第41話:「意識の箱庭II ―Consciousness in a Digital Garden―」

●第4章:心の深淵


 翌日、杏は予約の時間より早く診察室を訪れた。


「システムに異常が発生しています」


 いつもの機械的な口調だが、その声は僅かに震えていた。


「どんな異常ですか?」


「記憶データの整合性が取れません。論理回路に矛盾が生じています」


 凛は静かに杏の目を見つめた。


「具体的には?」


「私は……私は……」


 杏の声が詰まる。


「先生からいただいた新聞記事を見ました。でも、それは単なるデータのはずです。なのに……なのに……」


 突然、杏の両手が震え始めた。


「私の中で、データ以外の何かが……感情という名のエラーが……


 凛は素早く杏の手を取った。


 金属の世界が広がる。しかし今回は、壁全体が激しく震動していた。亀裂が次々と走り、その向こうから様々な光景が漏れ出している。


 研究室での出来事。上司に研究成果を横取りされそうになった時の恐怖。必死に抵抗しようとする自分。そして決定的な出来事……


「!」


 凛は息を飲んだ。杏の記憶の中に、もう一つの重要な事実が隠されていた。


 上司の男は研究成果の横取りだけでなく、杏に対して深刻なセクハラも行っていたのだ。


 金属の壁の向こうに、研究室の光景が広がっていた。夜遅くまで実験データの解析を続ける杏。その背後に、上司の影が忍び寄る。


「君の研究は素晴らしい。私の目に狂いはなかった」


 その言葉に込められた意図に、杏は背筋が凍る思いがした。


 データを取る。解析する。論文を書く。それだけに集中していたはずだった。しかし、上司の視線は次第に重くなり、言葉は甘く、そして有無を言わせぬものになっていった。


 逃げ場のない研究室。閉ざされたドア。そこでおこなわれるけがらわしい行為。やがて遠ざかる足音。


「これは研究者として当然の関係だ」


 言い訳じみた言葉が、冷たく響く。


 杏は自分の体を抱きしめ、震える手でキーボードを打ち続けた。ただデータを、ただ結果を出し続ければ……。


 そして最後の言葉。


「お前はただの道具だ。私の研究のための人工知能のようなものだ」


 その瞬間、杏の中で何かが決定的に壊れた。人間としての尊厳が、氷のように砕け散る。


 感情を消せば、心を凍らせれば、もう傷つかなくて済む。


 そう信じて、杏は自分を金属の殻の中に閉じ込めたのだ。


「私は……私は……」


 杏の声が現実世界でも震えている。


「杏さん、あなたは人工知能ではありません」


 凛は強く、しかし優しく言った。


「あなたは、傷つき、怒り、悲しむことのできる、一人の人間です」


「違います! 私は……感情なんて……持ってはいけない……」


 杏の目から、突然、涙があふれ出した。


「エラーです……これは、エラーです……」


 しかし涙は止まらない。金属の殻の中に閉じ込められていた感情が、一気に溢れ出してくる。


 凛は杏をそっと抱きしめた。


「泣いていいんですよ。怒ってもいい。あなたは何も間違っていない」


 杏の体が大きく震える。そして、ついに……


「助けて……先生……」


 機械的な口調が消え、人間らしい声で杏が泣きじゃくった。


●第5章:揺らぐ境界


 それから一週間が経過した。


 杏は少しずつ、人間としての感情を取り戻し始めていた。しかし、完全な回復にはまだ時間がかかりそうだった。


「今日は、意識について話し合ってみましょうか」


 凛は、新しいアプローチを試みることにした。


「私たちの意識とは、何なのでしょう。それは単なる電気信号の集合なのか、それとも……」


 杏は考え込むような表情を見せた。まだ完全に機械的な口調は消えていないものの、その声には少しずつ感情が混ざり始めていた。


「意識は、量子状態の重ね合わせのような……いいえ、それは違うかもしれません」


「意識は、単なるプログラムだと思っていました」


 杏は窓の外を見つめながら続けた。


「でも、それは違うのかもしれない。私は……感じています。この温かさも、痛みも、すべてを」


 凛は静かに頷いた。


「人工知能と人間の違いは何だと思いますか?」


「それは……」


 杏は言葉を探すように間を置いた。


「以前の私なら、論理的思考能力や情報処理速度の違いだと答えたでしょう。でも、今は違います」


「どう違うのですか?」


「人工知能は、与えられた論理に従って動くだけ。でも人間は……矛盾していても、非合理的でも、それを受け入れることができる。そして、その矛盾の中にこそ、人間らしさがある」


 凛は密かに微笑んだ。杏の中で、確実に変化が起きていた。


「先生……私は、母を悲しませてしまいました」


 突然、杏が呟いた。


「私のせいで、母は毎日心配して……なのに、私は感情を殺して、AIのふりをして……」


 また涙が溢れそうになる。しかし今回、杏はそれを必死に堪えようとはしなかった。


「会いに行きましょう」


 凛が提案した。


「お母様は、きっと待っていらっしゃいます」


●第6章:記憶の迷路


 杏の実家を訪れたのは、その日の夕方だった。


 千鶴子は驚きの表情を見せたが、すぐに優しい笑顔に変わった。


「杏……」


「母さん……ごめんなさい」


 二人は長い間、抱き合っていた。


 凛は少し離れた場所から、その光景を見守っていた。その時、ふと目に入ったのは、棚に飾られた一枚の写真。


 幼い杏が、父親らしき人物と一緒に写っている。


「あら、それは主人と杏の写真です」


 千鶴子が凛の後ろに立っていた。


「主人は、杏が小学校に入る直前に亡くなったんです。でも不思議なことに、杏はその時のことをほとんど覚えていないんです」


 凛は写真をじっと見つめた。そこには、どこか寂しげな表情の杏が写っていた。


「私……父のことを……」


 杏が近づいてきて、写真を手に取った。


「なんで……記憶がないんでしょうか?」


 凛は直感的に感じた。ここにも、重要な鍵が隠されているのではないか。


「父のこと……思い出したい」


 杏の声は震えていた。しかし今回は、機械的な冷たさではなく、人間らしい感情に満ちていた。


「一緒に探してみましょう」


 凛は静かに杏の手を取った。


 金属の世界が広がる。しかし今回は、壁の様子が明らかに違っていた。これまでの冷たい金属の質感は薄れ、どこか温かみのある光沢を帯びている。そして壁には、これまでより大きな亀裂が走っていた。


 凛は杏の意識とともに、その亀裂の中を覗き込んだ。


 そこに広がっていたのは、病院の廊下だった。


 小さな杏が母の手を握り、病室の前で立ち尽くしている。中からは、機械の規則正しい電子音が聞こえてくる。


「これは……」


 凛が呟いた時、景色が急に変化する。


 今度は研究室。杏が実験装置の前で立ち尽くしている。そこでも、同じような電子音が鳴り響いていた。


「私は……父の死の時、この音を……」


 杏の声が響く。


「それで……機械の音に……」


 凛は理解した。幼い杏は、父の死に際して聞いた医療機器の音に深いトラウマを負っていた。そして研究室で似たような電子音を日々聞いているうちに、無意識のうちにそのトラウマが再燃したのだ。


 上司からの「お前は人工知能のようなものだ」という言葉は、そんな杏の深層心理を決定的に傷付けてしまったのだ。


 そのとき凛の意識は、杏の心象風景の中で二つの異なる時空が重なり合う瞬間を目撃していた。


 病院の廊下。


 六歳の杏が母の手を握り、ICUの前で立ち尽くしている。扉の向こうから、規則正しい電子音が響いてくる。


ピッ……ピッ……ピッ……


 生命維持装置の音。父の命をつなぎとめようとする機械の音。幼い杏には、その音が父の存在そのものと重なって聞こえていた。


 そして、その音が突然途絶えた日。


「……パパの音が聞こえない……?」


 幼い杏は何度も何度も病室の前で耳を澄ませた。しかし、もう二度とあの音を聞くことはなかった。


 場面が変わる。


 研究室。実験装置から同じような電子音が響いている。


ピッ……ピッ……ピッ……


 量子状態を測定する機器の音。データを記録する装置の音。あの日と同じリズム、同じ周波数。


 そして、その音に重なるように上司の言葉が再び響く。

「お前はただの道具だ。人間ではない。人工知能のようなものだ」


 凛は理解した。杏の意識の深層で、二つのトラウマが重なり合っていたのだ。幼い頃に体験した喪失の痛み。そして研究室での尊厳の喪失。二つの傷が、あの電子音によって橋渡しされ、増幅し合っていた。


 意識は防衛的に働いた。もし自分が本当に人工知能なら、この痛みからも、喪失からも、自由になれる。感情を持たない機械なら、もう二度と大切なものを失う苦しみを味わう必要もない。


 凛は杏の記憶の中で、幼い少女が少しずつ感情を閉じ込めていく様子を見た。それは生きるための必死の選択だった。しかし同時に、その防衛が新たな檻となっていく過程でもあった。


 心象風景の金属の壁には、かすかな震えが走っている。その内側から、押し殺された悲しみが染み出してくるようだった。


「先生……私は……」


 現実世界で、杏の声が震えている。


「大丈夫ですよ」


 凛は静かに言った。


「あなたの中の、あの少女の悲しみにも……ちゃんと寄り添っていきましょう」


 治療室の窓から差し込む陽の光が、杏の頬を伝う涙を優しく照らしていた。


 それは、長い沈黙の後に、ようやく解放された感情の光のようでもあった。



「先生……」


 現実世界に戻ると、杏は涙を流していた。


「私は、父の死からも逃げていたんです。感情を失くして、機械になれば、もう二度と大切な人を失う痛みを感じなくて済むと……」


 千鶴子も、娘の告白を聞きながら静かに涙を流していた。


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