第39話:「殺意の監獄」

 秋の午後、蒼井凛の診察室に一人の女性が訪れた。

 二十代後半、きちんとした身なりで、落ち着いた物腰の持ち主だった。


「初めまして、私は蒼井と申します」


 凛は穏やかな微笑みを浮かべながら、来訪者を観察した。表面上は至って普通の女性に見える。しかし、何かが違う。凛の第六感が疼いた。


「こちらをご紹介いただいたのは、何か間違いかもしれません」


 女性は冷静な声で告げた。その声音には微かな倨傲さえ感じられた。


「そうですか。でもせっかくですから、少しお話を伺わせていただけますか?」


 凛は診察用の椅子を示し、女性を促した。


 紫苑が入ってきて、二人分のアイスティーを置いていく。凛はそれに手を伸ばしたが、不意にコップに手が当たり、中身がこぼれた。


「あら、ごめんなさい!」


 アイスティーが女性の服に少しだけかかった。凛は慌ててハンカチを取り出し、拭こうと手を伸ばす。


「!」


 その瞬間、凛の意識は激しい渦に巻き込まれた。


 鮮血の色をした空の下、無数の刃物が舞い踊っていた。そこかしこに引き裂かれた人体が転がり、その一つ一つが歓喜に満ちた表情を浮かべている。血の雨が降り注ぐ中、黒い影が踊るように人々を切り刻んでいく……。


 凛は思わず手を引っ込めた。

 あまりの生々しさと毒々しさに、一瞬めまいを覚える。


「大丈夫です、先生。ちょっと濡れただけですから」


 女性は凛の手からハンカチを取ると、何事もなかったかのように濡れた部分を丁寧に拭いた。


 ハンカチを受け取る時、凛は覚悟を決めて、もう一度女性に意図的に触れる。やはり同じ光景が広がった。そして今度は、その血の雨の向こうに、嘲笑う女性の姿も見えた。


(こんなインチキ心療内科医にあたしの心がわかるわけがないわ)


 その顔は侮蔑と軽蔑に満ちていた。


「すみません、少々お待ちください」


 凛は静かに紫苑を呼び、耳元で何かを囁いた。

 紫苑はわずかに目を見開いたが、すぐに落ち着いた様子でうなずいた。


 新しいアイスティーが運ばれてくる。凛と女性は同時に口をつけた。


 つかの間の静寂。


 やがて凛が切り出した。


「あなたは……人を殺したいと思っていますね?」


 女性の表情が一瞬凍りついた。


「……先生が何をおっしゃっているのか、私には判りません」


「隠すことはありませんよ」


 凛は深く息を吸い、ゆっくりと吐き出した。診察室の空気が、一瞬凍りついたように感じられる。


「私にはわかるのです」


 凛の声は静かだが、確かな重みを持っていた。


「血の色をした空の下で、あなたは立っていた。そこには無数の刃物が舞い、まるで血の雨のように降り注いでいました」


 女性の瞳が微かに揺れる。


「あなたは丹念に想像を積み重ねてきたのでしょうね。刃物の種類は実に様々です。包丁、ナイフ、カッター、はさみ、カミソリ……。一つ一つが鈍い光を放ち、血に濡れながら舞い踊る」


 凛は女性の表情を観察しながら、淡々と続けた。


「最も印象的だったのは、その表情です。あなたは人を切り刻みながら、この上ない幸福感に満ちていました。まるで長年の渇きを潤すかのように、刃を振り下ろす。そして、その度に血飛沫が舞い上がる。それを見て、あなたは恍惚の表情を浮かべる」


「……」


 女性の呼吸が僅かに乱れ始めた。


「でも、それだけではありませんでした。あなたは殺すだけでは満足できない。切断された肉片を丁寧に並べ、その配置にまで美的な喜びを見出している。まるで血で描く抽象画のように」


 凛は机の上のペンを取り上げ、静かにそれを回転させながら続ける。


「あなたの願望は、単なる殺人衝動ではありません。そこには芸術的とも言えるこだわりがある。人体を素材として扱い、死の美を追求しようとする……そんな欲望が渦巻いているのです」


「……っ」


 女性の指先が震え始めた。


「さらに興味深いのは、被害者の表情です。あなたの想像の中では、彼らは苦痛に歪んだ表情を見せない。むしろ、解放されたかのような、至福の表情を浮かべている。あなたは自分の行為を、ある種の救済として正当化しようとしているのかもしれません」


 凛は一瞬言葉を切り、女性の反応を確かめた。


「そして最後に、私が最も注目したのは、その光景を見下ろすもう一人のあなたです。血の雨の中で微笑むあなたを、冷ややかな目で観察する観客としてのあなた。その二重性こそが、あなたの願望の本質を物語っているように思えます」


 女性の瞳が僅かに揺れる。


「これは、あなたが具体的にどのように人を殺したいのか、表している光景で間違いないですね?」


「……」


 沈黙が部屋を満たす。と、突然、女性の喉から忍び笑いが漏れ始めた。やがてそれは哄笑に変わっていく。


「はーっはっはっは! あはははは! あはははは! どうしてわかったの先生! あなたすごい! あなたすごいわー!」


 凛は冷静に、狂ったように笑う女性を見つめていた。


「そうよ! あたしは人を殺したい! 殺したくて殺したくてたまらない! だから両親はあたしをここに連れてきた! まず一番先にぶち殺したいあのクソ野郎どもにね! そうよ、あたしは今もどうやったら誰にも知られず人を殺せるかずっと考えているの! そう、あたしは殺人鬼、殺人狂なの!」


 笑い声が診察室に響き渡る。女性の目は異常な輝きを放っていた。


「先生だって、わからないでしょう? なぜ人は人を殺してはいけないの? 動物は殺すわ! 縄張りを護るために、捕食するために! なぜ? なぜ人間だけがつまらない倫理観に縛られているの?」


「それは違いますよ」


 凛の声が、静かに、しかし確固として響く。女性の表情が一変する。そこに明らかな困惑の色が浮かぶ。


「違う? 何が違うっていうんですか、先生! 人間だけが張りぼての倫理観を……」


「人がなぜ人を殺してはならないか? ……それはです」


 凛の鋭い視線が女性を刺した。一瞬、女性の表情が揺らぐ。


「一度でも殺されかけた経験があるなら、そんな質問はできません。殺されかけた人間は倫理観などという生易しいものではなく、心の底から、本能の底から、魂の底から、殺されたくない、殺してはいけない、という


「先生はいったい何を言……うっ……」


 女性が突然、胸を押さえた。そして苦しそうに喘ぎ始める。


「あなたにも、もうすぐわかります」


「ど……どういう……こと……?」


 女性の呼吸が荒くなり、額には脂汗が浮かぶ。


「そのアイスティーに致死量の毒を入れました。あなたは10


「……!」


 女性の目が恐怖で見開かれる。


「毒……そんな、ばかな……医者がそんなこと……」


「あなたの殺人衝動は非常に危険です。世に出すわけにはいきません。これは医者以前の、私の


 女性は凛につかみかかろうとしたが、すでに体に力が入らず、その場に崩れ落ちた。


「どうですか? 今のあなたならわかるのではないですか?」


 凛の冷静な問いかけに、女性は化け物を見るような目で凛を見上げた。


「人がなぜ、人を殺してはならないか?」


 女性はしばらく荒く息をつきながら凛を睨みつけていたが、やがて力なく項垂れた。


「……たくない……」


「聴こえませんよ」


 凛の言葉は容赦ない。


「死にたくない……私……まだ……死にたくない……死に……たく……ない……です……」


 女性の目から涙が溢れ出した。


「では訊きます。あなたは今でも人を殺したいですか?」


 涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を、凛は冷たく見下ろす。


 女性は力なく首を振った。


「つまりそういうことです」


「せ、先生、助けて……助けて……ください……」


「それはあなた次第ですね」


 絶望に目を見開いた女性は、それをスイッチにしたかのように静かに意識を手放した。


「大丈夫ですか、凛先生?」


 診察室の外から様子を窺っていた紫苑が入ってきた。


「ええ、問題ないわ、紫苑」


「眠っているのですね?」


「ええ。紫苑、うまくやってくれたわ」


 アイスティーには確かに紫苑が薬を入れていた。

 しかしそれは致死性の毒ではなく、一時的に急激に体調を悪化させ、気絶させるだけの薬剤だった。


「仕上げるわ」


 凛は気を失っている女性の額に触れた。


 その瞬間、凛の意識は再び女性の精神世界へと没入していく。先ほどまで咆哮していた殺人衝動は、今やばらばらに砕け散っていた。


 凛はそれを丁寧に拾い集め、ガラスの小瓶に入れていく。そして二度とそれが外に出ないよう、しっかりと蓋を締めた。


「あら?」


 枯れ木の向こうから、一人の少女が凛を見つめていた。その表情には、どこか患者の女性の面影があった。


「ごめんなさいね、手荒なことをしてしまって。……でも赦して。これは必要なことだったのよ」


 凛はそう言って、女性の精神世界からそっと出て行った。


 現実の診察室に戻った凛は、深いため息をついた。


「大丈夫ですか?」


 紫苑が心配そうに尋ねる。


「ええ……少し疲れただけよ」


 凛は窓の外を見やった。夕暮れの空が赤く染まっていた。それは血の色ではなく、穏やかな夕焼けの色だった。


「明日になれば、彼女は変わっているはずよ。今日の一連の記憶は封印され、彼女の殺人衝動を止めるくさびとなるはず……まだ予断は許さないけど」


 そう言って凛は立ち上がり、カルテに記入を始めた。今日の治療は、確かに残酷なものだったかもしれない。しかし、時には人を救うために、こうした荒療治も必要なのだ。


 窓の外で、一羽の鳥が夕空に向かって静かに飛び立っていった。

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