第23話

 ずっと考えていました。

 ……情けなくてたまりませんでした。

 夕灯さんに、どうにかして逃げてほしいと願ったこと。わたしなんかと違って、彼は逃げるつもりなんて毛頭なかったのに。

 数日ぶりの学年合唱練習。年末の冷え切った体育館に、百何十人が整列しています。

 合唱練習の場では、夕灯さんのピアノに風は吹きません。それでも、あの凛々しさや芯のひかりはわかって、歌えないわたしは練習中ずっとピアノだけに耳を傾けていました。

 自分を情けなく思うのと同時に、彼のことがとっても眩しく見えていました。

 春、夕灯さんのことをもっと知りたいと思ったのを思い出します。

 たくさん知りました。わたしと同じで「話す」ことに難しさを抱えていること。それでも放送委員の仕事から逃げない強さがあること。

 彼が弾く自由なピアノは、景色や風を生み出すほどに素晴らしいこと。

 逃げ出したわたしなんかを追いかけてくれるような、優しさと勇気に溢れる人だということ。

 そして、どんな苦しい状態でも、立ち向かっていくこと。

 今弾いていること伴奏だってそうです。彼は話すだけでなく歌も、声に関わる全般が苦手だと言っていました。それでもわたしみたいに邪魔者になることはせず、伴奏というかたちで立ち向かう。

 わたしとは全然違う、強くてかっこよくて眩しい彼。

 彼は最後まで読み切った。その後、先生が少し明るくなってもうあの地獄は消え失せた。なんてハッピーエンド。

 でも。

 わたしがずっと考えていたのは、自分の情けなさでも彼の眩しさでもありません。

 あの笑い声、人を殺す力を持った笑い声のことです。

 わたしは、こう思います。

 ……結果良いように終わったとしても、無遠慮に笑われて傷ついたことが帳消しにはならない。

 笑われることは痛い。それが回避できないことを原因とするなら尚更。弁明ができないならもっと。

 きっとそれは、数多の矢が突き刺さり弾丸で風穴が開くのと同じです。

 それなのに。

 どうして、彼は今こんなふうに、普通にピアノを弾いていられるんだろう?

 痛いはずだ。

 血が、止まらないはずだ。

 少しはましになったと評された歌声の渦の中に、邪魔者がひとり。でも今はそんなことも考えられません。夕灯さんのことしか考えられません。

 どうして?

 彼の強さは、いったいどこから来ているの?

 平和だとあっという間に練習が終わって、教室に戻ります。実は次の4時間目は終業式なので体育館に残ったほうが早いのですが、それでも一度教室に帰らせる先生たちってどういう思考を辿ったのでしょうか。馬鹿なわたしにはわかりそうにもありません。

 終業式の長ったらしい話の間も、わたしはずっとずっと考えていました。

 そして、昼休み。

 いつもポケットに入れている小さなメモ帳を開いて、鉛筆で言葉を連ねていきます。これが、わたしの声。

 書き終えるとそのページを破り取ります。立ち上がって向いたのは、すぐ隣です。

「…………な、なに?」

 いきなりこちらを見たまま固まったわたしに、夕灯さんは不思議そうに首をかしげます。

 わたしはそっと、彼にそのメモを差し出します。

「……………………………………」

 書いたのは、ぐるぐると頭から離れない思いです。

 どうしてそう強くあれるのか。

 わたしも夕灯さんみたいになるには、どうしたらいいのか。

 あなたの眩しさが、目に焼き付いて離れない。

「……………………………………」

 メモを受け取ってから、夕灯さんは黙ったまま微動だにしません。影になり顔が見えなくて、わたしは急に不安になりました。

 嫌な質問だったんじゃないか。触れないでほしかったんじゃないか。

 心臓が速く打って頭がくらくらします。

 でも次の瞬間、わたしの心音はうるさいを超え、溶けて消えてしまったような気さえしました。

 メモにぼたぼたと落ちた、大粒のしずく。

「……………………!」

 一瞬の真っ白な時間を経て、わたしを猛烈な後悔が襲います。

 だめだった。訊いては、いけなかった……。

「…………な、……なつりさん」

 夕灯さんが顔を上げてこちらを見ます。わたしは、おそるおそる目を合わせます。

 彼の濡れた目が細められて、透明に悲しそうな笑顔になりました。

「……ありがとう。……や、優しいね」

 ……え?

「…………っ、強いって、い、ってくれるの」

「……ぼ、ぼくは、ふ、……普通、なんだよ」

 夕灯さんは溢れ出した涙を飲み込むように抑えます。涙を流す人を前に、身体が硬直したように動かなくて、わたしはどんな顔をしていいかわからないまま突っ立っていました。

 普通、って。

 普通?

「そ、しょ、障がいで、でもなくて、ぼう、病気でも、ない。苦手な、だ、だけなの」

「……そ、そう、言われてる、か、から」

 障がいでもなくて病気でもない。そう言われて育ってきた。だから、普通?

 この人は何を言っているのか、と、わたしは悪寒のようなものまで感じました。まるで知らない感情が溜まった湖の水に、手を触れてしまったようです。

「だ、だから、当たり前なんだ。が、がんばらないと、いけない」

 話の全体像がわたしにもわかってきました。

 彼の「話すことが苦手」に、苦手以上の名前はない。だから自分は普通。普通なら、ほかの普通の人みたいに頑張るのが当たり前。

 強いわけじゃない。普通。

 それなのに強いって言ってくれる夏俐さんは、優しいんだね。

 ……そんな。

「な、なつりさんは、いいんだよ。ぼ、ぼく、みたいに、な、ならないで」

 わたしの「話せない」には、医学的な名前があります。

 でも、でも、名前があるからって逃げていいことにはならない。って、わたしはそう思い込んできました。

 ……そうだ。考えたこともなかった。

 その、逆は?

 名前がなかったら。

 夕灯さんは、名前がないからって、必ず立ち向かわなきゃいけないの?

 それが、彼の強さの正体なの?

「が、頑張らなきゃ、いけない、いけないのに、逃げるときも、あ、あ、あるし」

「ほら、ば、伴奏。ぼ、ぼくなんて……。なつりさんはいつも、う、歌のほうに、い、いるのに」

 愕然としました。

 ずっとかっこいいと思っていた。何事にもめげずに負けずに立ち向かう、強くて眩しい夕灯さん。

 でも、彼はそんなの普通で、みんなと同じく当たり前に頑張らないといけないことだ、と。

 それどころか、彼の強さの象徴とまで思っていた伴奏すら、逃げだと思っていたんだ。

 ……違う。

 違うって、大声で叫びたくなりました。というか叫べるならばきっと声を学校中に響き渡らせていたでしょう。

 同時に、わたしは納得しました。

 笑われて痛いはずだ。血が止まらないはずだ。それなのに――。

 それなのに普通にしているように見えたのはきっと、これが彼の当たり前だったから。

 満身創痍だろうと構わない、血は垂れ流しにして見向きもせず、みんなの普通に合わせて立ち向かう。

「っだ、だから、な、なにを言われても、……いいんだよ」

 いいや。

 そんなわけが、それでいいわけが、ないだろう。

 少なくともわたしは、許せない!

 こんなに熱く燃える、マグマのような感情が湧いたのは初めてでした。これが、怒りなんだと思いました。

 乱暴にいすを引いて座ります。嗚咽を抑えながらきょとんとする夕灯さんを横目に、引き出しから適当にノートを取り出しました。選ばれたのはピンク色の国語のノート。

 後ろ側から開いてまっさらなページを出すと、夕灯さんの机との境目に置きます。

 これでいい。わたしには、これしかない。

 声とかもういいから、伝えられるだけ伝えるしかない。

 鉛筆を握りしめます。思いをぶちまける準備は、できています。

 今度はわたしが、夕灯さんを救いたいのです。

 ……まずは何から伝えましょうか?



〝きっと、これでよかった。〟

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