第1話:「凍てつく炎の記憶」

 白衣の袖をたくし上げ、蒼井凛は診察室の窓際に立っていた。外では、秋の陽光が金木犀の葉を黄金色に染めている。凛は無意識に、母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスに手を伸ばした。


 診察室のドアがノックされ、看護師の美園紫苑みそのしおんが顔を覗かせる。


「凛先生、次の患者さんをお連れしました」


 紫苑の声には、いつもの優しさの中に、わずかな緊張感が混じっていた。


「ありがとう、紫苑。どうぞ中へ」


 凛は柔らかな微笑みを浮かべ、診察室の中央へと歩み寄った。


 入ってきたのは、小柄で華奢な女性だった。短く刈り込まれたショートヘアに、すっきりとしたネイビーのパンツスーツ。その装いは、彼女の職業を物語っているようだった。


「宮藤明日香さん、ようこそ。私が担当医の蒼井凛です」


 凛は穏やかな声で告げた。明日香は小さく頷いたが、その瞳には不安と緊張の色が混じっていた。


「あの……私、大丈夫でしょうか?  こんな状態で、もう消防士として働けるのかどうか……」


 明日香の声は震えていた。凛は静かに彼女の言葉を受け止め、診察台へと案内した。


「まずは、ゆっくりお話を聞かせてください。あなたの感じていること、全てを」


 凛の言葉に、明日香はほんの少し肩の力を抜いた。しかし、その表情には依然として苦悩の色が濃く残っていた。


「私……もう、火を見るのが怖いんです。ガスコンロの小さな火を見ただけで、あの日のことを思い出して……」


 明日香の言葉が途切れる。凛は静かに待った。


「3ヶ月前の火災現場で、私たちは建物に取り残された人を救出しようとしていました。私と先輩の2人で中に入ったんです。でも……」


 明日香の瞳に、恐怖の色が浮かぶ。彼女は胸をおさえ、激しく震え始めた。凛は優しく彼女の手を取った。


「大丈夫です。ここは安全な場所。あなたの気持ちを、そのまま話してください」


 凛の言葉に背中を押され、明日香は震える声で続けた。


「突然、天井が崩れ落ちてきて……先輩が下敷きになったんです。私は必死で助けようとしましたが、火の勢いが強くて……最後まで、先輩の助けを求める声が聞こえていて……」


 明日香の目から、大粒の涙が流れ落ちた。凛は黙ってハンカチを差し出す。


「私が、私がもっと強ければ……もっと早く動いていれば……」


 自責の念に苛まれる明日香を見つめながら、凛は静かに告げた。


「宮藤さん、あなたは本当によく頑張りました。でも、時には私たちの力が及ばないこともあるのです。そのことを受け入れるのは、とても難しいことですね」


 凛の言葉に、明日香はハッとした表情を浮かべた。それは、自分の感情を初めて誰かに理解されたような、そんな表情だった。


「蒼井先生……私、どうすれば……」


「宮藤さん、あなたの心の中を、私の催眠療法で一緒に見てみませんか?  そこにある答えを、一緒に探してみましょう」


 凛は静かに、しかし確固たる意志を込めてそう告げた。明日香は少し戸惑いながらも、小さく頷いた。


「はい……お願いします」


 凛は優しく明日香の手を取り、深呼吸を促した。


「目を閉じて、ゆっくりと呼吸を整えてください。私があなたの心の中へと導きます」


 明日香が目を閉じると同時に、凛もまた目を閉じた。そして、静かに明日香の心の中へと意識を沈めていく。


 周囲の景色が溶けていき、凛の意識は新たな世界へと引き込まれていった……。


 次に凛の意識が開かれたとき、そこには息をのむような光景が広がっていた。


 果てしなく広がる凍った湖。透き通るような青い氷の下には、宮藤明日香が閉じ込められていた。彼女の周りには、かすかに赤い光が揺らめいている。氷の表面には、荒々しい炎が燃え盛っていた。


 凛は静かにその光景を観察した。


(この凍った湖は、明日香さんの凍りついた感情を表しているのね。表面の炎は、彼女を苦しめるトラウマ……。でも、この氷を溶かせば……)


 凛は慎重に氷の上を歩き、明日香のいる場所まで近づいた。氷の下の明日香は、恐怖に満ちた表情で動けずにいる。


「明日香さん、聞こえますか?  私です、蒼井凛です」


 凛の声が、不思議と氷を通して明日香に届いた。明日香はゆっくりと目を開け、凛を見上げた。


「先生……?  ここは……どこですか?  寒くて……怖くて……」


 明日香の声は震えていた。凛は優しく微笑みかけた。


「大丈夫です。これはあなたの心の中。私たちで一緒に、この状況を変えていきましょう」


 凛は氷に手をかざした。


「明日香さん、一緒に小さな穴を開けてみましょう。あなたの中にある勇気を思い出してください」


 明日香は恐る恐る手を動かし、氷に触れた。すると、不思議なことに氷がわずかに溶け始めた。小さな穴が開き、暖かな光が差し込んできた。


「そうです、その調子です。あなたの中にある強さを信じてください」


 凛の励ましの言葉に、明日香の目に決意の色が宿り始めた。二人で協力して穴を広げていくと、少しずつ氷が溶けていく。


 しかし、突然表面の炎が激しく燃え上がった。明日香は恐怖で体が硬直する。


「先輩の……悲鳴が……聞こえる……」


 明日香の耳に生々しい声が響き始めた。


「助けて……明日香……」


 明日香の体が凍りついたように固まる。

 その瞳に恐怖の色がありありと広がった。


「先輩の声が……聞こえます。私を呼んでいる……」


 明日香の手が震え、氷を溶かそうとする動きが止まってしまう。凛は即座に明日香の両手を優しく包み込んだ。


「明日香さん、それは過去の記憶です。今、ここにいるのは私たちだけ。あなたの中にある恐怖が生み出した幻なのよ」


 凛の声は静かでありながら、強い意志に満ちていた。


「でも……私が助けられなかったから……」


 明日香の声が震える。凛は深く息を吸い、明日香の目をしっかりと見つめた。


「あなたは精一杯のことをしたのよ。そのことを忘れないで。今、私たちがしなければならないのは、この氷を溶かすこと。あなたの中にある強さを信じて」


 凛の言葉に、明日香の目に小さな光が宿る。彼女はゆっくりと、再び氷に手を伸ばした。


「そう、その調子よ。一緒に頑張りましょう」


 二人の力が合わさり、少しずつ氷が溶け始める。しかし、まだ先輩の声が明日香の心を苛む。


「もう少しよ、明日香さん。あなたの中にある勇気を思い出して」


 凛の励ましに応えるように、明日香は目を閉じ、深く息を吸った。すると不思議なことに、先輩の声が少しずつ小さくなっていく。


「先輩の声が……遠ざかっていきます」


「そう、その調子よ。あなたの中の恐怖が薄れていっているのがわかるわ」


 明日香の動きが確かなものになり、氷が急速に溶け始める。やがて、大きな穴が開いた。


「さあ、明日香さん。この穴から出てきて」


 凛に導かれるように、明日香はゆっくりと水面に浮かび上がってきた。彼女が顔を水面に出した瞬間、周囲の炎が静かに消えていった。


 穏やかな湖面が広がる中、突然、柔らかな光が明日香の前に現れた。その光の中から、一人の女性の姿が浮かび上がる。


「先輩……?」


 明日香の声が震える。光の中の女性――明日香の先輩は、優しく微笑んだ。


「よく頑張ったね、明日香」


「でも私……先輩を助けられなくて……」


 先輩は静かに首を横に振った。


「あなたは精一杯のことをしてくれた。私はあなたを誇りに思っているよ。もう自分を責めることはしないで」


 その言葉に、明日香の目から大粒の涙がこぼれ落ちた。


「これからは前を向いて歩んでいってね。あなたにはまだたくさんの人を助ける力があるんだから」


 先輩の姿が徐々に薄れていく。明日香は涙ながらに頷いた。


「はい……ありがとうございます、先輩」


 光が完全に消えると、そこには穏やかな湖面だけが残された。明日香の表情に、久しぶりの安らぎが浮かぶ。


 凛は静かに明日香の肩に手を置いた。


「おめでとう、明日香さん。あなたは自分の力で、この試練を乗り越えたのよ」


 明日香は凛を見上げ、涙と笑顔が混ざった表情で頷いた。


「ありがとうございます、先生。私……これからまた、消防士として頑張っていきたいと思います」


 凛は優しく微笑んだ。


「きっとあなたならできます。さあ、新しい一歩を踏み出しましょう」


 二人の周りに、希望に満ちた暖かな光が広がっていった。


 明日香は深く息を吸い、久しぶりに安らかな表情を見せた。


「先生……私、やっと自由になれた気がします」


 凛は優しく明日香の肩に手を置いた。


「過去の炎から逃げるのではなく、その温もりを力に変えることができたのよ。あなたの中にある勇気が、この氷を溶かしたの」


 明日香の目に、小さな涙が光った。それはもう恐怖の涙ではなく、解放の涙だった。


 凛は静かに目を開けた。現実の診察室に戻ってきたのだ。明日香もまた、ゆっくりと目を開けた。


「どうでしたか、明日香さん?」


 明日香は少し戸惑いながらも、小さく微笑んだ。


「不思議な体験でした。でも……楽になれた気がします」


 凛は満足げに頷いた。


「これはまだ始まりです。これからも一緒に頑張っていきましょう。なにかあったらすぐに連絡をくださいね」


 明日香は決意に満ちた表情で頷いた。その瞳には、かすかな希望の光が宿っていた。


 診察室の窓から差し込む夕日が、二人の姿を優しく包み込んだ。

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