第27話
伴奏オーディションがあったのは、空が豊かな日でした。遠くの空にどっかりとそびえ立つ入道雲を眺めていると、緊張が持っていかれるようなふわりとした感触を心に覚えます。
屋根のない3階渡り廊下の真ん中で、わたしは空に向かってうんと伸びをしました。右手に握りしめているのは、『祈りの歌』の楽譜。
さあ、これからだ。自分を奮い立たせながら前に進んで隣の棟に入ります。ギラギラな夏の外と室内の明暗の差で視界が一瞬真っ暗になり、復活するとすぐ左に曲がりました。音楽室はもう目の前。
地元の市民楽団のポスターが貼られた引き戸をガラガラと開けると、授業で使う席にぽつんと座っていた夕灯さんと目が合いました。彼の膝の上にもまた折りたたまれた楽譜が置かれています。彼のほかに児童は誰もいませんでした。
そして黒板の前に立っていた音楽の先生と向き合います。彼女は何か言おうと口を半開きにして、わたしの手にある楽譜を認めるとそれをさっと閉じました。
弾けても弾けなくても一度は音楽室に来いと、オーディションを申し込んだときの先生は言っていました。わたしが、やっぱりできませんでしたごめんなさいと伝えにきたと思ってたのでしょうか?
そんなこと、あるわけない。
わたしなりの宣言の気持ちを込めて、楽譜を胸に抱くと静かにまっすぐ頭を下げました。
「……………………」
よろしくお願いします。が、聞こえるように。
「……わかりました。楽譜を貰いに来たのはふたりだけですので、もう始めましょうか」
気だるそうにそう言うと、先生はかつかつと靴の音を立てて準備を始めます。その背中を見て、わたしは第一関門を越えた安堵でほっと息をつきました。
蛍光灯のついていない寂しげな音楽室に3人。
これから始まるのは、きっと秋に歌うみんなは知らない勝負です。
夕灯さんと向かい合って、示し合わせたように同時にふたりで大きくうなずきました。審査員への次は、お互いへの宣戦布告です。
仕切りのついたてカーテンでグランドピアノの前を隠し、夕灯さんとふたりで先生にばれないよう弾く順番を決めます。持つ時間はできるだけピアノの練習に当てたかったので、この1週間はほとんど話すこともありませんでした。ちょっとだけど久しぶりに顔を合わせると、やっぱり勝手に笑顔になってしまいます。
じゃんけんで決まったのはわたしが先、彼が後。「決まりました?」と訊く先生にふたりでうなずき、うなずいただけじゃ後ろを向いている彼女には伝わらないことに気づいて夕灯さんが「はい」と声で答えました。
広い空間にたった3人の緊張に満ちた音楽室に先生の冷たい声が凛と響きます。
「では、良いタイミングで弾き始めてください。録音も始めていますから」
先生の座る横の椅子に置かれた重そうな黒い機械を見てごくりと唾を飲み込みます。先生と夕灯さんと録音機、それぞれに聴かれていると意識すると緊張の虫がざわざわとうごめきます。
先に弾くのはわたしです。震える手で譜面台に楽譜を広げ、ピアノの先生から言われた通りに椅子の高さを確認します。わたしは人より背が低い。ペダルが届かないと大変なことになります。
背後の夕灯さんは窓辺に寄りかかって待機しています。昨年のオーディションの日、黙々と給食を食べ進める彼を見て緊張とかしないのかなと疑問に思ったけれど今ならわかる。感情がちょっと読み取りづらくなっているだけで、あの夕灯さんだってちゃんと緊張くらいするのです。
緊張するのは悪いことじゃない。それはさすがのわたしでも知っています。緊張なんて、武者震いと言えばかっこよくなりますし。そう、これは武者震いなのです。
夕灯さんがいるところの窓は換気のために開いていて、夏の日差しで乾かされた熱い風が背中に吹き付けます。その風に促されるようにわたしは大好きな白黒の上に両手を構えて、歴代の先生や児童に使い込まれてピカピカなペダルに右足を掛け、すうと爽やかな空気をひとつ吸いました。
わたしの本気が、始まります。
夕灯さんの『祈りの歌』には、やっぱりまったく風が吹きませんでした。彼の言う「縛るもの」がオーディションはたくさんあるので当然といえば当然です。いつか誰もいない音楽室で風の吹くピアノを聴かせてほしいな、わがまま言ってみようかな、とわたしは彼の番のときひそかに思っていました。
どきどきが止まらないふたりのピアノを弾き終えて、審査をするので出てってと言う先生の指示のままわたしたちは音楽室を出ます。すぐそこの廊下の壁にもたれて座り、ふたりともしばらくはただ何もせず黙っていました。
動いたのはこれもまた同時でした。本番を終えてふわふわしていた気持ちが渡り廊下からの風に冷やされて落ち着いたのが丁度同じときだったのでしょう。
お互いの顔を見て、夕灯さんは声で言い、わたしは同感すぎたのでそれに大きくうなずき返しました。
「やばいね」
やばい。
これは、これはさすがにやばいとしか言えない事態です。いやわたしは昨日から予想はできたはずですが、現実味がなさすぎて。実際に起こるとこんなにやばいしか浮かばないものなのですね。
ああ、今でも信じられない。だって、こんなわたしが、1週間で伴奏のすべてをペダルも込みで、テンポも規定通りに弾き上げることができたなんて。夢の夢のまた夢だと思っていた伴奏が、もうこんなに目の前に。
そしてつまりそれは、歴代の伴奏者である夕灯さんと同等のレベルだということを意味します。伴奏オーディションの合格条件は、1週間でこの合唱曲の伴奏をすべて弾き上げること。今回の参加者ふたりはどちらもそれをクリアしています。
そんなことはうちの学年で前代未聞です。ここからどのように審査されるのか、それは、誰にもわからないことでした。
だから小学6年生のわたしの持ちうる語彙でひとことにまとめるとこう。やばい。
でも、でも期待とはしなければしないほうが楽に生きられるものです。頑張って頑張ってぎゅうぎゅうに押さえつけておけば、いざというときに反動で絶望の谷に落っこちる危険がなくなります。もう演奏は終えたのです。今からわたしがどれだけ心の中で無理だ無理だ絶対に無理だと唱えても、ピアノの出来が変わることはありえないので大丈夫。そう、わたしなんかにできるわけはない。絶対に無理。ありえない。だって相手はこの夕灯さんなのだから。
もしかしたら弾く前以上かもしれないほどの緊迫した空気がわたしと夕灯さんの間2メートルに流れています。こんなふたりの間に挟まれて、壁の真っ赤な消火栓はさぞかし居心地が悪かったことでしょう。
「……!」
ガラガラと戸の開く音がしました。参加者ふたりのオーディションにしては長すぎる審査時間もようやく終わったようです。
わたしと夕灯さんはさっと立ち上がります。身体の中に詰まっているものがすべてふわりふわりと揺蕩うようでした。緊張を越えた境地を始めて体験したかもしれません。
気の抜けた真夏の昼休み。こんなに張り詰めた空気なんてきっと説教中の校長室ですら流れていないでしょう。
音楽の先生が厳粛に口を開きます。
「では」
ああ。
「今回のオーディションの結果として」
ああ、心臓が痛い!
「まず、ふたりとも不足なく弾けていましたね。先生には判断が難しいほど互角でした」
先生特有の喋り方です。相手が大嫌いなわたしだとしても、ワンクッションは置くのですね。
でもわかっています。どうせ、あなたの中で決着はついて……
「ですので、再オーディションを行います」
何度も練習した台本をなぞるような自然さで、わたしと夕灯さんが顔を見合わせました。上気した頬と見開かれる瞳が、至近距離。
……え?
ええっ!?
またまた同時に、ばっと先生の顔のほうをふたりで向きました。
再オーディション。前代未聞中の前代未聞です。
「3日後、10日の昼休みにまた集まってください。では、解散します」
そう言うと先生はさっさとどこかに帰っていきました。まだ解散できるほど落ち着いてないわたしたちは、お互いの顔を見たり音楽室を見たり忙しく動いた後、ようやく現実を呑み込んで息をつきました。
わたしは心のどこかで、音楽の先生がわたしを受からせるはずはないと、きっと誰が弾いているか見えなくてもあの人にはわかるんだと、期待を押さえつける目的に関係なくそう思っていました。でも、そうじゃなかった。きっとわからなかったんだ。それくらい、おんなじだった。互角っていうのは嘘じゃなかったんだ。
ダイヤモンドのような煌めきが心を熱くするのを感じます。それはわたしをさらに頑張らせる動力源になって、今ならなんでもできそうな気までしました。
誰がどう考えても無謀な勝負。でも、ここまで来てる。
2日後に砕けてもいい。やってみようじゃない!
隣で赤い顔をしている夕灯さんに片手を差し出します。正々堂々の勝負を誓う再びの握手です。今回もまた、ちょっと恥ずかしそうにしながら優しく握り返してくれました。節張ったその手指は、ピアノと友だちの証です。
このときに彼の思いを知っていれば、誰も傷つかずに済んだのかもしれません。
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