第28話
広い広い空のもとの小高い丘。周りに広がる原っぱの草花が、吹き抜ける柔らかい風にさあっと撫でられていきます。丘の上にひとり空を見上げる後ろ姿があって、淡く濃い光に染まるスカートは優雅にはためく。見ると空は、昼も夜も朝焼けも、全ての時が混ざったような不思議な色をして、端っこでは小さな星々が瞬いています。まあるく見える不思議な大空の下で優しい匂いの風が吹き続けていて、丘の上に立つ人は祈りを込めてずっとずっと空を見上げている。そんな光景が目に焼き付きました。本当に、見えたんです。
わたしは驚きで、元々ない声をさらに失っていました。
風が。風が初めて、わたしのピアノに吹いたんです。あの夕灯さんのような風が!
現実に戻ってみると、空はオレンジと水色の狭間にいて、遠くから蝉の声が聞こえるいつものお家でした。それでも、さっきは確実に、わたしはあの草原にいた。鍵盤の少し上空で熱を持ちながら震える10本の指は、あの風を確実になぞったのです。
いよいよ明日に迫った再オーディション。夕灯さんの凄さを思い出せば思い出すほど「ええい当たって砕けろ!」という意気になっていたわたしに風という勇気が味方となったものだから、期待しそうになって必死に押さえます。
オーディション期間の2日はとても大きい。それはわたしにとっても彼にとっても同じでしょう。粗を詰めて、磨いて、たった2日でまるきり違う出来にしてしまうことができる。
わたしにできるのは、ただ本番に頑張ることだけです。
この風を胸に。
3日前とまるで変わらない灼熱と青い晴天の昼休み。
弾き終えて審議のため追い出されたわたしたちは、またすることもなく黙っていました。すぐそこの渡り廊下は目が眩んでしまうほど明るいけど、きつい光に影をつくられて暗くなる室内は涼しくて、ほてった頬を冷ましてくれます。校庭から遠く響くはしゃぎ声と蝉の合唱がわたしたちの静寂を埋めていました。
わたしも夕灯さんも放心して、夏のBGMやこの濃い影と同化してしまいそうです。審査が長いのは1回目のオーディションでわかっています。もう結果がどうとか期待をしないとか、そんなことも考えられなくなっていました。指先に集っていたわたしの全力が役目を終えてばらばらに散ってしまったようです。
呆けた空気の中、手を伸ばしてもギリギリ届かない距離に座る夕灯さんは少し眠たそうでした。家に電子ピアノもあると言っていたので、もしかしたら夜遅くまで練習していたのかもしれません。そうだとしたらわたしに勝てるわけはないというか、勝ってはいけません。より努力したほうが勝つのが良い勝負というものです。
「夏俐さん」
唐突に夕灯さんが口を開きました。前よりもずいぶん滑らかに喋るようになったなとなぜか今気づきます。
前回と同じ、消火栓を挟んだ向こうにくだけた体育座りをする彼は、わたしを見てなんでもないことのようにさらりと言いました。
「今年の……伴奏、お願いね」
わたしが反応できず黙っていると、こちらから目をそらして続けます。
「ぼ、ぼくより上手かったよ。絶対」
諦めを多分に含んだその声に、わたしは感情の掴みどころを失くします。何を言っているのか、わからなくて、無意識に夕灯さんへ向かって首を横に振っていました。本能的にありえないと感じるのです。彼よりわたし、上手いなんてこと。
夕灯さんは困ったように笑うだけで、もう何も言いませんでした。さっきよりほんのり少しだけ気まずく感じて、わたしは膝に浅く顔をうずめます。
先生が出てくるのが遅いことが急に気になりだしました。前と同じく判断に時間がかかっているのでしょうけど、今回は長すぎじゃあないでしょうか。長くなれば長くなるほど、さっきまではあまり見えなかった不安と期待がちらついて心臓が落ち着かなくなります。
期待はだめです。期待はいけません。夕灯さんの言葉も昨日の風も忘れよう忘れようと頑張って、できるだけ心を空っぽにしました。そうすればもしものときに、悲しいことや悔しいことを溢れることなく受け止められるのです。
その、効果でしょう。
やがて先生が出てきて結果を伝えられても、まあ、そりゃあ残念ではありますが、絶望して倒れるほどのショックはありませんでした。
現実はすっと身体に染みて、心に暗い色を落としたけれど、それでもわたしは立っていられました。
先生の長い話のさなか、知らんぷりしていても少しずつ悔しさは這い上がってきます。ただ予想外だったのは、同時に達成感も降ってきたことです。
これまで挑戦すらできないほど力のなかったわたし。それが、憧れの夕灯さんと互角に戦えるほどに成長できた。そのことがやっぱり嬉しくて。自分がそこまで努力できていたことが、嬉しくて。今年の合唱練習を邪魔者として耐え忍ぶ強い心はやはり必要になるけれど、やるだけやってだめだったんだという証がきっと支えてくれます。そうすればこんなわたしでも、したたかでいられる。
「……!?」
驚いたのは、隣の夕灯さんを見たからです。
ありえない。
彼は、ありえない、という顔で先生を見つめていました。わたしよりもずっと大きな混乱や絶望の滲む表情で、まるで負けたのは彼なんじゃないかと思うような、そんな。
こんな顔をした夕灯さんなんて見たことありません。なにかおかしいと思ったのか、評価をつらつらと続けていた先生もいつのまにか黙っています。
「先生、ぼ、ぼくは」
続く言葉に、わたしも目を見開きました。
「ぼくは、もうやらなくていいです」
数秒、蝉の独壇場。
驚いて失った声を取り戻した先生が、優しく「どうして?」と訊きました。
「だって、夏俐さんのほうがっ……上手かったし、そ、それに、ぼくは何度ももうやったし」
落ち着いてきていた心臓が再びばくばくと強く打ち始めました。彼は何を、何を言ってるんだ。自分からその座を降りるなんて。
だって伴奏をできれば邪魔者になんて……!
……あれ?
「先生は、あなたのほうがいいと思ったからあなたを選んだのよ」
「でも、両方同じくらい上手かったんで、すよね。そ、それなら、もうぼくは、やらないです。それに」
「………………」
「それに、夏俐さんは、伴奏をっ……するために、ぼくより、が、頑張っていました」
たくさんたくさん驚いて、友だちをじっと見つめました。
夕灯さんはきっと、歌を歌えないわたしが苦しんでいたのを思い出したのでしょう。そんな顔を、していました。だからきっとわたしに伴奏をさせようとしている。涙を知ったからには、させないといけないと思っている。そういうことでしょう。わかって、心がぎゅっとなりました。
でも、違う。
……そうだ。
どうして、わからなかったんだ。
「夕灯さん、それは違うわ」
先生の声が、甘く聞こえた気がしました。
「あなたは3年生からずうっと頑張ってきているでしょう。もっと自分に自信をもっていいのよ」
「で、でも……!」
「それに、歌うのは難しいでしょう?」
「………………」
わたしの目の前に、冬以来すっかり忘れていたあの迷路がずうんと地面から這い出てきました。見て見ぬふりしてきた代償に、わたしは腰を抜かして怯えることしかできません。
「何年もピアノで役に立ってきたことはとても立派なことよ」
夕灯さんひとりに向かって話していた先生が、わたしたちふたりを見ます。
「それに、夕灯さんの楽器は少し扱いにくいだけなのよ。壊れていないのだから、あなたの中に立派な音楽はある。自信をもちなさい」
わたしは、やっぱり臆病者でした。
努力してきたつもりに、勇気があるつもりに、挑戦できたつもりに、なっては、だめだったのです。思い上がっては、だめだったのです。期待をしぼませただけでは、足りなかったのです。
「あなたは」
わたしを映す先生の目はいつも冷えています。その本当の理由を、今になって知りました。
もっと、もっと踏み出す前に考えられたはずだ。
もし、わたしが伴奏者になってしまったら、
「それに比べて、あなたの楽器は壊れているんだから。だからあなたにできることはない。夕灯さんだってね、ずっと頑張ってきているの! つらいのはあなただけではないわ。だから……」
夕灯さんが、努力する姿が素敵な、わたしの大好きな友だちが――
「邪魔しないであげてちょうだい」
邪魔者になる。
突然床がなくなったような感覚に陥り、目の前の景色がぐにゃりとゆがみました。めまいが止まり気づくと、いつのまにか廊下に膝をついてうつむいています。
「…………………………」
熱い液体が、顔から勝手に溢れて床にこぼれました。
ああ。
邪魔者だ。
とうとう、わたしは友だちの邪魔にまでなってしまったんだ。
考えないようにしていた罪悪感と虚しさが込み上げてきました。思い出さないようにしていた怖い思い出が、ありありとよみがえります。
今までずっとずっとわたしは邪魔者だった。だから、だから邪魔者じゃなくなるように頑張っていたのに、そのせいで、今度は大切な友だちの邪魔をする。
そうだ、先に考えれば分かったはずなのに。わたしの努力は、挑戦は、夕灯さんにとって迷惑でしかないと。彼だって歌が苦手で、その上、伴奏をずっとしてきたからステージ側に立ったことがない。その恐怖を、なぜ考えられなかった。なんでわたしはこうなんだ。なんで、なんで。
このすべても、わたしはこわれているから?
こわれたわたしの中に、音楽はないなら、ピアノを、音楽をしてはいけなかった。その、罰だとでもいうのでしょうか。
目の前も後ろも真っ暗で、涙が落ちていく感触以外は何もわからなくなりました。
へたりこんでその場から動けなくなったわたしに、誰も触れようとはしませんでした。だからわたしは、自分は本当に邪魔者だったんだと、思い知ることができました。
〝こわれているわたしには、もう、できることは何にもないの?〟
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