第22話
ついこの間わたしが弾いた下手くそなメリークリスマス。あの切なくほろ苦くどこまでも美しい曲を、夕灯さんが弾いている夢を見ました。もちろんわたしなんかとは別次元の完璧さで。
そこはすべてが焼け果てた荒野で、一面に広がる凪の海上で、体育館で音楽室。ぽつんと置かれたグランドピアノ、その前に、ただの風景と見紛うほど自然に佇んでいる彼。ひとりぼっちで、ピアノの黒い身体から粛々と、風や景色を生み出していく。
視界がくるくる変わります。荒野、海、夜、寒空。冷たくもどこか柔らかい匂い。見慣れた光景になるとはっとする。音楽室。そこにはみんながいて、夕灯さんは笑っている。
ピピピピ。ピピピピ。ピピピピ。
目覚まし時計を止めて、むくりと起き上がります。
とても寒い。12月の6時はまだ暗い。それでも文句を言っている場合でもなく、そもそもわたしは言えず、すぐに寝床から出て支度を始めました。
このところは、朝に1階へ続く階段を下りているときに思い出します。檻のように仄暗く息苦しい教室。まともじゃない合唱練習。みんなの泣き声やいらつく声。空っぽな前の席。姫花。
夢の中で吹いていた風の残り香が、灰色の現実に塗りつぶされていきます。
学校の居心地が良くないのは、わたしにとっては今に始まったことではありません。
だから少しは慣れているとはいっても、今の状況は最高に最悪で異常です。打開策を探せるほどの希望もない。いつも元気な姫花が倒れるほどの、ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃな状況。
もし、この状況が変わるなら。クラスの歌が上手くなれば変わるのか? いや、もう、そういう次元じゃなくなってしまっている。
どうしてこうなってしまったんだ。わたしたちが言うことを聞かなかったから? 誰のせい? 一体誰のせい?
それにどうして、誰よりもいちばん悪くない夕灯さんが、あんなこと言われなきゃいけないの?
そんな問いが永遠に繰り返される、吸うほど身体に溜まっていくような重暗い空気の中。できるのはただひとつ、息をひそめて頭を下げてじっと耐えることです。流れに逆らえば溺れてしまう。
淡々と髪の毛を梳かして、いつものひとつ三つ編みを作ります。鏡に映るお下げ髪の女の子は、暗い瞳で見返してきました。
曇天。登校班に次々と集まる、クリスマスでテンションの高い小学生たち。
5年3組の人々は、さながら小学生の戦場と言える状況のあのクラスに、今日も自ら足を運ばなければいけません。
朝からどんな感じだったかなんて、もういちいち伝える必要もないでしょう。
いちばん良かったことであり悪かったのは、姫花が学校に来ていたことです。
彼女は明らかに元気ではありません。ちゃんと眠れた? と書いて訊こうとしてやめました。顔を見れば訊くまでもなかったので。そして、彼女に付き添っていた怜歩さんからは、謎のアイコンタクトをもらいました。どういう意味か知りたかったけど、あいにく口パクも手話も通じないし、彼はすぐ去ってしまいました。
わたしよりも後に登校してきた隣の夕灯さんは、一見いつも通りでした。わたしは昨日の出来事がみんなに忘れ去られていますようにと祈ります。
さあ、この地獄も、今日さえ終われば一時休戦です。なぜなら明日から冬休みに突入するから。
それがなによりの救いでした。
しかし、このタイミングで長期休暇が来たらレナさんは完全にずっと学校に来なくなってしまうんじゃないか、という不安の塊は、わたしの胸に残ってごろごろと痛みました。
目の前の空席に苦しさを感じながら、引き出しから教科書やノートを引っ張り出します。終業日とはいえ、午前の3時間は普通に授業なのです。給食前の4時間目と午後で終業式などをします。
わたしは真面目に授業前の準備をしていますが、まともな授業が行われるとはまったく期待していません。だって、今日の3時間目は再びの学年音楽。それに向けてまた地獄のような練習をさせられるなんて誰にでもわかりきっています。
の、ですが、事態は一転。1時間目の国語は、普通の授業が行われました。いえ、最近の状況にしたら普通ってだけで、全然いつも通りではなかったけれど。
とにかく、ちょっとだけ機嫌の悪い先生の嫌々感丸出しな授業は、一応は国語の授業の形をなしていたのです。もしかしたら、さすがに授業が停滞しすぎるとまずいから仕方なくやっているのかもしれません。
国語の授業は音読から始まります。右端または左端から当てられていって、それぞれの物語または説明文が終わるまで、段落や文ごとに次の人へ進みながら続きます。
この前が異常なだけで、いつもはわたしが当てられることなんてありません。でも今の状況だとわからない。もしこの前の反省処刑みたいに、音読でわたしの番が飛ばされなかったら。そう考えると、命を凍らせ奪う冷水が流れる川のふちギリギリに立っているような、ぞっとする恐怖を感じます。
それはきっと隣の夕灯さんも同じ、いや、わたしよりも強い恐怖を感じるでしょう。だって彼は、普段から当てられたり当てられなかったりがバラバラで、どうなるか予測できないのです。
夕灯さんのことも必ず当てないでくれたらいいのに。とわたしはいつも思います。担任の先生に限らず、わざわざ彼に発表させる先生はよくいるのです。たたでさえ『隣の人とペアで考えてどちらかが発表しましょう』のとき、夕灯さんに頼まざるを得なくて申し訳ない。そうなるのもなぜか彼といつも隣同士の席になるせいですが。不思議なことは多いです。
面倒くさそうな声の指示で音読は淡々と進みます。空席を乗り越えてわたしの番になりましたが、先生はひとつ後ろの人を名指しで当てました。飛ばしてもらえたのです。わたしはほっとして、小さく息をつきました。
「次」
この調子なら夕灯さんも飛ばしてくれるかもしれないと、希望が出てきました。
そして、あっという間に夕灯さんのひとつ前まで音読が終わります。
「次」
緊張したようすの夕日さんが、ごくりと唾を飲み込みます。
「……さん」
隣の彼の肩の力がふっと抜けたのを感じました。
良かった、飛ばさ
「先生」
「……!」
そのとき、離れた席の男子が手を上げて立ち上がりました。心なしか、にやついているようにも見えます。
「夕灯くんを飛ばしていますよ」
「…………っあー、そうだね」
……まずい!
「じゃあ次、えっと、河井さん」
先生が欠伸をしながら言うと、男子は満足したように座ります。
まずい。
焦って隣を見ます。顔をこわばらせた夕灯さんは、震える手で教科書を握ると、覚悟したように立ち上がりました。
4月のあの姿と重なります。音読で当てられた夕灯さんが、どもり、みんなに盛大に笑われたあの日の姿。
どうしよう。
わたしは無能な頭をぐるぐると回して考えました。どうしよう。どうしたらいい。何ができる。何をすれば――。
わたしがこんなに焦るのには訳があります。
彼が音読しなければいけない文章。日本語について書かれた説明文なのですが、これは、この段落は、彼には無理です。
『有名なものは、生むぎ生米生たまご、となりの客はよくかき食う客だ、などあります。そして、それらは――」
わたしには早口言葉の難しさがわかりません。でも、上手く話せる人でも難しい言葉が、話すのが苦手な夕灯さんにとって最悪なものだとは予想することができます。
これは、これは、逃げるしかありません。通ってはいけない、通ったら致命傷を負いかねない茨の道です。
隣に立つ夕灯さんが青ざめていました。流れる冷や汗を雑に拭って、揺れる目で活字を見つめています。
「……っゆ、ゆ、有名な、ものは」
まさか、読むつもりなのでしょうか。
だ、だめ!
読んでしまったら、あなたは。
「……んな、な、なな、な、なな、なっ、ま」
瞬間、クラス中からどっと沸き起こる気持ち悪い笑い声。
反応するように背中がさっと冷えて、頭と目が熱くなりました。
ああ!
どうにかして、逃げないと!
夕灯さんにはひっきりなしに銃弾が浴びせられます。その戦場からどうすれば彼を引きずり下ろせるのか、わたしには何ができるのか、笑い声とその騒音に便乗して関係のない話をする声に吐き気すら感じながら、考えても考えても。
わたしに何ができる。何ならできる?
わたしには、声を上げて立ち向かうことができない。
そう、例えばレナさんのように――。
「……………………」
レナさん、は。
――『全部夏俐さんの問題なのに、あんたが勝手に声を上げてなんやらかんやら言っているのはなんで?』
……恐怖が、心臓を縛り付けるようにわたしを抑え込みました。
動けない。
助けたいのに!
いつも、いつも助けてもらってる。
彼のために、何か……!
「どうする? 夕灯さん」
みんなが勝手に喋りだした中でも、必死に読み続けていた彼。そんな彼の言葉を遮って、先生が眠そうに言いました。
「もうやめる?」
はっとして、わたしは瞬間的に、とりあえず助かったと思いました。
先生が気まぐれに、逃走路を指し示してくれたのです。
ここで夕灯さんが首を縦に振れば彼はもう解放される。視線や笑い声の矢から。トゲだらけで茨の道のようなあの文章から。
よかった。……助かった。
確認するように、ちらりと彼のほうを見ます。
「……!」
歪められた眉。ぎゅっと結ばれた唇。
強い光を宿した瞳が、教科書からバッと上げられて先生へ向けられます。
「やります」
即答でした。誰も予想しなかった展開に、クラスが静まり返ります。
彼の表情を呆けながら見ました。怒りのようだけど負の要素をはらまない、眩しく強い感情。
夕灯さんに秘められた強さ。
その強さが、檻の中みたいな教室に、ぱっと一点の小さな太陽のように光りました。
その光はこの空気を焼いて綺麗にしました。すうっと息を吸うと、身体が熱くなります。
「……あ、そう。じゃあ頑張れば」
もう、笑う人はいませんでした。
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