第17話
12月になってから席替えをしたけれど結局また隣だった夕灯さん。彼が、給食中に唐突に話しかけてくれました。
「そ、それ、……好きなの?」
はて、なんのことか? と一瞬思考が停止したのち、箸でつまんでいる白身魚の天玉揚げの存在に気がつきます。マニアックですが、わたしの中で1、2を争うほど好きな給食のメニューです。
こくこくとうなずくと、向かいに座る夕灯さんは安心したようににっこり笑って「やっぱり」と言いました。
なんでわかったんだろう、と不思議に思いながらもうひとくち齧ります。柔らかい身にある油分と淡白な味が好きなんです。あんまり人に話したことはないけど。
わたしの好きな給食も小学生にしては変わっているほうかもしれませんが、あの姫花に比べたら全然ましです。あの子、もずく汁とかカブのなますとかが好きなんです。信じられない。
「あ、そ、そういえば、昼休み、ひ、ひま?」
借りた本もまだ読み終わってないので図書室に行く必要はありません。うなずくと、「じゃあ」と彼は話し始めました。
「お、音楽室……来ないっ? あ、えっと、だ、大丈夫! せ、先生は、来ない」
先生がいないのに大丈夫なのでしょうか? あの先生は絶対に児童だけで音楽室を使わせたりなんてしません。
ですが、話を聞くとどうやら、夕灯さんには特例が出ているようです。
苦み多めの苦笑いをしながら教えてくれました。普段はいつも施錠されている音楽室ですが、午前の授業のときなど事前に夕灯さんが頼めば開けておいてもらえること。
だから、教室も外も居心地が悪い昼休みとかによく音楽室にひとりで入り浸っていたそうです。
そのとき、何ヶ月も前の疑問がぱっと晴れるように解けました。
あの春、風を吹かせたピアノはやっぱり、やっぱり夕灯さんで間違いなかったんだ。
わたしがあまりにすっきりした顔をしていたせいでしょう。とても不思議そうに見つめられたので、はっと気がついて表情を元に戻しました。
「今日、つ、使えるの……。ピ、ピアノも、使えるよ」
え、それはもしや。
夕灯さんのピアノを聴けるってこと!?
それを知った瞬間、わたしはかなり食い気味に何度もうなずきました。夕灯さんが、んふっと吹き出して、おかしそうに目を細めます。
やば、そんなに変な顔してたかな。
恥ずかしくなって、わたしは自分のお皿に視線を落としました。
昼休みの、音楽室。先生も誰もいない、秘密で少しは安全な空間です。
あのあと姫花と怜歩さんも誘いました。ふたりとも他に遊ぶ予定があるかもとは思ったけれど、普通に暇だったみたいで喜んで来てくれました。
姫花と怜歩さんが後ろの壁の肖像画を見ながら喋っているとき、わたしと夕灯さんはピアノの話をしていました。
黒板のそばにはグランドピアノがどんと構えています。蓋を開けると現れる白黒は、うちのピアノよりも年季が入っているように見えました。
「こ、このピアノ、お、音が、華やか」
そう言って、夕灯さんは高いドの音をとーんと鳴らしました。音楽歴の浅いわたしには一音じゃ華やかかどうかはわかりませんが、夕灯さんが言うのならそうなのでしょう。
そもそも家かピアノ教室のピアノしか触れたことのないわたしには、個体差なんて聞き取ることはできません。鍵盤の重さの違いくらいならわかりますが……。
しかし、夕灯さんが椅子に座って弾いたワンフレーズによって、『華やか』の意味がちょっとだけわかったような気がしました。
彼が弾いたのは、わたしの知らない練習曲の単調で短い旋律。音の並び自体は、生成りの布のようにシンプルで飾り気はまったくないはず。それなのに、どこか艷やかでハイライトが強く、むせてしまいそうな香水の匂いがするように感じました。
ただの小学校のピアノがこんな音を出すのでしょうか。こんな、華やかなステージを切望しているような音を。
その音は見た目の綺麗さには裏腹に、香りがきつくて苦みすら感じ、わたしは少し苦手でした。
わたしが黙っていると、夕灯さんは今度は違う曲を弾き始めました。これはさすがのわたしも知っています。というか知らなかったらうちの学校の児童じゃない。
「わ、校歌だー!」
そう言って、音楽室後方にいた姫花がこちらに駆け寄ってきて、その後を怜歩さんも追いかけます。
「……!」
わたしは驚きました。
さっきまで学校にもその旋律にも似つかわしくない華やかな音をしていたはずです。なのに聞き慣れた校歌に変わると、まるでグラウンドそばの池のように素朴で、花壇に並ぶチューリップのような優しい明るさに。どうして。
何十回も聞いた曲だからでしょうか。それとも、夕灯さんがそう操作している?
姫花が楽しそうに歌うのを横目に、深く考えてみるけどわかりません。
校歌の1番が終わって手を止めた夕灯さんが、こちらににやりと笑いかけました。
……なんの笑顔?
「は、華やかじゃ、なかったでしょ」
どきっとしてうなずきます。
「たん、じゅんなの、じゃないと、わ、わかりに、くい」
ちょっと考えて、はっと気がつきました。
単純な旋律だと音自体の色が際立つからわかりやすいけど、校歌には校歌の色があるからわからなかったということか。
そうだとしても、そんな簡単に音自体の色や匂いを変えられるものなのでしょうか。やっぱり、弾き手も相当すごい。
納得した笑顔で夕灯さんに向かってうなずくと、「な、なつりさんは、耳が良いんだ、ね」と言われました。
そんなことはないので首を横に振ったら、それを否定するように彼も首を振ります。
「こ、これがわかるの、け、結構、すごい」
夕灯さんは鍵盤をなでながらそう言って笑いました。
相対音感も絶対音感も持っていないわたしです。耳が良いわけなんてない。それでもあの夕灯さんに認められたのが嬉しくないはずもなく、わたしもにっこりと笑います。
「あ、そうだ!」
突然、姫花があのきらめいた目で声を上げました。
「ねえ、弾いてよ! 卒業式の伴奏!」
卒業式。
「お、夕灯もう弾けんの?」
「うん」
伴奏を任されたと聞いてからしばらく経っています。夕灯さんならすでにかなり弾けるようになっているでしょう。
今年の卒業式で5年生が6年生へ送る曲。わたしはそれを『羽ばたきの歌』と呼んでいます。
「あ、ま、待ってね。たしか、あ、あっちに……」
そう言うと彼は立ち上がって黒板のそばにある本棚を探り始めました。楽譜を見つけるとさっさと戻ってきます。
「あった」
つぶやきながら楽譜を掲げて見せる夕灯さんの笑顔は、あの圧倒的なピアノを弾く人とは思えないほど無邪気でした。
彼の伴奏有りではまだ行われてないけれど、夕灯さんが楽譜をもらった直後くらいからもう合唱の練習は始まっています。『羽ばたきの歌』。卒業式の歌とはわかりづらい曲調ですが、とてもかっこいい曲です。
それがあの夕灯さんの伴奏だなんて、わたしたちの学年と今の6年生は幸せです。歌えたら、楽しいんだろうな。
合唱のことを考えると寂しくなって、さらにそれを飲み込むように怖さが込み上げてきます。けれど今は大丈夫。きっと大丈夫。みんながいるから。
夕灯さんは楽譜をセットすると、椅子に腰かけて鍵盤に手をのせます。3人とはいえ誰かに注目されているときにしては、なんだかうきうきしているように見えました。
力強くて短い前奏。すぐに歌部分に入ります。
――また、ぶわあっと風が吹きました。
『星空の歌』とはまったく違う風。息が押されるようなパワフルな潮風。吹き荒れる濃い海の匂い。それを焦がすように太陽はギラギラと輝いています。ここの全てのものが、強く深く光っている。まるで夕灯さんの瞳のようです。
快晴の大海原にしかないとびきりの青と、太陽のいちばん明るい白、強く羽ばたく命のみずみずしい赤。それぞれがつやつやの生地の旗になって、世界中の海を旅する大きな大きな風に吹かれ、ばたばたと絡まりあっているような美しい激しさ。見渡す限り陸がなく、鮮明な水平線だけが広がる雄大な景色。全方向から吹き付ける熱い風。
そして、進むほど思い出が遠ざかっていくことへの、ひと握りの切なさ。
それでもまっすぐ前だけを向き、振り返ることなく、ただ行く先のみを見つめている。恐れずに胸を張って、力強く進んでいく。
そんな門出を祝い、背中を押すお話。前へと羽ばたくための大きな勇気を与える歌。
すごい。
「かあああっこいい――――!!!」
「すっげぇ――っ!!!!」
大歓声を上げる姫花と怜歩さんの隣で、声を持たないわたしは立ち尽くしていました。
あの風の熱さ、乾いた感触、潮の匂い。
今、絶対、ぜっっったい海にいたもん。
こ、これは、たしかに元が華やかな曲ですが、このピアノの華やかさだけじゃどうにもできない域です。絶対にそう。
元の曲の色、『羽ばたきの歌』が持つ色を遥かに濃く美しくしています。曲と音色の見事なかけ算。これは夕灯さんの実力にほかならない。
それに、今はひとりぼっちじゃなくて、わたしたちがずっと見ていたのに……。
すごい。
すごい、夕灯さん。
「うっわー、これピアノに歌負けんじゃね?」
「そう! それあるわ〜」
「いいや、それは、あ、ない……」
ある。
姫花と怜歩さんが褒めに褒めまくって、夕灯さんはなんだか居心地が悪そうです。でも嫌には思っていないだろうし嬉しいはずだし、なにしろわたしだって喋れればあのくらい絶賛するので、そんな目で見てきてもわたしはなにもしませんよ。
演奏の素晴らしさに見合った量の称賛が注がれる前に恥ずかしさが限界突破したのか、夕灯さんは真っ赤な顔でわたしに向かって声を上げました。
「あ、そ、そうだ。な、なつりさん」
どうしたの? で首をかしげます。
「なつりさんも、な、な、なにか弾くっ?」
そう言いつつ、彼はわたしの返事なんて待たずに椅子から立ち上がります。よっぽど場を変えてほしいのでしょう。嬉しいくせに。
夕灯さんのあとに弾くのはかなり気が引けますが、彼に言われてしまえば仕方ありません。
それに、夕灯さんの音がわたしの心に火を付けてしまいました。
「夏俐って今どんなの弾いてんのー?」
ちょっと考えて『暗い曲しか』と口パク。姫花との付き合いは長いので、短文なら口パクで伝わります。
楽譜がなくても弾ける曲は、練習曲を除けば今はあれしかありません。有名でとても綺麗だけど雰囲気は暗めな曲。だからさっきの『羽ばたきの歌』で盛り上がったこの状況で弾くのはちょっと嫌です。しかもわたしの演奏はあんまり上手くないし。やっぱり……いや。
どれだけ下手だっていい。今は、鍵盤に触りたくて触りたくて仕方ありません。
うずく気持ちは止められませんでした。
「暗いー? 別にいいじゃん弾いてみなよっ!」
ノリノリの姫花が押してくるのに素直に従い、まだ温かい椅子に座ります。実はあまり姫花の前でピアノを弾いたことがないので、彼女も聴きたがっているのでしょう。うちに来ればピアノがあるけど、あまりうちで遊ぶ許可は下りないから。
夕灯さんが先程の楽譜を片付けたので、つやつやした譜面台にはわたしの幼い顔が映り込みます。
白黒の上に指を置いて、金色の上に上履きを乗せる。その硬い感触が身体の芯まで伝わると、わたしは弾き始めました。
曲は、暗いほうのメリークリスマスです。
暗いと言っても、悲壮感に溢れているわけではまったくもってありません。切なくてどこか甘く、力強いけれど繊細。涙を誘う美しさ、心に刺さるほろ苦さ。
そんな大好きな名曲なのに、わたしの演奏だとその色が全然伝わりません。そもそも初心者用に簡単に編曲されたもので、その上わたしの技術はとても拙いから。それが悔しいけれど、本質的な綺麗さが弾き手によってすべて消えるなんてことはありません。風が吹かなくてもただ暗いだけに聞こえても、音が紡がれるこの瞬間がわたしは楽しいのです。
あの夏の日、夕灯さんの音を知ってからずっと、ずっと、上手くいかなくたって、音と戯れるだけで楽しい。その前とは世界が180度違う。上手くならなきゃなんて思わない。伴奏できるようにならなきゃなんて思わない。この楽器に秘められた可能性を、あの風を知ってしまえば、わたしはもう取り憑かれるしかない。
「わぁ…………」
「………………」
弾き終えて静かになった部屋の中、怜歩さんが「暗いね〜」と苦笑い。
鍵盤に触れる興奮が冷めると、急に申し訳なさが湧いてきました。こんな下手くそな演奏で。せっかく『羽ばたきの歌』で熱い雰囲気になっていたのに。
「でもすごいね夏俐! こんな有名なやつも弾けるんだ」
姫花のフォローに形だけにっこりしていると、夕灯さんが話しかけてきました。
なんだか、妙に真剣な顔をしています。
「……なつりさん」
なんだろう。
「……ほっ、ほんとに、よ、3年生で、習いはじめたの?」
その問いに、普通にこくこくとうなずきました。3年生の冬頃に始めるまでは、おばあちゃんに教えてもらった『ねこふんじゃった』しか弾けませんでした。
「す、すごい、うまいね……」
えっ?
わたしがびっくりしたのちに首をかしげていると、「ほ、ほんとだよ!」と焦ったように言われました。お世辞だと受け取られたって思ったのかもしれません。
夕灯さんの様子だと、本当に思ったことを言っているのでしょう。でもわたしが上手いわけないし、そんなの夕灯さんからしたら聞けばすぐわかることです。
それでも上手いって言ってくれるのは、あ、習っている期間が短いわりに……ってことかな?
それは……それでも、嬉しい。
夕灯さんの風が吹くピアノに出会ってから、声のことも伴奏のことも、褒められるかどうかとかも、なんだかどうでもよくなりました。それでも、彼が褒めてくれるのはとっても嬉しいです。
「なつりさん、さ」
今日は夕灯さんがとてもよく喋ります。嬉しく思いながら目を合わせると、彼の瞳がちょっとだけ揺れ動くのが見えました。
ん……?
「……な、なんでもない。ご、ご、ご、ごめん」
さっと暗い顔になった夕灯さん。どうしたんだろうと不安になっていると、怜歩さんがすかさず「なぁ、やっぱりピアノ弾けるどうしお似合いだな〜」と彼に絡んでいきます。
内容はともかく怜歩さんナイスです。夕灯さんがふはっと笑顔になって、その後はもうあの暗い表情はしませんでした。
ですがもう一度言います。内容はともかく!
それから恋愛チックな話をされ、それとわたしが弾いた曲が交差してクリスマスの話題になります。そういえば授業数が足りないとかなんとかで、今年はイブも当日も学校があるようです。去年まで24日からはもう冬休みだったのに。ひどい。
それをみんなで嘆きつつも、やっぱりクリスマスは楽しみ。姫花はやはり怜歩さんちと合同パーティーだそうです。幼なじみでご近所さんって色々と良いですね。ふふふ。
夕灯さんが珍しく、その幼なじみコンビをいじるような発言をします。それにふたりが同時に反抗して声が重なり、見ているわたしはおかしくて吹き出します。
そうやって笑いながら平和な昼休みを過ごすわたしたちは、知るよしもありませんでした。
クリスマスが、本当に戦場になるなんて。
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