第38話:「対を成す心象風景の最奥で」

 蒼井凛は夕方の満員電車の中で、自分の疲労度を再確認していた。医局会議が長引き、その後も難しい症例が続いた一日。普段なら何でもないことなのに、今日は異常なほど疲れを感じる。ポケットに入れた母からの形見の一粒ダイヤのネックレスに、無意識のうちに指が伸びる。


 揺れる車内で、凛は周囲の乗客との接触を避けようと気を配っていた。他人に触れれば、その人の心の中が見えてしまう能力。普段は意識的に抑制できているが、極度の疲労時は制御が難しくなる。


「新宿、新宿です。お降りの方は……」


 車内アナウンスが流れ、乗客の動きが活発になる。その瞬間、誰かの手が凛の右手に触れた。ほんの一瞬の接触。しかし、その刹那、凛の意識は暗い深淵へと引きずり込まれた。


 そこは、凛が今まで見たことのない異様な光景だった。


 灰色の空が際限なく広がり、地上には無数の赤い糸が張り巡らされている。それらの糸は呼吸をしているかのように蠢き、そして……血を滴らせていた。糸の一本一本が、まるで人の運命を表すかのように、複雑に絡み合い、時に切れ、時に結ばれる。


 凛は慌てて意識を引き戻した。


「今の心象風景は一体誰の……?」


 周囲を見回すが、すでにその人物を電車を降りてしまったようで、見つけることはできない。改札に向かう群衆の中に、その異様な心象風景の持ち主は紛れて消えていた。


 家に帰り着いた凛は、ソファに深く身を沈めた。暗い部屋の中で、先ほどの心象風景が脳裏に焼き付いて離れない。


「赤い糸が……血を滴らせる……」


 凛は眉をひそめる。これまで数え切れないほどの患者の心の中を見てきたが、あれほど生々しい暴力性を帯びた風景は初めてだった。少しだけ鷹宮怜奈のケースに似てはいる。だがあの夥しい量の赤い糸の、圧倒的な存在感に気圧されたのは、あれが初めてだった。



 クリニックに到着した凛を、紫苑が心配そうな表情で迎えた。


「凛先生、顔色が悪いですよ」


 紫苑の首元で、デリケートなゴールドのネックレスが揺れる。凛は苦笑いを浮かべた。


「ちょっと寝不足なの。おととい、電車でちょっと気になることがあって……」


 紫苑の表情が曇る。凛には珍しい様子だった。


「何かあったんですか?」


 凛は言葉を選びながら答える。


「ええ、でも大丈夫。今日の患者さんのことに集中しましょう」


 紫苑はまだ不安そうな表情を残しながらも、資料を凛に手渡した。


「はい。今日から始まる新しい患者さんの資料です。倉木優里子さん、32歳。うつ病の疑いで……」


 凛は資料に目を通しながら、意識的に昨日のことを頭の片隅に押しやった。目の前の患者に集中することが、プロフェッショナルとしての責務だ。


 午後2時、倉木優里子との最初のカウンセリングが始まった。


 優里子は小柄で、どこか影のある表情を浮かべていた。ブランドものと思しきスーツは体に合っておらず、少し大きめに見える。


「倉木さん、まずはゆっくりとお話を聞かせていただけますか?」


 優里子は僅かに頷き、静かな声で話し始めた。


「最近、眠れなくて……。仕事も手につかないんです」


 凛は優里子の言葉に耳を傾けながら、その表情や仕草を観察した。時折、左手で右手首を無意識に撫でる仕草が気になる。


「よろしければ、特別なカウンセリング法を試してみませんか? あなたの心の中で何が起きているのか、一緒に見ていきましょう」


 優里子は少し戸惑ったような表情を見せたが、同意した。


 凛が優里子の手に触れた瞬間、二人の意識は優里子の心象風景へと沈んでいった。


 そこで凛は息を飲んだ。


 目の前に広がっているのは、青い糸が複雑に織りなす迷宮だった。糸は光を放ち、まるで命の輝きのように瞬いている。しかし、その輝きは徐々に弱まっており、所々で糸が切れかかっていた。


「これは……!」


 凛の脳裏に昨日見た赤い糸の風景が蘇る。形状こそ違えど、この青い糸の迷宮は、確かにあの赤い糸と対を成していた。生と死、光と闇、希望と絶望――正反対でありながら、確かに繋がっている。


 その時、朝、テレビで何気なく見たニュース速報の映像の記憶が、凛の意識を現実に引き戻した。


 凛の顔から血の気が引いた。


 テレビ画面には、都内での失踪事件が報道されていた。失踪したのは大手企業に勤める倉木麻衣子、37歳。2日前から行方不明になっているという。


「倉木……」


 凛は息を呑んだ。目の前にいる優里子と同じ姓。そして、おととい電車で見た血の滴る赤い糸の心象風景――それは生命の危機を象徴するものだった。今、優里子の心の中で見ている青い糸の迷宮と、あの不吉な赤い糸の風景。二つの心象風景が、まるで双子のように呼応している。


「まさか……」


 凛は優里子の顔を見つめた。彼女の左手が、無意識のうちに震えている。朝のニュースで画面に映っていた倉木麻衣子の顔写真と、優里子の横顔が重なって見えた。似ている。確かに姉妹のようだ。


 全ての点が繋がり始めた。電車で触れた何者かの心に見た死の予兆。倉木麻衣子の失踪。そして今、目の前で揺らめく優里子の不安定な心象風景。


 凛は震える手で携帯電話を取り出した。もし凛の予想が当たっているのならば、警察に通報しなければならない。しかし、その前に確認すべきことがある。


「倉木さん……あなたのお姉さまは、お元気ですか?」



 優里子の表情が強張ったのは、ほんの一瞬のことだった。次の瞬間には、穏やかな笑みを浮かべている。


「なぜ、姉のことを?」


「いえ、少しだけ気になることがあって……」


「姉は……元気ですよ。先週も会いました」


 その言葉に、凛は直感的な違和感を覚えた。優里子の声は平静を装っているようで、どこか虚ろだ。まるで、誰かの声の模倣をしているかのように。


「そうですか……。ではもう一度、あなたの心の中を見せていただけますか?」


 優里子は黙って頷いた。しかし、その瞳の奥に、かすかな警戒の色が浮かんでいる。


 凛は再び優里子の手に触れ、その心象風景へと意識を沈めていった。青い糸の迷宮は、先ほどよりもさらに光を失っているように見える。そして新たに、迷宮の片隅に、一本の赤い糸が絡みついているのを発見した。


「この赤い糸は……」


 その糸は、おととい見た風景と同じ質感を持っている。血を滴らせ、生命の危機を象徴するような不吉な存在感だった。


「紫苑、聞こえる?」


 凛は心の中で呼びかけた。


「はい、凛先生。倉木さんの脈拍が少し乱れています」


 優里子の動揺は、身体にも表れ始めているようだ。


「倉木さん、この青い糸は、あなたの人生の糸。そして、この赤い糸は……」


「姉の、運命の糸……ですか?」


 優里子の声が、突如として冷たく響いた。


「私には分かります。姉さんは、私の人生を壊した。いつも完璧で、いつも正しくて、いつも私を見下して……。だから、私は姉さんの糸を、切ることにしたんです」


 凛は息を呑む。心象風景の中で、赤い糸が青い糸を締め付けるように絡みつき始めた。


「でも、それは違う。あなたが見ているのは、歪んだ解釈なの」


「歪んでいるのは、この世界の方です」


 優里子の声が、さらに冷たさを増す。


「姉さんは、完璧な人生を生きてきた。でも、その裏で私の人生を踏みにじってきた。だから、私が姉さんの人生を……」


「そうじゃないわ!」


 凛は強く遮った。


「倉木さん、もう一度、よく見て。この青い糸は、確かにところどころ傷ついている。でも、それは誰かに踏みにじられたからじゃない。あなた自身が、自分の可能性を閉ざしてきたからよ」


 凛は、優里子の心の奥深くへと意識を向けていく。そこには、幼い頃の記憶が埋もれていた。


 運動会で2位になった日、姉は優里子を抱きしめ、「素晴らしかったわ」と褒めてくれた。しかし優里子は、姉の優しさを偽善だと曲解していた。


 高校の進路相談で、姉は優里子の夢を応援すると約束してくれた。しかし優里子は、それを見下されていると誤解していた。


「見て。これが本当の記憶。あなたのお姉さんは、ずっとあなたを愛していた。でも、あなたは自分の感情の歪みで、その愛を受け取ることができなかった」


 優里子の呼吸が乱れ始める。


「違う……違います! 姉さんは……姉さんは……」


「そして今、あなたは取り返しのつかないことをしようとしている」


 凛は、心象風景の中で優里子の手を強く握った。


「まだ間に合います。お姉さまは、マンションに地下に監禁されているのでしょう……?」


 優里子の体が大きく震える。


「どうして……どうして分かったんです?」


「赤い糸が教えてくれたの。つまりあなたの心が、無意識のうちに教えてくれたのよ」


 凛はすぐさま意識を現実世界に戻し、紫苑に向かって叫んだ。


「紫苑、警察に電話して! 倉木麻衣子さんは……」


 その瞬間、優里子が凛の手を振り払って立ち上がった。


「邪魔しないで! もう少しで……もう少しで全てが終わるのに!」


 優里子の目は、狂気じみた光を帯びている。しかし、その奥には深い悲しみが潜んでいるのを、凛は見逃さなかった。


「終わらせるのは、あなたの歪んだ思い込みのほうよ。まだ間に合います」


 凛は震える声を必死に抑えながら、優里子に向かって一歩踏み出した。紫苑が静かに部屋を出ていくのが見える。警察に通報するためだ。


「お姉さまは、今でもあなたを信じているはず」


「嘘! 姉さんは私のことなんて……!」


 優里子の声が震える。凛は、もう一度彼女の手を取ろうとした。


「本当のことを知りたければ、もう一度、一緒にあなたの心の中を見ましょう。今度は、もっと奥深くまで……」


 優里子は一瞬躊躇したが、諦めたように凛の手を取った。


 意識が沈んでいく。今度は青い糸の迷宮の、さらに奥へと。そこには、優里子が必死に封印しようとしていた記憶が眠っていた。


 幼い頃、優里子が高熱で倒れた夜。姉は一晩中、優里子の手を握り続けた。


 中学の文化祭。緞帳の向こうで不安に震える優里子に、姉は「私も緊張するわ」と打ち明け、弱さを見せてくれた。


 そして、つい先日。


「優里子、私ね、転職することにしたの」


 姉は優里子の家を訪ね、初めて弱音を吐いた。


「今の仕事、実は向いてなかったかもしれない。優里子みたいに、自分の道を見つけられたらよかったんだけど……」


 その言葉を、優里子は受け止めきれなかった。完璧な姉の、まさかの弱音。それは優里子の中の何かを決定的に狂わせた。


「嘘……全部嘘……!」


 優里子の悲鳴が、心象風景の中に響き渡る。


「違うわ。これが真実。あなたのお姉さまは、完璧な人間なんかじゃない。あなたと同じ、迷い、悩む人間」


 赤い糸が、青い糸から徐々に解れ始める。


「でも、だとしたら……私は、何を……?」


 優里子の声が、幼い子供のように震えている。


「まだ間に合います。お姉さまを救うことも、あなた自身を救うことも」


 凛は優里子の手を強く握った。


 意識が現実世界に戻る。部屋の外からサイレンの音が聞こえ始めていた。


「警察に……全部話します」


 優里子の頬を、涙が伝う。


「私が……姉さんを地下の部屋に……。まだ生きています。早く……」


 その言葉を最後に、優里子はその場に崩れ落ちた。


 数時間後。倉木麻衣子は無事に保護され、優里子は警察に身柄を拘束された。


 診察室で、凛は深いため息をついた。紫苑が静かにお茶を差し出す。


「凛先生、本当に良かったです」


 凛は黙って頷いた。そして、電車で見た赤い糸の意味を、今なら完全に理解できる。あれは、麻衣子の死の危機が作り出した心象風景。妹の歪んだ愛情が生み出した、血塗られた運命の糸。


「紫苑……。時々思うの。この能力は、本当に人を救えているのかしらって」


 紫苑は真剣な表情で凛を見つめた。


「救えています。今日の出来事が、その証じゃないですか」


 凛は母から譲り受けた一粒ダイヤのネックレスに手を伸ばす。確かに、今日は救えた。しかし、この能力には必ず限界がある。全ての心を理解することは、決してできない。


 紫苑の心が読めないように。


「ありがとう、紫苑」


 窓の外では、夕暮れが街を包み込み始めていた。優里子と麻衣子姉妹の新たな物語は、ここから始まる。そして凛は、また明日も、誰かの心の中へと降り立つ。それが、この能力を持って生まれた自分の使命なのだから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

次の更新予定

毎日 14:00 予定は変更される可能性があります

心療内科医・蒼井凛 ~魂の闇を照らす琥珀と碧の瞳~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画