凛は安堵の表情を浮かべた。


「霧香さん、現実の世界に戻る準備はできた?」


 霧香は母親から離れ、凛の方を向いた。彼女の目には、新たな光が宿っていた。


「はい、先生。私、頑張ってみます」


 凛は霧香の手をしっかりと握り、現実世界への帰還を始めた。


 目を開けると、二人は再び診察室にいた。霧香の表情は穏やかで、目には新たな理解の光が宿っていた。


「どうかしら、霧香さん?」


 霧香は深呼吸をし、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「先生、私……少し怖いです。でも、お母さんともう一度ちゃんと向き合ってみたいと思います」


 凛は優しく微笑んだ。


「その気持ち、とても大切よ。これからは一緒に、あなたとお母さんの関係を立て直していく方法を考えていきましょう」


 霧香は涙ぐみながら頷いた。凛は彼女の肩に手を置き、静かに語りかけた。


「人は変わるものよ、霧香さん。でも、それは必ずしも悪いことじゃない。大切なのは、その変化を受け入れ、理解しようとする心。あなたの中にある感情と理性のバランスを保ちながら、お母さんとの新しい関係を築いていきましょう」


 霧香の目に、新たな希望の光が宿った。それは、彼女の人生の新たな章の始まりを告げているようだった。


 診察が終わり、霧香が部屋を出ていった後、凛は深く息をついた。紫苑が凛の元に近づいてきた。


「凛先生、素晴らしい治療でした」


 凛は紫苑を見つめ、複雑な表情を浮かべた。


「ありがとう、紫苑。でも、まだ道のりは長いわ。霧香さんの回復を見守っていく必要があるわ」


 紫苑は凛の疲れた様子を察し、優しく微笑んだ。


「そうですね。でも、先生なら必ずできます。私も精一杯サポートしますから」


 凛は紫苑の言葉に心を温められながら、窓の外を見た。夕暮れの空が、新たな希望の予感に満ちているように感じられた。

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