第21話:「蓮華の奏でる別離と昇華」

 蒼井凛は診察室の窓際に立ち、外の景色を眺めていた。初夏の柔らかな日差しが、彼女の白衣を優しく照らしている。首元でさりげなく輝くティファニーのエルサ・ペレッティ デザインのオープンハートペンダントが、朝の光を受けて煌めいていた。


 ノックの音が静寂を破った。


「どうぞ」


 凛の声に応えるように、美園紫苑が部屋に入ってきた。

 しかし、彼女はいつもとは違う雰囲気が漂よわせていた。紫苑はペールブルーのナース服を身にまとっていたが、その表情には深い憂いの色が浮かんでいた。耳元のアコヤパールピアスが、彼女の青白い頬を際立たせている。


「紫苑……?」


 凛は即座に違和感を覚えた。いつもの穏やかさが消え、代わりに重苦しい空気が紫苑を包んでいる。シャネルのルージュ アリュールで整えたばかりの唇が、心配そうに結ばれる。


「凛先生……少しお話があります」


 紫苑の声は、か細く震えていた。凛は眉をひそめ、診察台から立ち上がった。


「どうしたの? 何かあったの?」


 凛は紫苑に近づき、その肩に手を置こうとした。しかし、紫苑は僅かに体を引いた。


「凛先生、単刀直入にお伺いします」


 紫苑は深く息を吸い、決意に満ちた眼差しで凛を見つめた。


「凛先生は他人の心の中を覗き見ることができますね?  他人の心に直接入れる特殊な力をお持ちですね?」


 凛の瞳が大きく見開かれた。心臓が激しく鼓動を打ち始める。長年、暗黙の了解として触れられなかった秘密。それを紫苑が、まるで昼下がりのお茶でも誘うかのような口調で、しかし真剣な眼差しで問うてきたのだ。


(どうして……?  どうして今、紫苑が……?)


 凛の頭の中で、様々な思考が渦を巻いた。否定すべきか?  それとも……。


 紫苑の真剣な眼差しが、凛の心を揺さぶる。長年の信頼関係が、この瞬間にかかっているような気がした。


「紫苑……」


 凛は深く息を吐き出した。そして、覚悟を決めたように口を開いた。


「……その通りよ」


 凛の告白に、紫苑の表情が僅かに和らいだ。


「私には、他人の心の中に入り込める特殊な能力があるの。触れることで、相手の心象風景を見ることができるわ」


 凛は自分の能力について、これまで誰にも話したことがないほど詳細に説明した。しかし、凛はひとつだけ隠し事をした。それは「凛が紫苑の心だけは読めないこと」だった。


 紫苑は凛の言葉に静かに頷きながら、じっと聞き入っていた。そして、凛の説明が終わると、意を決したように凛の両手を取った。


「凛先生、お願いがあります」


 紫苑の手が、僅かに震えているのを凛は感じた。


「私の大切な人の心の中に潜ってほしいんです」


「紫苑の……大切な人?」


 凛の声が、思わず上擦ってしまう。心の奥底で、何か複雑な感情が湧き上がるのを感じた。


 紫苑は深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。その仕草に、凛は言いようのない緊張感を覚えた。


「はい。私の恋人です」


 その言葉に、凛は思わず息を呑んだ。紫苑に恋人がいるなんて……。なぜか胸の奥が締め付けられるような感覚に襲われる。


(私は……嫉妬しているの? いえ、そんな……在り得ないわ……)


 その思いが脳裏をよぎった瞬間、凛は自分の感情に戸惑いを覚えた。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。目の前の紫苑が、明らかに何か深刻な問題を抱えているのだから。


「紫苑、あなたの恋人に何があったの?」


 凛は自分の動揺を抑え、できるだけ冷静に尋ねた。紫苑の目に、大きな涙が溢れた。


「はい……彼が……事故に遭ったんです」


 紫苑の言葉に、凛は胸が締め付けられるような痛みを感じた。


 凛は紫苑を優しく抱き寄せた。シャネルの香水の香りが、二人を包み込む。


「紫苑、落ち着いて。ゆっくり話してくれる?」


 紫苑は深呼吸をし、凛の腕の中で少し落ち着きを取り戻したようだった。


「彼の名前は逢坂渚……なぎくんです。先週、酒酔い運転のトラックに轢かれて……」


 紫苑の声が途切れる。凛は黙って紫苑の背中をさすった。


「今、市の総合病院の集中治療室にいるんです。でも……」


 紫苑は言葉を詰まらせた。凛は最悪の事態を覚悟しながら、静かに問いかけた。


「意識は……?」


 紫苑は小さく首を横に振った。


「お医者さんが言うにはもう脳死状態で、回復は見込めないとのことです……」


 凛は言葉を失った。紫苑の大切な人が、今まさに生死の境をさまよっている。その現実に、凛は心臓を鷲掴みにされたような痛みを感じた。


「お医者さんにはこのまま生命維持装置を作動させ続けるべきか、それとも自然な体の状態にまかせて……その……穏やかに死を迎えるべきか、選択を迫られています……」


 紫苑は目を伏せた。その長いまつげに、涙が光っている。


「なぎくんは天涯孤独の身で、ただ私だけが恋人であり、家族であり、親友であり、兄妹であり……すべてでした……」


 凛は紫苑の言葉に、深い共感と同時に、何とも言えない複雑な感情を抱いた。沈黙が流れる。


 突然、紫苑が顔を上げ、凛の目をまっすぐ見つめた。


「凛先生、なぎくんの心に潜ってください」


「え?」


 凛は、紫苑の突然の要請に戸惑いを隠せなかった。


「なぎくんが何を思っているか……私がこれからどうしたらいいのか、どうか教えてください!」


 紫苑の慟哭が、診察室に響き渡る。凛は、紫苑の痛みと、自分の中に湧き上がる複雑な感情との間で揺れ動いた。


(紫苑の大切な人の心に入るなんて……)


 しかし、目の前で泣き崩れる紫苑を見て、凛は決意を固めた。


「分かったわ、紫苑。渚さんの心に潜ってみる」


 凛の言葉に、紫苑の顔に僅かな希望の光が差した。


「本当ですか?  ありがとうございます、凛先生!」


 紫苑は思わず凛に抱きついた。凛は、紫苑の体温と、ラベンダーの香りを感じながら、複雑な思いを胸に秘めた。


(紫苑、私はこれからあなたの大切な人の心に入る。でも、そのあなたの心だけは読めない……この皮肉な現実を、いつかあなたに打ち明ける日が来ることはあるのかしら……)


 凛は深く息を吐き出し、これから始まる未知の体験への覚悟を決めた。


「紫苑、病院に行きましょう」


 凛はそう言って、診察室を出る準備を始めた。彼女のエルメスのスカーフが、その動きに合わせて優雅に揺れる。


 夕暮れの街を、凛の黒いベンツが静かに走っていた。車内には、ショパンのノクターンが流れている。紫苑が「渚くんの好きな曲」と言って、CDをかけたのだ。


 凛はハンドルを握りながら、時折チラリと助手席の紫苑を見やった。紫苑は窓の外を見つめ、断片的に渚との思い出を語り始めた。


「なぎくんと初めて出会ったのは、大学の図書館だったんです」


 紫苑の声は柔らかく、懐かしさに満ちていた。


「私が高い棚の本を取ろうとして、つま先立ちをしていたら、後ろからすっと手が伸びてきて……」


 紫苑の唇が小さく微笑んだ。凛は黙ってうなずき、紫苑の言葉に耳を傾けた。


「なぎくんったら、『天使が本を取ろうとしているから、僕が手伝わせてもらいました』なんて……」


 紫苑の瞳に涙が光る。凛は思わず右手をハンドルから離し、紫苑の手を握りしめた。


「彼は、そんな風にいつも優しくて、ちょっとおどけていて……でも、本当に心の底から私のことを大切に思ってくれていて……」


 紫苑の声が震える。凛は静かに車を路肩に寄せ、エンジンを切った。


「紫苑……」


 凛が紫苑の方を向くと、紫苑は涙を堪えきれずに泣き崩れていた。凛の胸に鋭い痛みが走る。


「なぎくんと一緒に海に行ったとき、『紫苑は海よりもキレイだ』って言ってくれて……私、なんてありきたりな台詞だって笑ったのに、なぎくんは真剣な顔で『でも本当だよ』って……」


 紫苑の言葉が、凛の心の深奥に突き刺さる。凛は運転しながらも、自分の中に湧き上がる複雑な感情と向き合っていた。


(紫苑が、こんなにも愛されていたなんて……)


 嫉妬? 羨望? それとも純粋な友人としての……。凛は自分の感情を明確に理解することができなかった。


「なぎくんは、私が看護師になりたいって言ったとき、一番に応援してくれて……夜遅くまで一緒に勉強してくれて……」


 紫苑の言葉は涙に溶けていった。凛はもう何も言うことができなかった。


 病院に到着し、集中治療室に入ると、そこには生命維持装置に繋がれた一人の若い男性の姿があった。逢坂渚だ。


 凛は深呼吸をし、渚のベッドに近づいた。


「紫苑、少し離れていてくれる?  私が渚さんの……その……心に入るためにその必要があるの」


 紫苑は黙って頷き、ベッドから離れた。凛は静かに渚の手に触れた。


 その瞬間、凛の意識は急速に渚の内面へと引き込まれていった。周囲の景色が溶け、新たな世界が広がり始める……。


 凛の目の前に広がったのは、果てしなく続く蓮の花群だった。薄紅色の花びらが、そよ風に揺れている。その光景に、凛は思わず息を呑んだ。


 その花の群れの中央に一人の男性がぽつんと立っている。凛はゆっくりとその人物に近づいた。


「やあ、凛先生。いつも紫苑から話は聞いてましたよ。噂にたがわぬ美人さんですね。おっとこんなことを言ったら紫苑に怒られるかな」


 朗らかに笑う男性。凛は一瞬、戸惑いを覚えた。


「あなたが……渚さん?」


「ええ、そうです」


 渚の態度は、あまりにも普通だった。脳死状態の人の心の中とは思えないほど、生き生きとしている。凛は言葉を選びながら、慎重に問いかけた。


「渚さん、あなたは……自分の状況を……」


 渚は凛の言葉を遮るように、穏やかに微笑んだ。


「すべて聞いていました」


「え?」


 凛は驚きを隠せなかった。


「自分の体がもうだめなことは僕が一番よくわかってます」


 渚の言葉に、凛は言葉を失った。


「だから紫苑には僕のことを忘れて早く新しいを見つけてほしい」


 渚の真剣な表情に、凛は圧倒された。


「それが難しいことはよく判っています。僕だって紫苑に忘れられたくない。いつまでも覚えていてほしい……しかしそれで彼女を縛ってしまうことは僕の本意ではありません。だからなんとか紫苑を説得してくれませんか? 凛先生」


 凛は渚の言葉に、深い感銘を受けた。同時に、自分の中に芽生えた複雑な感情にも気づいていた。


「……わかりました」


 ゆっくりと頷く凛を見て、渚は安心したような表情を見せた。


「あともうひとつ。紫苑と僕が暮らしている部屋の、僕の机の引き出しの奥に、献体の登録書があります。このことはまだ紫苑には伝えていません。まさかこんなに早くその機会が来るとは思っていなかったものですから……」


 彼はそう言って微苦笑を浮かべた。


「そこに僕の遺志を書いた手紙も同封しています。なので……あとはよろしくお願いします、凛先生」


 凛は言葉を失った。渚の覚悟と思いやりの深さに、胸が締め付けられるような思いがした。


「渚さん、あなたは……」


 凛は言いかけて渚の瞳の穏やかな色に圧倒され、黙り込んだ。


「凛先生、そろそろ時間のようです。僕は逝かなければなりません。あとは委細よろしく頼みます」


「……わかりました」


「ありがとう、凛先生」


 渚の姿が、蓮の花びらと共に風に舞い上がり、消えていく。凛は思わず手を伸ばしたが、何も掴むことはできなかった。


 凛の意識が現実世界に戻る。彼女は目を開け、病室の無機質な空気を感じた。そして、初めて自分の頬を伝う涙に気がついた。


 紫苑が不安そうな表情で凛を見つめている。


「凛先生……どうでしたか?」


 凛は深呼吸をし、心を落ち着かせようとした。渚の言葉を、どのように紫苑に伝えるべきか。凛は言葉を慎重に選びながら、ゆっくりと口を開いた。


「紫苑……渚さんは、あなたのことを本当に大切に思っていたわ。そして……」


 凛は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。病室の静寂が、彼女の心臓の鼓動を際立たせる。紫苑の不安に満ちた瞳が、凛の言葉を待ち望んでいた。


「紫苑……」


 凛は優しく紫苑の手を取った。その手の温もりが、これから伝える言葉の重みを和らげるかのようだった。


「渚さんは、あなたのことを本当に深く愛していたわ」


 紫苑の目に、小さな光が宿った。


「彼は言っていたの。『紫苑には幸せになってほしい』って」


 凛は言葉を選びながら続けた。


「渚さんはそして言ったわ。僕は紫苑を愛している……でも、自分との思い出に紫苑が縛られてほしくない、と」


 紫苑の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。それは真珠のように、彼女の頬を伝い落ちていく。


「忘れてほしいという意味じゃない……」


 凛はゆっくりと付け加えた。


「ただ渚さんは、あなたとの思い出を大切に胸に秘めながら、それでも前を向いて歩んでいってほしいと願っているの」


 紫苑の唇が小さく震えた。しかし、その目には次第に強い光が宿り始めていた。


「なぎくん……」


 紫苑の声は掠れていたが、そこには深い愛情が滲んでいた。


「最後まで、私のことを……」


 凛は黙って頷いた。紫苑の手を、より強く握りしめる。


「そして、紫苑」


 凛は慎重に言葉を紡いだ。


「渚さんは、献体の意思があるそうよ。あなたたちの部屋の、彼の机の引き出しに……」


 紫苑の目が大きく見開かれた。驚きと、何か深い理解の色が、その瞳に浮かんだ。


「なぎくん……最後まで、誰かの役に立とうとしていたのね」


 紫苑の声は震えていたが、そこには確かな決意が感じられた。


 紫苑はゆっくりと立ち上がり、渚のベッドに近づいた。彼女は渚の手を優しく握り、額に柔らかなキスを落とした。


「なぎくん、あなたの思い、しっかりと受け止めたわ」


 紫苑の声は静かだったが、力強さに満ちていた。


「あなたとの思い出を胸に、でも前を向いて生きていく。それが、あなたへの最高の恩返しだと思うから」


 凛は、紫苑の姿に言葉を失った。深い悲しみの中にありながら、なお前を向こうとする紫苑の強さに、心を打たれた。


 窓から差し込む夕陽が、紫苑と渚を優しく包み込む。その光は、別れの哀しみと新たな旅立ちへの希望を、同時に象徴しているかのようだった。


 凛は静かに目を閉じた。胸の奥で、複雑な感情が渦巻いている。紫苑への想い、渚への敬意、そして人生の儚さへの思い。それらが全て混ざり合い、温かく、そして切ない感情となって彼女の心を満たしていった。


 凛は紫苑を優しく抱きしめた。二人の間に、言葉にならない深い絆が流れているのを感じた。


 窓から差し込む夕陽が、病室を柔らかな光で包み込む。その光は、別れの悲しみと、新たな人生への希望を同時に象徴しているかのようだった。

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