〝6年、また夏が来る〟
第26話
遠くの空が爽やかなゼリーみたいに透き通る光を放っていました。お手本のような梅雨晴れです。
波乱に満ちた5年生の頃が嘘のように穏やかな日々。今の担任の先生はわたしが声が出せないことをちゃんとわかっていてくれますし、そのおかげなのか、クラスの人の視線も幾分か柔らかいものになっています。それどころか、なんとわたしと本の話をしてくれる女の子までいるのです。姫花以外の女子と他愛もない話をしたのは本当に初めてだったかもしれません。
6年2組の教室からは近くの無人駅が見えて、わたしはその屋根に乗る乾ききらない雨粒がキラキラするのを眺めながらふと夏のことについて考えました。あさってからまた雨がいっぱい降って、それを越えたら小学校最後の夏がやってきます。夏といえばやっぱり夏休み。だけど、今のわたしはまったく別のことに夏を透かし見ていました。
夏といえば、伴奏。
合唱伴奏のオーディションが、今年もまた行われます。
「いいじゃんやりなよっ!!」
放課後、校舎から門までの長い道。伴奏の話題を出すと、姫花は弾けるような笑顔で背中を叩いてきました。クラスが離れた上に姫花は友達がさらに増えたので、顔を合わせてちゃんと話すのは実に1週間振りです。
「あたしは音楽のこととか全然わかんないけどさ、夏俐なら絶対できる! だって意外と度胸あるし、みんなの前でも弾けるでしょ!」
度胸はありませんが……。でも、大勢の前で弾くことに抵抗はそこまで感じません。いざとなると緊張するものなのでしょうか? 歌えない邪魔者のくせに合唱の列に混ざるよりかは、よっぽど息がしやすそうな気がします。観客の視線を浴びることもないですし。
しかし、そんなことは今なんの役にも立ちません。なぜなら、まずはオーディションに受からないことには話にならないからです。
「オーディションねぇ……夕灯さんが強敵だもんね」
そうです。それに4、5分ほどある曲のすべてを1週間で弾き上げられなければ合格の道はありません。たった7日で楽譜を読み切り全部弾けなければ、戦力外で夕灯さんと争うことすらできない。その上、審査するのはあの音楽の先生。わたしを受からせるわけはありません。
だからわたしにもわかっています。オーディション合格は難しいどころじゃなくて、わたしなんかには絶対に無理。太陽に風が勝つくらいありえないことです。それでも、これがラストチャンスだと思うと、心がぐっと引っ張られます。
やってみたい。豊かに揺れる草花を支えてみたい。邪魔者から、脱却したい。
熱く焦がれる気持ちと昨年の恐怖が相まって、今なら死にものぐるいで手を伸ばせるような気がします。
もしも伴奏ができれば、邪魔じゃなくなる。そうすれば全部上手くいく。音楽の先生でもきっともうあんな扱いはできなくなるだろうし、わたしの左右に立つ子から(口パクだ)と冷たい視線を送られることもない。お母さんだって、きっと、わたしの出番まで残って観てくれるようになる。
夢は際限なく膨らんでいきます。今までの孤独感を、あの痛みを、今年ですべて塗り替えてしまう希望を描いてしまいました。
煌めいて熱いものを見たとき、人にできるのは、そこに向かって走ることだけでしょう。
「ふふっ」
姫花が全部お見通しのように笑いました。
「がんばれ、夏俐!」
その言葉は魔法です。無理をすることでもなく、ハンデから逃げることでもなく、希望を目指すことを応援する言葉。
わたしも笑いました。湧いてきたやる気のぶつける先がなくて、隣を歩く姫花の手をぎゅっと握りました。
ピアノの先生に伝えました。
「お? よかった。楽譜もらえたらすぐ持ってきな。必要だったらオーディション前だけレッスンの日増やして……」
お母さんに伝えました。
「やるだけやってみる感じ? そう。ピアノの先生には言ったの? ……そう」
音楽の先生には、まだ。
そして、いちばん伝えなければいけない相手。宣戦布告にもならない弱っちいわたしの宣言を、彼は真面目に読んでくれました。
「………………………………」
勝てないのはわかりきっているのです。でも、買わないくじは当たらないのと一緒です。
夕灯さんは、そっと微笑みました。
「で、できるよ。きっと」
賛成してくれたことにほっとしてわたしの唇も緩みます。いつもの廊下のすみっこで、夕灯さんは寄りかかった壁をぱらぱら叩きながら言いました。
「それなら、ぼ、ぼくは降りよう、かなぁ。き、君が、やるなら」
降りる、の意味がわかった途端わたしは首をぶんぶん振りました。もちろん横に。
あなたはなんてことを言うんだ。あなたが伴奏をしないのなら秋に待っているのは地獄絵図ですよ?
夕灯さん以外、きちんと伴奏を務めあげられるのはひとりも存在しないんだから。わたしはただ挑戦してみるだけで、きっと1週間以内に弾き終えられないのがオチでしょう。それに、最終的には音楽の先生に落とされる可能性が99%。
そんなことを書くと、夕灯さんは「いやいや」と反論しました。
「も、もしかして、ほんとに気づいてない?」
何を? と首をかしげます。ずいぶん長くなったお下げ髪が腕と触れ合いました。
夕灯さんは答えません。少しの間沈黙が続いて、「あ、それと、先生は、だ、誰が弾いてるのか見えないようにしてるから。きょ……ま、前の年から」と言いました。意外なフェア審査に驚いたわたしですが、彼の発言を忘れたわけはありません。〝とにかく おりるのはありえない!〟と書くと、苦笑いで「わかったよ」と返されました。
「じ、じゃあ、勝負だね」
きっと勝負にもならないでしょう。それでも彼が対等に見てくれるのが嬉しくて、わたしはよろしくの意味を込めて右手を差し出しました。きょとんとした夕灯さんですがすぐに気がつき、恥ずかしそうに握り返しました。
こうして、わたしは夏を待っています。
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