第2話
ようやく、プリントに名前を書くとき間違えて『4年1組』と書くことも少なくなってきました。でも出席番号はたまに間違えちゃう。
朝、教室に入って、この前までは挨拶を交わす相手なんて誰もいなかったけれど、今は姫花がいます。
「おっはー! えっとねぇ、今日は学年集会と、委員会と係決めと、あとなんでかはわかんないけどいきなり席替えするらしーよ。まだ5月なってないのにね」
姫花は毎日のようにこうやって、わたしが訊かずとも色んな情報を伝えてくれます。わたしは声が出ないから人に尋ねるのが難しいし、おしゃべりの中で知るような情報を知れないので、とても助かっています。姫花自身、わたしのために、と思って教えてくれているのかはわかりませんが、そうでなくてもわたしはとても嬉しいので、絶対にありがとうを伝えることは忘れません。いつもみたいなメモじゃなくても、挨拶程度であれば姫花なら口パクでも伝わるので。
「そっれよっりさー! 委員会だよ委員会!!」
姫花のテンションがいつもに増して高く、スキップしてるみたいな話し方になってるけど、それもまあ納得です。委員会活動は5、6年生に任されるので、わたしたちは初めて。きっと、どきどきわくわくでしょう。わたしもです。
「夏俐なんにするのか決めた? どうせなら一緒のがいい!」
はしゃぐ姫花の前で、いつものメモを取り出します。
〝放送と計画集会以外!〟
「だははっ! そうだね、そのふたつってアナウンスと司会だし絶対声要るもんね」
小さいときから一緒の姫花は、何もわたしに気を遣わないでくれる友だちです。気を遣われてることに気を遣ってしまうから疲れることをわかってくれていて、わたしは本当に姫花といるのが楽です。声が出ないのがわたしの当たり前だから、今さら悲しいもなにも、ないですし。
「んじゃねー、飼育栽培とかよくない? あと広報掲示とか。あ、図書は!?」
わたしは本が好きなので、姫花は名案だとばかりに目をキラキラさせて提案してくれたのでしょう。でも、これは残念ながら首を横に振ります。
「えっ、なんで?」
〝よみきかせと、かし出し対おうが〟
貸し出しのカウンター対応はまあ何とかなったとしても、金曜給食中の放送読み聞かせはわたしには不可能です。『以外項目』に図書委員を加えるのを忘れていました。
そうなるとわたしが選べる委員会は、さっき姫花が挙げたものの図書以外か、環境美化や保健委員会です。体育委員もあるけど、目立つのでしたくありません。
どうしようかなぁと一応考えているうちに集会は終わり、教室での委員会決めが始まりました。学級の係はその次に決めるみたいです。
黒板には委員会名がずらっと並び、その下にはそれぞれ募集人数が男女別に書かれています。赤の数字が女子で、青が男子。
担任の先生が大きな声で指示をして、みんなが一斉に黒板前へ集まりました。それぞれ自分の名前のネームプレートを持っています。いつもは机に磁石で貼ってるやつです。
結局じゃんけんになるのだから早いもの勝ちじゃないのに、黒板の前は我先にという子たちでひしめき合っています。そんな意味なき戦場の中に割り入る勇気のないわたしは、そこが空くのを隅でじっと待っていました。そしてやたら騒がしい女の子がどいた隙に、姫花と同じ飼育栽培のところにネームプレートを貼りました。女子は定員オーバーしちゃっています。まあ、じゃんけんで負けたらそれはそれで仕方ないことです。
席に着くと、先生はうーんと腕を組んで黒板を見つめていました。この先生は、若くて明るくて面白い先生というふうに定着しはじめています。
しばらくして先生はわたしたちのほうに向きなおると、先生らしいぱっと明るい笑みを浮かべました。
「先生ね、こういう大事なことで運頼りとか嫌なんだ。だからできるだけ話し合いとかにして、じゃんけんは最終手段にしようと思います。みんな、それでいい?」
なるほどそれは平和だな、とわたしは素直に思いました。でも少し考えて、一部の子たちは押し負けるんじゃないか、とも思いました。例えば、人よりも気弱で反抗できない子とか、……物理的に会話交渉ができない人とか。
「まずは図書ね。女子がオーバーしてる。誰か5人の中で他に移っていい人ー?」
さっきからずっと視線を交わし合ってたふたりの女子が、同時に手を挙げました。まとまって移ることで確実に一緒の委員会になる作戦でしょう。
こういった先生主導の話し合いなら押し負けることもないな、とわたしは少し安心しました。
安心、してしまいました。
「えっちょっと待って、放送委員希望してる人、男子ゼロなんだけどまじ?」
ゼロも何も、放送委員の男子の募集はたったひとりだけど。
そういえば、放送は他よりも少人数の委員会らしいです。ですが他の委員会で希望者が誰もいない欄はなく、そう見ると確かに放送だけゼロなのは目立ちます。先生が大声で指摘するくらいには。
「あとは飼育と掲示以外良い感じに分かれてるのにー、もぉ男子誰かいない?」
男子は女子と違いメンバーに無頓着に見えますが、さすがにひとりぼっちは嫌なのでしょうか。だれも希望者はいません。
わたしは黒板を見ていて、あれ? と思いました。
人数に過不足があるのは、放送以外はさっき先生が言ったふたつですが、そのどちらも女子の話。男子は奇跡的に希望でぴったし割れているように見えます。でも放送は男子が足りてない。今日は欠席者もいない。どうして?
そうか。ということはつまり、どこかの定員の数字が間違っています。わたしの他にも首を傾げる子が続出したので、恐らくそうなのでしょう。
唇をとがらせて考えていた先生もそのことに気がついたのでしょう。手元の紙と黒板を見比べて、環境美化の青い数字を無言で消し、ひとり減ったものに書きかえました。
「で? 放送誰も希望者いないの? 男子」
晴れ渡っていた空がだんだん曇るように、先生の顔が不機嫌なものになっていきます。
「じゃあもう先生が指名するよ?」
男子がざわつき始めました。指名ってつまり命令。それが通用したらもう話し合いじゃなくなります。
「人数オーバーの美化の中から……んじゃ、
全員の目が教室右側に吸いよせられます。困った顔の怜歩さんのひとつ後ろで、河井さんと呼ばれた男の子は固まっていました。
わたしは彼のことをよく知りませんが、嫌がっていることは彼の態度ですぐにわかりました。
「どう? 放送」
火がつくんじゃないかというくらい顔を真っ赤にした河井さんは、小刻みに首を横に振りました。
「お、なんで嫌なの? 起立して理由をお願いしまーす」
河井さんは、動きません。
不穏な空気を全員が感じ取りました。
「んー、そうかそうか」
納得している言葉でも、声色はそうじゃありませんでした。
「じゃあ君じゃなくて、みんなに決めてもらおうか!」
「…………………………」
うんうんそれがいい、と、ひとりで納得している先生は、怖い大人の声をしていました。それも、怖い大人が子どもに向けて使う声。誘拐犯は明るい声をしているんだと訓練で教わりましたが、こういうことなのかもしれません。
話し合い、という安心を見事に裏切られたわたしたちは、困るほかに何をしていいのかがわかりませんでした。
これなら、いっそ運任せにしていれば。
「はーい放送の男子は河井さんがいいと思う人ぉ、拍手~」
拍手。立候補者がひとりしかいないリーダー決めとか、逆に反対する理由が誰もない際によく使う話し合いの締め方です。
今は、誰もがこれはおかしいと思っています。
河井さんは、震えていました。
当然、突然の独裁に困惑したわたしたちが無慈悲にも手を叩けるわけなく、5の3には先生の拍手だけが虚しく響きました。
「みんなひどいなぁ、ひとりも賛成してくれないなんて。そっか、そんなに河井さんはふさわしくないのか。可哀そうに」
ひどいのはどっちでしょう。手を叩かれたほうが可哀そうです。
教室が物凄い空気になりました。……肺が潰れそう。
河井さんは、身体ごとぺしゃんこになりそう。
彼は、じっと耐えるようにうつむいていました。
「はいじゃあもう一度、拍手〜」
怖い。
怖いです。
先生はかなり長い間、ひとりで無言で手を打ち続けました。まるで、いや、もしかしなくても、わたしたちが拍手しはじめるのを待っているみたいに。
この怖くて重たい空気から逃げたかったのか、単にめんどくさくなったのか、まさか河井さんにいじわるするつもりの人はいないでしょうけど、教室中からまばらに拍手が集まってきます。
その音も、怖いです。
やがて、ひとりがすればまたひとりが始めて、自分の意志がない連鎖が続き、少ないほうが多いほうに飲みこまれていきました。じわじわと降りはじめた雨の音みたいです。ぱらぱら、ばちばち。
こんなの、針の雨です。
わたしは握った両手を机の下に隠しました。
河井さんは、針が突き刺さって動けません。
先生が拍手を止め、河井さんのネームプレートを明るい声と共に放送へ移した頃には、教室の中が心なしか、さっきよりひと回りふた回り暗く見えました。
「おっけー、あとは……」
先生は黒板に向けた視線をその流れで壁の時計へ向けました。もう、時間がない。
すると、先生が目を疑う行動を起こしました。
先生は、飼育委員のところに貼られた名札のいちばん下、わたしの名札を勝手に取って、何も言わず掲示委員に貼りかえました。
息をのみました。
物理的に言い返せないですし、それを見ていた人もごく一部でした。みんな優しいから、顔を上げない河井さんに気が行ってる人がほとんどでした。いや、そのみんなはさっき拍手をしたほとんどの人です。針を浴びせるような人たちえも優しい、のでしょうか。
「みんなー、委員会決まったよ。これでいい?」
その声で久しぶりに全員の視線が黒板に注がれます。
河井さんの一連の混乱で、みんな飼育と掲示の過不足については忘れているみたいでした。それか、反論する気がないだけなのか。
その中で唯一、姫花が何か言おうと手を半分まで挙げたそのとき、阻止するようにチャイムが鳴りました。
学校は君たちみんなのものだ、と校長先生は言うけれど、やっぱり先生たち大人のもので、そして先生の味方なんだなと思いました。
まるで何事もなかったかのように日直さんが号令の挨拶をして、終わりました。
蓋をされた、と思いました。
このままでは、河井さんもわたしも、本当に終わってしまいます。
そう焦りながらわたしは何もできないでいると、「先生!」という声と共に教卓へ走っていく姫花の手を、数人の女子が反対向きに引っ張っていました。
姫花は危険から逃れました。
でもわたしたちは、ただ理不尽を見ただけです。
それでもなお抗議しに行こうとする姫花は、優しすぎて怒りで頭がいっぱいなのでしょう。わたしにだけでなくみんなに優しい。拍手を一切していなかったのも、後ろからちゃんと見ていました。
そんな姫花を、悪気もなく全力で止めている女の子たちは、姫花には優しいのでしょう。恐らくわたしたちのことはどうだっていい。拍手も、していました。
でも、それでいい。
わたしも、わたしのことはどうだっていい。拍手は、しなかったけれど。
目をふせて、静かに立ち上がります。
わたしも女子たちと一緒になって、姫花を止めました。女の子たちはわたしの目の前で、わたしのメモ書きに全力で賛成していました。
〝姫花がいやな目にあう。行かないほうがいい〟
〝わたしはけいじ委員でも別にいい〟
そのとき、気がつきました。姫花を止めていた子たちは、飼育委員になった子たちでした。
せめて、姫花への優しさなんだと、そうだったらいいなと、思います。心の中で言い聞かせます。
同委員の女の子たちだけでなく、わたしの説得も受けてようやく落ち着いたらしい姫花だけど、やっぱりこの理不尽には納得がいっていないようでした。当事者ですら諦めてるのに、姫花はすごい。
それに、河井さんに比べれば、私は恥ずかしい思いも怖い思いも痛い思いもしていません。
加えて、今回のは誰に起こってもおかしくなかった理不尽でした。わたしが今、そんなに悲しくない理由のひとつはそれでしょう。
『わたし』だから理不尽を受けたわけじゃないってこと。
わたしにはもう既に理不尽の場所がある。どれもこれも仕方がないこと。
仕方ない、このクラスでも、これからもずっと。
河井さんが自分の席で泣いていることも、そこに誰も近寄ろうとしないことも。
教室全体の空気が淀んでいました。
学級の仕事をする係を決めて、それから席替えをします。
「別にくじで決めてもよかったんだけどねー、今日はもう時間ないから、時間がなくなったとき用に先生が作っておいた席順にします」
今日はもう時間ないから、と言ったときに、先生が誰のほうをちらりと見たかなんて、小学校で生きるわたしたちなら直接見なくても気配でわかります。
新学年が始まったばかりでテンションの高い今朝のようなわたしたちだったら、ここで文句の声が上がったりでもしたのでしょうか。実際のわたしたちは、素直に慎重にうなずきました。
教室のテレビ画面に表示された座席表に従って、わたしたちはがちゃがちゃと音を鳴らしながら机を移動させます。
私は、まだ机を動かせずに固まっていました。
画面にたくさん並ぶ、四角と名前。
わたしの隣は、あの河井さんでした。
こんなこと……。
「夏俐どうしたの? どこかわかんない?」
後ろからやってきた姫花に不思議そうに訊かれましたが、姫花は座席表の中のわたしの席を見つけると黙りました。
今日は教科書が少ないから机が軽いのはいい。でも新しい席に着くと、周りの空気が重かったです。河井さんじゃなくてそれをとりかこむわたしたちが作り出した空気だから、彼はなんにも悪くないけれど。
休み時間になりました。まだみんな友達関係やグループの基礎ができていないのか、教室は割と静かです。自分の席についている人も多い。
だから、聞こえてしまいました。
「河井くんってさ」
わたしの後ろに座った女の子たちの会話です。ひそひそ話でも、いやに神経がとがってしまったわたしには聞こえてしまいます。そういえば高学年になると先生が生徒を名字で呼ぶようになるからでしょうか、生徒同士も名字呼びが流行るようです。
「……ねぇ? 放送ってさ、できるのかな」
女子特有の、小声どころか声にも出さずに意思疎通する内緒話から、わたしは頭の上にハテナマークを浮かべました。
放送ができるのかな、って、もしかしてできない事情があるのでしょうか。
あの子たちの「ねぇ?」は省略せずに言えば「なんとかだもんねぇ?」でしょう。そのナントカに入る事柄が、わたしには思いつきませんでした。
河井さんと同じクラスになったことは一度もありません。なんとなく物静かでおとなしい人、という情報くらいしか思いつきませんでした。
休み時間、姫花は友だちと話してて忙しそうなのでわたしは暇です。いつもはこういうとき本を読んで過ごしているけれど、あいにく今週までは図書室が開かないので本がありません。学級文庫もまだ届いてません。
隣の河井さんは、もう泣きやんでいます。真っ赤な目をふせて、じっと耐えるように唇を噛んでいます。
こんなとき、みんななら、そして姫花みたいな強い子なら「大丈夫?」と優しく声をかけることができるのでしょうか。河井さんに話しかけたからといっていじめられることなんてないだろうし、仮にクラスがそんな空気になったとしても、隣の席の子だからという理由で正当化されて許されます。
でもわたしは、声というものを持たないので、無理です。
緊張していると、暇なはずの10分の休み時間はすぐに過ぎ去りました。
授業中、わたしは大事なことを忘れていたと気づきました。
隣の河井さん。――彼は、
素敵な名前だから名字の印象がなくて、すぐ気づけませんでした。
とつぜんはっと思い出して、思わず隣の彼を見つめました。彼は暗い顔で手元の教科書に目線を落としています。その裏表紙には間違いなく、河井夕灯の記名。
夕灯さん。彼は、学年合唱の伴奏者、つまりはピアノの人です。
そうだ、あの人だよ。あのピアノの。まさか、あの。
わたしはずっと、あの伴奏の男の子のことをすごいと思っているんです。
なぜなら、わたしは伴奏にずっと憧れているから。
歌の時間、ただ立ってるだけの邪魔者のわたし。そうならないためには、伴奏をするしかないのです。伴奏者になれば、わたしはみんなの歌声を背中に浴びながらただ時が過ぎるのを待つ置物になんてならずに済むのです。
でも、そんなピアノの腕はわたしにはない。だから、毎年必ず伴奏を務める夕灯さんみたいになりたいと、ずっと思っていました。
いくら忘れんぼうのわたしだとはいえ、こんな憧れの人なのにすぐ気がつけなかったなんて。おびえる彼の姿が、あの堂々としたピアノとどうしても結びつかないからなのもあるのでしょうか。
すると、いきなり先生が大きな声でわたしたちに呼びかけてびっくりします。しまった、ぼーっと考え込んでいました。わりと長時間見つめられていた夕灯さんはなんだかちょっぴり気まずそうです。
ご、ごめんなさい。
……声にはならないけど。
「はーいじゃあここから段落ごとに読んでもらいます!」
発表か。わたしは手を挙げることも当てられることもないから安心です。その分成績を下げられてる気がするのは、うん、さすがに気のせいでしょう。
「次、じゃあ河井さん」
席順で回ってきただけですが、先生が彼の名前を呼んだとき、クラスの空気が一瞬張りつめたような気がしました。
次の段落。……わあ、長文。
ガタッ、と、彼は緊張気味に立ち上がります。
「………………」
「……河井さん? 4ページの始めあたりだよ〜」
「………………」
「あら、わからないかな〜? 隣の人に教えてもらって」
ど、どうしよう。まあ、教えるくらいなら喋らなくても……。
わたしは自分の教科書を指さして、頑張って伝えます。
……あれ? 彼は同じページの同じ文を見ています。つまり、わかってるのかな。どうしたんだろう。
「……っ…………」
大丈夫かな。
――次の瞬間、教室中から怖い大笑いが起きて、先生は困ったように、でも笑っていて、わたしはただただびっくりしました。
笑っちゃいけないやつだってみんなわかってるはずです。特に、今日の夕灯さんのことは。
それなのに笑いがこらえきれなかったのか、張りつめすぎた空気のせいで変な笑いがでてしまったのか。
「ほらぁみんな、笑っちゃだめ! 河井さんも頑張ってるんだから」
くすくす言いながらみんなを落ち着ける先生。
隣の彼は、真っ赤でうつむいて、震えていました。
彼に笑い声の矢が飛ばされた理由は、きっと彼の発した言葉にあるのでしょう。
初めて聞いた彼の声は、こうでした。
「だ、だだだだだだけ、どどっ、どっ……」
だけど、女の子は諦めませんでした。が、1文目。
言葉を思い切り詰まらせた夕灯さんをみんなが笑っていました。
そして、彼が最後まで読み終わるのを待たずに、ついに授業は終わってしまいました。
彼はずっと、真っ赤で目に少し涙をためて、ぎゅっと唇をかんでいました。
わたしは、心臓がばくばくしていました。そして、よくよく考えました。
そうだ、放送委員を嫌がっていた彼の声を、そういえば今まで一度も聞いたことがない。今だけ緊張で話せなくなっている、というのも考えたけど、さっきの女の子たちの会話がひっかかりました。
『……ねぇ?』
あの話し方は、あの声は、わたしにも使われたことがあるのです。
『あの子って、ねぇ? なんで普通のクラスに……』
だから、もしかして。
夕灯さんは、わたしと同じで、話すのが難しい人なのではないか。
……つらい思いをしている彼には申し訳ないけど、わたしは、彼に、淡い希望を見てしまいました。
そしてこの日、わたしは残りの半日を耳を澄ませて過ごしました。
そうしてみると、やっぱりです。夕灯さんは、号令のがんばりますも、給食のいただきますも、帰りのさようならも、声に出してはいなかったのです。
みんなと声を合わせて言うだけだから、緊張はきっと関係ない。
やっぱり、夕灯さんは……。
放課後、わたしは、校舎のすみっこのとある教室にとんでいきました。使われてない教室が並ぶ廊下の奥、そこは、わたしたちの担任の先生とは少し違う種類の先生がいて、空気もちょっとだけ違います。
そして、この学校で手話が通じるのはここの先生だけです。
先生は教えてくれました。
「夕灯さんは上手く話すことが難しい」と。
先生が使った「上手く話す」という表現がとても心地よくて、「普通に」と言わないこの先生のことがもっと好きになりました。手話で訊いて声で答えてもらうという会話を少し重ねて、わたしはちゃんとお礼を伝えてこの教室を後にしました。
先生が教えてくれたことと夕灯さんの姿を重ねながら、いつもより力強く通学路を歩きます。
上手く、話せない。形こそ違うけれど、それはわたしも彼と同じ。
わたしと似ている、同じ、人がいる。
それだけで、とても勇気がでました。
しかもそれが、あの憧れの伴奏者、夕灯さん。
彼のことをもっと知りたいと、よりいっそう強く思うようになりました。
そしていつか、いつか。
雨の香りがまざった風が、優しくわたしをなでていきます。湿ったアスファルトを歩いて青い空を見上げながら、わたしは人生で初めて、新学期に希望をもっていました。
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