第33話:「伝染する妄想」

 蒼井凛は、クリニックの廊下を急ぎ足で歩いていた。エルメスのスカーフが首元で揺れ、ロエベのバッグが腕に掛かっている。彼女の表情には、いつもの冷静さの中に、わずかな緊張が滲んでいた。


 美園紫苑が後を追うように歩いてきた。彼女の白衣の胸ポケットからは、モンブランの万年筆が覗いている。


「凛先生、302号室の状況が悪化しているようです」


 凛は足を止め、紫苑を振り返った。


「農免さんの症状が他の患者さんに影響を与えているの?」


「はい。農免さんの『世界の終末』に関する妄想が、隣室の患者さんにも広がり始めています」


 凛は眉をひそめた。農免真知子、26歳。統合失調症の診断で2週間前に入院してきた患者だ。彼女の妄想は強烈で、時に他者を巻き込む力を持っていた。


共有精神病フォリ・ア・ドゥの可能性があるわね。紫苑、他の患者さんの状況は?」


「303号室の田中さんが特に影響を受けているようです。窓から外を見て『空が赤く染まっている』と叫んでいます」


 凛は深く息を吸い、決意を固めた。


「分かったわ。まず農免さんを個室に移動させましょう。そして、影響を受けた患者さんたちを一時的に隔離する必要があるわ」


 紫苑は頷いたが、その目には不安の色が浮かんでいた。


「でも、先生。農免さんはかなり興奮状態です。移動させるのは難しいかもしれません」


 凛は紫苑の肩に手を置いた。その仕草には、信頼と励ましの意味が込められていた。


「大丈夫よ、紫苑。私たちならできる。まず、私が農免さんと話をします。その間に、他のスタッフに状況を説明して、準備を整えてちょうだい」


「はい、分かりました」


 紫苑が去っていく姿を見送りながら、凛は自分の心の準備を整えた。彼女は、母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスに触れ、深呼吸をした。


 302号室のドアの前で、凛は一瞬立ち止まった。中から、農免真知子の興奮した声が聞こえてくる。


「みんな、聞いて! 世界が終わるの! 空が赤く染まって、すべてが燃え尽きる!」


 凛はゆっくりとドアを開けた。室内は、まるで台風が通り過ぎたかのように散らかっていた。ベッドのシーツは引き裂かれ、枕は床に投げ出されている。


 農免真知子は窓際に立ち、外を指差していた。彼女の長い黒髪は乱れ、病院着は肩から滑り落ちそうになっている。


「先生! 見てください! 空が……空が……!」


 凛は静かに真知子に近づいた。


「真知子さん、私には普通の青空しか見えないわ」


 真知子は凛を見て、一瞬戸惑った様子を見せた。


「え? でも……でも確かに……」


 凛は真知子の目をじっと見つめた。その瞳には、深い恐怖と混乱が渦巻いていた。


「真知子さん、あなたが見ている世界は、あなただけのものかもしれないわ。でも、それは決して恐ろしいものじゃない」


 真知子の表情が少し和らいだ。


「本当ですか?」


「ええ、本当よ。あなたの中で何か大切なものが、そういう形で表現されているだけなの」


 凛は真知子の手を優しく握った。その手は冷たく、震えていた。


「一緒に、あなたの見ている世界について話してみませんか? でも、その前に別の部屋に移りましょう。ここは少し散らかっているわ」


 真知子は躊躇したが、やがてゆっくりと頷いた。


「はい……分かりました」


 凛は安堵の表情を浮かべつつ、紫苑に目配せした。これで最初の危機は脱したが、まだ多くの課題が残されている。フォリ・ア・ドゥの影響を受けた他の患者たちへの対応、そして真知子自身の深い心の傷と向き合うこと。


 凛は真知子を優しく導きながら、これからの長い治療の道のりに思いを巡らせた。


凛は真知子を個室に案内し、落ち着いた雰囲気の中で話を続けることにした。部屋には柔らかな間接照明が灯され、ラベンダーの香りが漂っている。


「真知子さん、ここでゆっくり話しましょう」


 真知子はベッドの端に座り、不安そうに周囲を見回した。彼女の指先が、病院着の裾を無意識に摘んでいる。


「先生、本当に世界は終わらないんですか?」


 凛は真知子の隣に腰を下ろし、優しく微笑んだ。


「世界は終わりませんよ。でも、あなたの中で何かが変わろうとしているのかもしれません」


 真知子は困惑した表情を浮かべた。


「変わる……?」


「そう。例えば、あなたが見ている赤い空。それは何を意味していると思う?」


 真知子は黙って考え込んだ。その瞳に、何かを思い出そうとする光が宿る。


「私、1年前まで広告代理店で働いていました。でも、上司からのプレッシャーと締め切りに追われて……」


 凛は静かに頷いた。


「ストレスが溜まっていたのね」


「はい。毎日が真っ赤に燃えているような……そんな感じでした」


 真知子の言葉に、凛は深い理解を示した。


「つまり、あなたの見ている赤い空は、あなたの内なる叫びだったのかもしれません」


 真知子の目に、小さな涙が光った。


「そうかもしれません……。でも、他の人も見えていたはずです」


 凛は真知子の手を優しく握った。


「時々、強い感情は周りの人にも伝わることがあるの。でも、それは決して悪いことじゃない。大切なのは、その感情の本当の意味を理解すること」


 その瞬間、ドアがノックされ、紫苑が顔を覗かせた。


「失礼します。凛先生、他の患者さんの状況が落ち着きました」


 凛は安堵の表情を浮かべた。


「ありがとう、紫苑」


 真知子は驚いた様子で紫苑を見た。


「他の人たちは……?」


 紫苑は優しく微笑んだ。


「皆さん大丈夫ですよ。今は落ち着いています」


 真知子の表情が和らいだ。


「よかった……私、みんなを巻き込んでしまって……」


 凛は真知子の肩に手を置いた。


「自分を責めないで。これは新しい始まりのチャンスよ。あなたの感情と向き合い、理解を深めていく。そうすれば、きっと新しい世界が開けるわ」


 真知子はゆっくりと頷いた。その目に、小さな希望の光が宿り始めていた。


「先生、私……頑張ってみます」


 凛は満足げに微笑んだ。


「一緒に頑張りましょう。あなたは一人じゃないわ」


 紫苑も温かな視線を送っている。部屋の中に、静かな希望の空気が流れ始めた。

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