第18話

「夏俐ちゃんって、なんか目覚めたよね」

 へ?

 わたしは間抜けな顔を晒して、先生のほうを向きました。

 先生といってもあの自分勝手な担任でも、思い出したくもない音楽の先生でもありません。彼女はピアノの講師、こんな声を出せない小学生を快く迎えてくださった先生です。

 待って、それより、目覚めたって一体なんのこと?

「当たり前じゃん、ピアノだよ」

 書かなくても顔でわたしの混乱がわかったのか、先生はあっはっはと大口を開けて笑いながら言いました。

「ピアノ。あんたって元から耳も良いしセンスはあるけどさ、最近は特にすごい。ほんと、目覚めたって言葉がいちばんぴったりだ」

 先生はわたしの頭をわしわしと撫でます。姫花ならあるけど、大人に、それどころか親にもこんなふうにされたことがないので、いつも恥ずかしくなってしまいます。

 ピアノの先生よりスイミングスクールのコーチのほうが似合うと言われがちな、男勝りでかっこいい先生。基本誰にでも平等に厳しい彼女が言うことに、本心と違う言葉はほとんどありません。

 目覚めた、か。

 夕灯さんに続いて、先生にも褒められてしまうだなんて。とっても嬉しくなってしまい、わたしはこのことを必ず日記に書き留めると決めました。

「夏俐ちゃんにも朝日が昇ったのかな? あははっ」

 そのとき、わたしの頭にはすぐ否定の言葉が浮かびました。同時に想起したのは、夕灯さんの顔です。

 朝日じゃない。

 わたしは、ゆうひに目覚めさせられたんだ。

「…………………………」

 わたしの表情を見て、先生はすべてわかっているように微笑みました。

「そういえば伴奏したくて始めたんじゃん? もう余裕だと思うな。夏まで待つしかないけどねーっ」

 わたしはハッとしました。

 そうだ、伴奏。

 最近は楽しくてとんと忘れていました。わたしの最終目的は、伴奏をして、あの合唱の場で邪魔者になんてならなくなること。

 そうです。こんなわたしでも、役に立つために。

 ……でも。

 前までは思いもしなかったことが頭をよぎります。きっと今まで、不可能だと思っていたからです。でも先生に言われると途端に現実味が出る。

 もし、わたしが伴奏をしたら、夕灯さんはどうなるのかな。

 だって、夕灯さんも歌が……。

 わたしは、入ってはいけない迷路に片足を突っ込んでしまったような恐ろしさを感じました。とにかくその足を抜いて、このことは忘れようと頑張ります。

 いや、そもそもきっと無理。わたしが伴奏だなんて。

 そう心に言い聞かせて、わたしはそのことについて考えるのをやめました。



 そんなピアノ教室での時間を過ごした翌日のことでした。

 地獄が、始まったのは。

「当たり前ですよ?」

 こちらを冷ややかに見下すのは、やはりあの音楽の先生。

 でも、今日その視線を浴びせられているのは、わたしだけではありません。

 ここは体育館。総員100名超の5年生は区画ごとに分かれるようにして綺麗に並び、担任の先生たちは壁際で待機しています。

 まだ12月なんですが、卒業式へ向けた学年練習の最中でした。今日は初めて学年全員で合唱を、『羽ばたきの歌』の練習をしています。

 そして、先生のあの凍てつくような無情な視線の射程内にいるのは、わたしたち5年3組でした。

「ねえ、藤沢先生?」

 高くて甘ったるい声でそう言いながら、彼女は3組の担任のほうを見ます。おそらく大人陣の中で最年少の担任は、かすれて消えそうな

声で「すみません」と呟きました。

「3組のみなさん、周りを見てみなさい。なんですかその姿勢は。口は。歌声は!」

 怒声の残響が、広い体育館でわわんと揺れました。皆一様に口を閉じて、ひとつも音を鳴らすまいと微動だにしません。

 先生のそばのグランドピアノで控える夕灯さんが、気まずそうに少しうつむきます。

 このただでさえ寒い真冬の体育館が、心理的にも冷え切っている原因。

 端的に言えばそれは、3組だけ歌が下手すぎたからです。

「他のクラスは普通に朝の会で練習したり、昼休みにもパートごとに集まったりしていると聞きますよ。3組さんだけです! そんな舐めた態度でこの歌に挑んでいるのは」

 子どもの視線は3組に、大人の視線は担任に集まります。

 他クラスは音楽の授業以外にも練習しているなんて、全然知りませんでした。出遅れた3組は、面倒な説教を引き起こしてみんなの時間を奪う邪魔者。いえ、子どもからしてみれば、練習時間が潰れてラッキーかもしれないけれど。

「学年の練習時間を、3組さんだけのために奪うことはできないんです!」

 ほらやっぱり、それ言うと思った。大体いま時間を奪ってるのは説教を続けてるあんただからね。

 ほとんどの児童がそんなふうに心の中で愚痴ったことでしょう。

 わたしは、ばれない程度にほっと息をつきました。このようにひとつのクラスを貶めて他クラスの士気を上げることは、小学校ではさほど珍しくもありません。ほっとしたのはそれと、わたし自身は先生に完全無視されていて、標的にされることがなかったからです。

「こんな状態だと練習を続けても意味ありません。3組さん」

 音楽の先生は一度担任を見て、夕灯さんを見て、そしてまた3組のいる区画に目を戻します。

「もう帰って、クラスで練習してきなさい。周りに迷惑をかけないようになるまで参加は認めません!」

 3組のみんなは固まりました。この状況、どう動くべきか。謝るか、学年練習がしたいと意欲を見せるか、大人しくクラスに戻って練習をするか。

 この場でおしゃべりなんてできないから誰も口を開きません。たださわさわと視線を交わして、どうするべきか、クラスの動向を探ります。

 ただ、今回は、児童の思案は必要ありませんでした。

 壁に寄りかかっていた担任が音もなく動き、3組の並ぶ前まで来ます。「戻るよ」と暗い声でひとこと宣言が出ると、わたしたちは何も抵抗することはなく、訓練されたアンドロイドのように揃って担任の後をついていきました。

 夕灯さんがピアノ椅子から慌てて腰を浮かせると、音楽の先生が「あなたは残って」と優しい声で言いました。彼は戸惑っていましたが、先生には逆らえないし伴奏の仕事という正当な理由もあって、迷いを残しつつ再び椅子に戻ります。

 夕灯さん以外の3組は、冷たいコンクリートの渡り廊下を無言でとぼとぼ歩いていました。外は曇り。

 先生は振り返りません。その背中にわたしは、なにかぞっとするものを感じました。

 そして、その感覚は、間違いではありませんでした。

 どん! と教卓をぶっ叩く音。自分の席に座ったまま、凍りついたように動けないわたしたち。

 これが地獄の始まりだったとは、まだ誰も気づいていません。

 電気もついていない暗い教室の壁に刺さる、罵声、罵声、罵声。詳しく何を言われていたかは、わたしは記憶していません。ただ確かなのは、それはクラスの歌う全員に向けられたもので、全員を等しく傷つけるものでした。

 きっとみんな、心の中の自分が大声で言い返していることでしょう。

 ――だってまだ卒業式まで全然時間あるし!

 ――どうせ他クラスは先生の指示で練習してたんでしょ。

 ――だいたいそんなに下手だったなら、怒ってる今のこの時間使って練習するべきじゃん。

 ――うちのクラス音楽の授業少ないから仕方ないよ。

 でも誰も、それを口にはしません。口にしてはいけません。そんなのはどんな常識よりも常識です。

 ひと通り叫ばれ、罵倒され、悲しまれ蔑まれ比べられ、先生は「自分たちでよく考えて練習しな」とだけ言い残してどこかへ消えていきました。これは呼び戻さなければいけないパターンではありません。

 どうするどうする? とみんながそれぞれ仲良しで寄り集まって話し始めました。

 練習をするべきか。でもCDが無い。伴奏のあの子もいないから頼めないし、誰か鍵盤ハーモニカで弾ける人いるかな? 待って楽譜見たら弾けるかもしれない持ってこよう。

 そんな声が飛び交って、最初は控えめにささやき合っていたのが段々普段通りになり、そして大声へと発展していきます。

 意外と難しい無理これ! ていうかおれら超ラッキーじゃね学年練習さぼれるぞ。どうせ明日になったら忘れてら。ほら男子たち立って練習しないと! えーだるいもう遊んどこうよ。先生いないんだしいいじゃん。練習っつったって何もできんし。なあ今なら黒板使えるぜ!

 すでにすっかりいつもの休み時間のようになってしまった3組。わたしは黙ってじっとしていました。

 女子はほとんどがひとつに固まって何やら深刻そうに話していますが、一部は外殻でひそひそと関係のないおしゃべりをしています。男子なんて無法地帯です。本を読む人、黒板に落書き、ガチ鬼ごっこ、などなど。

 まあ、そうなるよね。

 なんとなく予想済みでした。こうやって、さっきの説教されたストレスを発散するのです。

 でも非常にまずいのはまずいのです。この事態が露見したら怒り度はさっきの比じゃなくなるでしょう。だから中心部の女子は必死になって、中心部の男子と言い争いを繰り広げます。

 中心部には姫花がいます。双方をいい感じになだめながら、やっぱりどうにか練習する方向へ持っていこうと頑張っています。

 わたしは、混ざれるわけがありません。ひとりただ席について、クラスの流れをじっと見ていました。

 そうこうしているうちに、チャイムが鳴ってしまいました。

 このときの3組はまだ知りません。地獄へのレールを自分たちで引いてしまったこと。

 でも、どう逆らえば良かったのでしょうか。何ができたのでしょうか。

 わからないけれど、もう、結果は変えられません。

 学年練習の次の時間。戻ってきた担任のその態度に、何がなんだかわからない夕灯さんは隣の席でずっと困惑していました。

 クラスのみんなの気分は、この言葉でどん底まで落とされます。

「ねえ、隣の4年4組の先生に、さっきめちゃくちゃ騒いでてうるさかったって言われたんだけど」

 自業自得です。でも、きっと避けることはできませんでした。

 それが小学生です。

「ふざけんな!!」

 教卓にまた拳が振り下ろされ、どん! と鈍い音を立てます。先生は怒るとすぐ物にあたってまるでわたしの妹のようです。

「ねえ、どういうこと? 先生ちゃんと話したよね? 練習したんじゃなかったの? 信じてたのに。みんなのこと信じた先生が馬鹿みたいだね!」

 誰も何も言いません。「ねえ、馬鹿みたいだよね。そうだよね?」と何度言われても、何も言いません。

「はぁ、もういい。みんなだんまりか。まるで先生のことなんて見えていないみたい」

「……もういいよ。好きにしな」

 先生は教卓に両肘をついて頭を抱えたかと思うと、のそりと顔を上げて歩き始めました。

 言い捨てて、教室を出ていく。

 しばらくすると、またクラス中からざわざわと話し声が集まってきます。さっきの時間は体育館に残ったので不在だった夕灯さんが「何があったらこうなるの」という目でわたしを見て、わたしは「色々あって……」という目で見返しました。

 これが、この日の6時間目でした。

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