第21話

 そんな2日目も日が沈めば勝手に終わり、そして、今日。

 地獄が始まって3日目の今日。

 ひとつ前の席は空っぽでした。朝の健康観察の際、普通は欠席や遅刻の理由をちゃんと言われるのに、彼女は「休みです」しか言われませんでした。だから、登校拒否だと、これからも来ないんじゃないかと騒がれていました。

 今は3時間目が終わった休み時間。業間休みのときに姫花が倒れて、わたしも一緒に1時間は保健室で休みました。とりあえずわたしだけ戻ったけれど、もちろんレナさんはいません。

 わたしのせいです。

 わたしが、彼女の、居場所を。

「な、な、つりさん」

 隣を見ます。不安や後悔やいろんな感情を含んだ表情の夕灯さんが、それでもなお澄んだ目でわたしを見つめていました。

 彼がひとつ息をゆっくり吸います。

「…………大丈夫」

 小さいけれど、安心感をたくさん飲み込んだその言葉。

 優しいような、それでいて確かな芯と固さのある声が、わたしの嵐のような心を上からそっと抑えてくれました。きっとこの瞬間は、わたしが声を持っていてもなにも言えなかったでしょう。

 泣きそうになるのをぐっとこらえます。無理やりにでも笑顔をつくって『ありがとう』を伝えると、彼は深刻そうな顔をして、でもすぐに無理矢理のような明るい顔になって言いました。

「ね、ねぇ、今日の、ひ、昼休み、おん、音楽室、行くっ?」

 音楽室に行こう。そしてピアノを弾いて遊ぼう。そういえば次の授業は音楽なので、そのときに先生にお願いできるのでしょう。ていうか音楽なら早く移動しなきゃ。

 ……嫌だなぁ。音楽。

 夕灯さんのお誘いは、残念だけど断ることにしました。姫花が心配でなにもできそうにないし、それに夕灯さんはともかく、こんなわたしが教室外の安全地帯に逃げることは、なんだか許されないような気がしたのです。

「そ、そっ、か」

 首を横に振ったわたしを見て、夕灯さんは残念そうに、また不安そうに言いました。

 この前、4人音楽室に集まってピアノを弾いた日が、なんだかとても遠い昔のようでした。それくらい、今の状況がぶっ飛んでいて、かけ離れていて、非常に異常でした。

 あの音楽の先生が関わる授業で遅刻してしまうと大変です。どれだけ嫌でも、わたしはすぐに音楽室へ向かい始めました。

 今日はひとりで移動します。姫花の姿はどこにもありません、おそらく早退したのでしょう。この状況の中、あの姫花が自分から帰るとは思えないので、きっと保健室の先生に強制させられています。

 でもそれでいい。なんなら明日も休んだほうがいい。

 彼女が倒れてからクラスの雰囲気が今までより増して肌に刺さったのは、姫花の不在が原因かもしれません。

 バラバラなくせに「一緒」にこだわる小学5年生の女子。毎日問題ばかりの彼女らを器用に束ねて、支えて、桜のように笑顔を広げていく。それでいてわたしのような地味な人をも、同じ色の瞳で見てくれる。女子にとってこのクラス最大の求心力となっていた彼女が、今はいないのですから。

 いつもどおりのチャイムが鳴って黙想し、まぶたを上げるとそこにはいつもどおりあの先生がいます。今日は2学期最後の音楽の授業らしいです。

 今日の授業で何をするかは、誰にだってわかりきっています。

「それじゃあまずは発声練習をしましょう。全員立って」

 合唱練習。『羽ばたきの歌』。

 しかしひとさじほど安心なのは、今や先生がわたしを完全に無視している点です。無視は好都合。だって、誰にも迷惑をかけずに済むから。

 発声練習が終わると指示があり、ピンク色のファイルに綴じた楽譜を開きます。『羽ばたきの歌』は、今までにないくらい難易度の高い曲です。歌えないわたしでも楽譜を見ればわかります。難しいから上手くいかなくて、今こんなことになっているのです。

 授業でも練習は難航していました。

「はあ……………………」

 先生がため息をついて、ピアノの前に座る夕灯さんを見ます。

 そして、ゆっくりとみんなのほうに視線を戻しました。

「あのねぇ、みなさん」

 かつかつと靴の音を立ててピアノへ歩み寄り、天板のふちにそっと触れる。その薄く赤い唇を動かし、言いました。

「伴奏の夕灯さんがいつから、どのくらい練習してきているかわかっていますか?」

 広い音楽室に不穏な空気が充満します。

「1日何時間も、毎日毎日。あなたたちの合唱のためにですよ。それに比べて、なんですかその歌は。前も酷ければ、今も何も進化していない」

 夕灯さんの顔は見えません。うつむいて、影になっています。

 いつもだったら適当に聞き流す先生の話。しかし、今の5年3組は違います。心が乾燥して、逆立って、簡単に痛みを感じてしまいます。

 そのはけ口がどこに向かうのかも、小学生ならきっとわかるでしょう。

 音楽室からの帰り際。派手な男子たちが、「夕灯ちゃんはいいよな」と彼に向かって言い捨てていきました。

 夕灯さんは言い返しません。

 彼の背中に声をかけられないわたしはせめて手を伸ばしていましたが、動きがぴたりと止まります。後ろでまた別の男子が笑っているのに気がついたからです。

「◯◯◯でお似合いじゃん」

「…………………………」

 一瞬、目の前が真っ黒に塗りつぶされました。

 彼らがわたしたちに向けた、とても文字として書き留めたくはない言葉。伸ばしかけた手を、さっと引っ込めてしまいました。

 男子たちが去って、夕灯さんが少し遠くからこちらを振り見ます。

 その沈んだ瞳と目が合って、反射的に唇が開いたけれど、音が溢れるわけもありません。

 彼は暗い顔で、そっと言いました。

「………………ご、ご、ごめん」

 ……違う。

 あなたは何も、何も悪くないんだって!

 それも、何もかも言えないまま。

 夕灯さんは前を向くと、早足でわたしを置いていってしまいました。

 このときから彼は、クラスの大部分に強く当たられるようになってしまいます。



 どこに投げていいのかわからない感情を抱えたまま、学校が終わりました。

 帰宅すると無心ですぐ自室に駆け上がり、子どもケータイで姫花にメールを送ります。もし体調が悪くて寝ていたりしたら無視してくれるでしょう。その辺は気を遣わない関係なので、迷惑かもなんて考えにはならずに素直に心配の文を打ち込みました。

 わたしは家で、リビングのピアノを弾くとき以外はほとんど自分の部屋にこもっています。いつもより多く手が止まりながら宿題をしていると、どこか1階が騒がしいような気がしましたが、悪いほうの騒がしさじゃなかったので特に気を留めずに続けていました。

 ケータイが軽やかなメロディを奏でたのはちょうどプリントが終わった頃。姫花からの返信はそこそこ元気そうで、安心しました。

 簡単な返信をしてメールボックスを閉じます。ケータイのホーム画面をじっと見て、あることに気がつきました。

 今日は12月24日。クリスマスイブだったのです。

 そのことから、ここ数日の一連の出来事は、後に『地獄のクリスマス』と語られるようになります。

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