第20話

「あれ……保健室……?」

 わたしはその声に驚いてベッドのほうに駆け寄ります。ピンクの仕切りカーテンを開けて中に入ると、白い顔の姫花が身体を起こして不思議そうにしていました。

「わ! 夏俐……!」

 一瞬で滲む涙。抱きつきたい衝動に駆られていると、「勝手に開けないで」と養護教諭の先生に服の首の後ろを掴まれてしまいました。

 追い出されてソファーに逆戻りしたわたしは、安堵となお残る心配でぐちゃぐちゃになりそうな心をぐっと抑えて耳をそばだてました。

 先生と姫花の話し声。気持ち悪い感じはあるけどどこも痛くない。吐き気はない。頭痛。腹痛。

 きっと疲れとかストレスによるものね。安静にしていなさい。

 疲れ、か。

 優しい姫花。クラスの女子の真ん中にいる姫花。彼女はきっと、疲れるということばじゃ表せないほど疲弊しているはずです。ストレスの4文字に収まらないほどの負担がかかっています。

 知っていても、何もできなかったんです。


 昨日。2日目。

 あの吸えば毒触れても毒の空気は変わっていませんでした。毎秒ごとにお腹に石が詰められていくような感覚がして、わたしは昔読んだ赤ずきんに出てくる狼のつらさを知りました。

 しかし1日目よりも良かったのは、時間割です。先生すらも支配するあのます目に書かれていたのは、家庭科、家庭科、パソコン、体育。移動が大変すぎてこれを組んだ人を恨みそうですが、今回ばかりは救世主以外の何者でもありません。もっとも今日は、だいぶ前からやばい時間割があるぞと噂されて皆が待ち遠しく思っていた日です。

 午前のすべては担任以外が関わるもののため限りなくいつも通りに近い状態で過ごすことができました。問題があったのは4時間目の体育、内容は持久走です。

「ほら、遅いよー! こんなの3組だけだよー!」

 担任から何度も飛んできた大声。彼女は同僚の苦笑いに早く気がつくべきです。

 ただでさえ、夏と同じ体育着を着た児童が、厚いダウンで防寒した上に動かない先生を心底呪う時間。こんなことをされたらたまったもんじゃありません。反省しなかったわたしたちへの仕返しだと考えて納得するべきなのでしょうか。いや、そんなに上手く考えられる人は、きっといません。

 先生だって人間だとよく言われますが、それを言うなら子どもだって人間です。そのひとことで、やる気や体力は一気に地まで落ちるのです。

 それは、走り終えたあともずっと長引きました。坂を上って校舎へ戻り、体育着を着替えて、さらに給食着へ着替えてからの給食準備。スムーズにいくわけがあるでしょうか。しかも、午後はきっとあの地獄の練習が控えているとわかっているのに。

「………………何これ」

 全員が席につけたのは、給食片付け開始時刻の約5分前。

 このときはまだ思っていました。大丈夫きっとどうにかなる。前もプールの直後とかこういうことあったし、ちょっと片付け開始を遅らせてとにかく急げばあのときもどうにかなった。

 いいえ、あのときと比べてはいけません。

「馬鹿じゃないの。給食室に迷惑かけないようにいつも通り片付けするからね」

 わたしは大きいおかずの担当ですが、あんなに多い残飯は初めて見ました。遅れるよりもこっちのほうが、逆に給食のおばちゃんが悲しむんじゃないかとも思いました。

 5分しか食べられなかった給食。みんなおなかが空いて、イライラが止まりません。

 そんな昼休みのことでした。

 わたしは最初逃げるように図書室へ行き、借りていた本を返して次の巻を借りました。そうして教室へ戻ると、空気の異様さが今までの比じゃない状態になっていたのです。

 冷たい雨が降りはじめ、しかし変わらず外は寒く、人が集まるせいで微妙に暖かい教室と廊下はかなりの温度差を感じます。それと同時に、何かがおかしいのを一瞬で悟りました。

 見ると女子がぎゅうぎゅうに集まっていて、中心で誰かが泣いています。そばでなだめているのは姫花です。

 何があったのかは全くわかりません。近寄ることはもちろんできず、だからと行って立ち止まったまま眺めていても怪しまれるので、自分のロッカーに本を直しながら様子を伺いました。

 中心の子は泣いている。ひとりが大きな声を上げる、その子の腕を誰かが掴む。振り払う。姫花が手を伸ばす。最初に声を上げた子が泣きながらなにか怒鳴りつけるようにまくし立てる。仲裁に動く姫花。泣き続ける中心の子。いらついた声。ため息。叫ぶような言葉。

「やめてっ……」

 何が原因かは知りません。

 クラスの女子のほとんどを巻き込む喧嘩の中で姫花が溺れそうにも見えて、声なんて出ないくせに喉の奥がヒュッと締まりました。

 それでも、動けない。

 いつも助けてもらっているのに、こういうときわたしは姫花に手のひとつも差し伸べられません。あの輪に入り込む勇気も、喧嘩を収められそうな希望のある彼女を引っ張り出す度胸も、ありませんでした。

 わたしには助けられない。同じ教室内なのにあの輪が別の世界にしか見えない。わたしが入ったって何ができるのか。言葉、言葉はわたしの味方じゃない。わたしには声がない。

 怖い。

 蝋人形みたいに固まったまま何もできないくせに、一丁前に心配はしていました。

 どれだけ気丈で明るい姫花にだって、これは耐えられないんじゃないか。

 ……でも、人の心配をしている場合では、なかったのです。


 この日、2日目の5時間目は、本来道徳の授業でした。

 一応全員の机の上に置かれた、空色の道徳の教科書。最終的に、開かれることは一度もなく教室の棚に戻されることとなります。

 静かな雨が降る外は暗いというより黒い。蛍光灯の明かりだけが、閉め切られた教室に生きた人の気配を灯しています。

 道徳は担任の先生がする授業です。どうせまたあの練習が始まるのだと、それはもうみんな覚悟していました。

 しかし、現実は、覚悟を遥かに上回ります。

 身体中の血が気持ちの悪いゆっくりさで変な方向に流れるような感触がしました。目の前には何もないのになぜか、不気味にゆったりと動くマーブル模様が視界にちらつきます。

 隣同士の机をくっつけたものが16対、碁版の目のようにきっちりと並んでいます。空席はなし。

 その誰もが凍りついたように動きません。いつも手遊びをして怒られるあの子も、暇さえあれば髪の毛をいじるあの子も、今日ばかりはうつむいた姿勢のままぴくりとも動きません。

 内容は聞かずとも声だけで相当な不機嫌が伝わる先生の話。返事や反応なんてするわけないわたしたち。

 どれだけ反応を迫られてもできないわたし。

「ひとりずつ、さあ言っていってよ。こっちの列から、ほら!」

 先生がわたしたちに求めたのは合唱練習ではなく、ひとりずつ現状の反省と今後どうすればいいかを言っていくこと。「自分たちのなにが悪かったのか、これからどうしたらいいのか。ひとりずつだよ、全員。あんたたちのクラスのことくらい自分たちで考えてどうにかしなさい!」。

 合唱も散々で、給食準備の行動も遅く、最近は宿題を出さない人もいてとにかくひどい3組。そうやって合唱に関係ない歴代の愚痴をひと通り言い終えると、先生は公開処刑を要求しました。

 公開処刑。ひとりずつ全員が発表するこのような状態の呼び名です。

 列のいちばん前の右端の子が、こわごわと口を開きます。教卓横の机に足を組んで座っている先生を、震える目で見上げながら。

 くぐもった、恐怖をいっぱいに含んだ声。停止ボタンを押したように表情すら動かない先生。外は雨。

 わたしたちはいつでも逃げ出せます。前の扉も、後ろの扉も、閉まっているけど鍵はかかっていません。かかっていたところで中から開ければ良い話。

 それなのに、なぜでしょう。わたしは、絶対にここからは出られないと、そうとしか思えませんでした。

 あのとき、音楽発表会に向けた練習のとき、駆け出して学校の外まで逃げ出したわたしでも。

 ここからは絶対に、誰ひとりとも逃げられない。これは意識の檻。

 いつもより教室がずっと狭いような気がします。どこか息苦しく、世界が暗く、灰色と涙の色しかない。

 夕灯さんに針の雨が注がれたあの春の日よりも、何倍も空気が淀んでいます。あの日の夕灯さんが、今日はこの教室の全員。

 あの日の夕灯さんもこんな感覚だったのでしょうか。こんな、暗く淀んだ檻に閉じ込められて身動きが取れないような。

 少しずつ、ひとりひとりの懺悔が進んでいきます。たまに先生に小言を挟まれ、声が小さいと怒鳴られ、しかし進めば進むほど前例が増えるのでスムーズになっていく。

 処刑までのカウントダウンがどんどん加速していく。

 この、教室という名の檻の中で。

 わたしは、ズキズキと痛む胸を押さえながら必死に考えていました。

 わたしの席は窓際から数えて2列目。その前から5番目。隣の席は夕灯さんですが、わたしのほうが先に順番が来ます。

 今は窓から4列目の姫花が話しています。この状況でも震えず、先生を刺激せず、「はい、次」だけのコメントで終わらせた姫花はさすがです。でも親友に感心している余裕なんてありません。

 どうしよう。

 わたしにとって、最もまずいと言える状況でした。

 先生はわたしの番を飛ばしてくれるでしょうか。喋ることのできないわたしは、処刑から免除してくれるでしょうか。

 いいえ、この状況でそうなるとは思えません。

 声が出なくともわたしだってクラスの一員だと、反省を述べろと、理不尽に言い迫るに決まっている。

 君だけ逃げるのか。それを理由にして逃げるのか。ずるいね。声が出なくてよかったね。みんな怖かったり恥ずかしい思いしてんのに君は本当にいいね。確かに仕方ないってなるもんね。

 先生の台詞がありありと浮かびます。こうなるはずです、いや、これよりひどいことを言われるかもしれません。

 わたしはどう頑張ってもその場で言い返せない。だからわたしに向けた非難の言葉は、エスカレートすることも多いんです。

 ――「声が出なくてよかったね」。

 またそう言われたら、今のわたしは、泣かずに耐えることができるでしょうか。

 込み上げてきた数年前の記憶にぐっと蓋をして、熱がこもる頭を懸命に動かして考えます。誰にも迷惑をかけず、最短でこの場を乗り切る方法。メモに書くか。いや、時間がかかるとなにを言われるかわからない。それに、立ち上がって発表しないだけでどれだけ楽か。今だってきっと心の中で、せめて書いて提出するだけならいいのにと思っている人もいる。

 処刑はどんどん進みます。どうしても歌が上手くいかない男子が数分間なにも言えない様子でした。凍りつくようなあまりに長い無言に、先生は彼を立たせたまま次の人に進めます。そして、またさっきまでと同じテンポで進んでいきました。

 口の中をぐっと噛みます。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

 声が出ない。わたしは声が出ない。

 口パクもだめ。手話も通じない。前もって今から書き始める手もあるけど、確実に見つかる上に、怒られても声での弁明はわたしにはできない。全員が席に縛り付けられたこの状況じゃ誰にも頼れない。……頼れたとしても頼るべきではない。

 血の味が広がります。顎の力を緩めると、頬の裏側が鈍く痛みました。

 ああ、ああ。わたしは……。

 夕灯さんだったらどうするんだろう。いや、まず彼は何も悪くないんだ。伴奏者として誰よりも褒められるべきで、今回の処刑には全くの無関係。本来は処刑を免除されるべき。今の先生はその事実に気づいてくれないかもしれないけど、クラスのみんなはわかってる。だから意識の盾ができて、心を粉々にされる恐れはない。

 じゃあ、わたしは?

 何の役にも立たず、ただ突っ立っているだけ。歌ってないとはいえ、無関係と言って免除して良い人だとは思えません。

 ただの、邪魔者。

 わたしはどうしたらいいの?

 だんだんと自分の番が近づいてきます。前に倣った回答が増え、進むのがさらに速くなっていきます。

 前に倣え。小学校で生きていくために重要なことのひとつです。

 でも、わたしの前なんて、いない。

 心臓がひどく痛みます。吐き気を深呼吸で抑えて、手の甲に爪を立てて耐えます。

「次の人」

 喋ることなんてできないくせに唇が震えます。冷えて感覚のないつま先、気を抜くとガクガクと震えそうになる膝。

「次」

 めまいがしてきました。マーブル模様がまた見えます。汗で肌着が背中に張り付いて、気持ち悪い感覚がぞっと広がります。

「次」

 もう、どうしようもありません。

 もたもたせず素早く立ち上がると、きちんと椅子を机の中に入れて手は椅子の背から離します。これだけは前に倣うことができました。誰かが怒られていたので。

 高くなった視界の中心に教卓の先生を据えます。しっかり目が合っても、彼女は何も言いません。

 爪痕だらけになった手をぐっと握り込みます。

 なんでもいい。なにか、なにか、これを打開するには……!

 でも、考えれば考えるほど、思考は散らばってめちゃくちゃになっていくだけです。

 息が苦しい。胸が無数の針で突き刺されたように痛い。痛い。

「ねぇ、早く」

 急かされてしまいました。まずい。早く考えなきゃ。いや、まだ2度目までは大丈夫かもしれない。

 でも3度目はきっとない。

 カタッ、と横からかすかに音がしました。目は先生からそらしすぎないように視界の端で確認すると、夕灯さんがかすかに椅子を引いて立ち上がるための第一段階のような姿勢をしていました。しかし彼はそのまま動くことなく、青白い顔で斜め前方を見つめています。

 そこになにがあるのかと、わたしも視線の先を負いました。彼が見ていたのは姫花。彼女は覚悟を決めたような顔で立ち上がろうとしていました。

 ここまでが約3秒間の出来事。

 わたしをかばうためなのか夕灯さんが立ち上がろうとした、しかし姫花が同じく立ち上がろうとしていたので止まった。恐らくそういうことでしょうが、当時のわたしはそこまで詳細にわかっていたわけがありません。

 しかしふたりが参入すると非常にまずいことだけはわかりました。わたしだけなら何を言われようともまだ良い。でも誰かを巻き込むのは絶対に嫌だ。姫花はもう処刑を終えている。夕灯さんだって話すのが苦手なのに。

 どうしよう。早くしなきゃ。どうしよう。どうしよう。どうしよう。

「早くして!」

 その鋭い声で、立ち上がろうとしていた姫花がピタッと止まりました。

 急かされるの2度目だ。きっと3度目はない。

 姫花が声を上げる前に自分でなんとかしなきゃ。

 ……「早くして」って、そんな。

 わたしが声が出ないこと、忘れているのでしょうか。それか、声が出ないなりにどうにかしろということでしょうか。

 大人っていつもそうです。できないならできないなりに何とかしろと言ってきます。

 でもそれで何とかしたらしたで、大人の中の最適解と合致するわけはなくて。なんでそんな曖昧なお願いをするのでしょう。後で絶対に文句を垂れるくせに。

 口をおもむろに開きます。ですが声は出ない。出るわけもない。

 怖い。

 姫花が一瞬わたしを返り見て、また先生に目線を戻します。きっと、やる気です。

 だめ!

 わたしが、どうにかし

「先生」

 驚いて、息が止まります。

 立ち上がったのは、姫花でも夕灯さんでも、何か言おうとするふたりを見て青い顔になっていた怜歩さんでもありませんでした。

 わたしの顔にすっと影が落ちます。わたしより背の高い人が前で立ち上がったからです。

 憤りをはらんだ、よく通る声と共に立ち上がったひとつ前の席の女子。

 そういえばこの席順は、どこか既視感があります。

 ――『ねぇ、これ、なんて読むの?』

 始業式の日、わたしの名前の読みを訪ねてきたあの子です。最初はわたしが声を持たないことを知らなかったようだけど、姫花に聞いてからは返事ができなくても挨拶をしてくれたり、気を遣ってくれたり。

「夏俐さんは声が出ないんです。だから……」

 姫花がこちらを、ぎょっとした顔で見つめていました。姫花だけじゃありません。多くの女子が怪訝そうに、煙たそうに、男子はただ驚いたように、彼女を見つめていました。

「だから、夏俐さんは飛ばして次の人に」

「え、なんで?」

 心理的にざわついていた教室が、冷水をばらまいたかのようにしんと静まり返ります。

「なんで?」

「……夏俐さんは話せないので」

「だからなんで?」

「…………………………」

 わたしが話せない理由でしょうか。生まれつき声を持たないからです。

 生まれつき声を持たない理由でしょうか。知りません。わたしの身体を作った神様に聞いてください。

 でもこのどれも自分で言い返せなくて、ただ人に迷惑ばかりかけて、それなのに足がすくんで動けずまだ突っ立っている。

「……なんでって」

 前に立つ彼女の声色が変わりました。

「なんでって、先生、夏俐さんは喋らないんじゃなくて喋れないんです」

 そこにははっきりとした怒りを感じました。当事者のわたしですら怯えて出せない、輪郭のくっきりとした怒り。

「先生なら当たり前に知っていますよね!? それなのに今日も、合唱のときも、いつも……」

 はっとしました。

 彼女の怒りは、今日この状況だけに向けて発せられたものではなかったのです。

 彼女はずっと見ていたのです。こんなわたしと、わたしの向けられた言葉のことを。

 わたしにとっては日常茶飯事。でも、正義感のある彼女にとって、看過できるものじゃなかったのかもしれません。

「だからね、先生はそういうことを訊いてるんじゃないの」

 非常に面倒くさそうに、先生が言い放ちました。

「あのね、なんで? 全部夏俐さんの問題なのに、あんたが勝手に声を上げてなんやらかんやら言っているのはなんで?」

「っ…………………………」

「あんた関係ないよね? 時間ないんだけど」

 そのとき、ぷつん、と、なにかが切れる音が聞こえたような気がしました。

「……はあ?」

 彼女のその声は、とても「先生」に向けられてよいものではありませんでした。

「あ? はあって何?」

「ふざけるな!!」

 目の前で爆発した怒り。圧倒されて、わたしはなにもできません。

 先生の言う通り、全部わたしの問題なのに。

 それに、衝撃的なことが他にも起きていまいた。

 ――くすっ。

 教室のどこかで、小さな、呆れたような笑い声が上がったのです。

「……ふざけてるのはあんたでしょうが! もういい、ほら、出ていって」

 こちらにずかずかと寄ってきた先生は、彼女の服の首元を掴みます。怒りでいっぱいだった彼女の顔にたちまち恐怖の色が広がりました。

 彼女は無理やり引っ張られ続け、教室前方の扉からぐいっと押されて外に出されました。ガラガラ、バン、と、先生が激しく引き戸を閉めます。

 わたしの目の前にぽっかり空いた空席。

 立っていたわたしは、くらっと倒れそうになりました。しかし、この空席の冷たい重みが、わたしを床に突き刺していました。

「もういい、もうどうでもいい。あんたも座って」

 命令に逆らうととてもよくありません。逡巡したのも一瞬で、わたしは素直に椅子に座ります。

「あああああもういい。もう、いいよあんたたち。反省なんてしてもどうせだめでしょもう」

「もう終わり。そういえば道徳だったね。教科書後ろから集めて片付けて。もう時間ないし」

 命令に逆らうととてもよくありません。いちばん後ろに座る子たちが立ち上がり、無言で列の教科書を集めていきました。

 前の扉は開きません。後ろの扉も開きません。

 あの子は、ひとつ前の席のあの子、レナさんは、戻ってきません。

 その後もずっと。ずっと。帰りの会が終わっても。

 姫花はわたしよりももっとひどい顔色でした。あの子は、姫花と特に仲が良かった子です。

 姫花以外の女子たちは、話題には上げていても、レナさんを心から心配しているような様子はあまりありませんでした。

 そんな女子たちの会話を盗み聞いて、知りました。

 昼休みのあの喧嘩の発端は、レナさんの正義感だったようです。


 彼女はもう、学校には来ないかもしれません。

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