第31話
2学期最後の日。クリスマスムードと明日から冬休みテンションで、普段大人しいうちのクラスでもぱやぱやと明るい声が飛び交っていた1日も終わり、曇り空の凍える外をひとり歩いて帰ります。分厚いダウンともふもふの手袋で重装備をして、足を滑らせて転ばないよう慎重に緩やかな坂道を上っていました。
一斉下校なのに道に誰も子供がいないのは、うちのクラスの帰りの会がかなり長引いてしまったせいでしょう。通知表を取りに行った先生が20分も戻ってこなかったときは何事かと思いましたが、みんな案外おしゃべりをしながら楽しげに待っていてさすがクリスマスだと思いました。
そういえば、5の3で同じクラスだった子が他クラスだった子へ、武勇伝でも語るような口ぶりで去年のあの地獄のクリスマスの話をしていました。今思い出すだけでも心のどこかがぢくりと痛くなるけれど、わたしよりももっと、死ぬかもしれないほどの痛みを感じていた人もきっといたでしょう。今もその傷が消えない人が、いるでしょう。
今日くらいそんなこと考えないようにしたい、と、わたしは髪に乗った小雪を振り払うように考えをかき消します。
もっと楽しいことを考えよう。そう、だって今日はクリスマスなんだ。
帰ったら何かクリスマスの曲を弾こうかな。有名どころはテレビや街で聴きすぎて目を瞑ってでも弾けそうだし、大人っぽくてかっこいいあの曲も確か楽譜集に入ってた。サンタクロース(?)に貰ったオルゴールに入ってる歌も素敵だな、やってみよう。
やっぱりピアノのことを考えてると心が透明に軽くなります。あとは何があるかな。クリスマスといえば……。
「…………………………」
ふと、切なげな旋律が流れました。
生気のない静かな住宅街でくっきりと聴こえる、少したどたどしい短調のメロディー。思わず足を止めて確認しても音の在り処はなく、これは自分の頭の中で再生されているんだと気がつきました。
昼寝の夢のように柔らかく景色が浮かびます。目の前には黒いピアノ。隣には姫花がいて、その向こうに怜歩さんが立っていて、反対側には、ああ、夕灯さんがいる。かじかんだ小さい手は鍵盤を這って……。
呼び覚まされた記憶は去年の冬、昼休みに音楽室で遊んだ日の出来事でした。あのときわたし、悲しいほうのメリークリスマスを弾いたっけ。
暖かい空気と笑顔と声を思い出して、それらにもう絶対に触れられないのが怖くなりました。たった1年前だというのに。
あのころ以来、この曲はまったく弾いていません。返ったら弾こうかな、と思ったけど、やっぱりやめました。
どうせなら家族が喜ぶ明るい歌を弾きましょう。物悲しいとか思わないような、明るい楽しいメリークリスマスを。ピアノが上達してきた最近は、お父さんは音色に耳を傾けて褒めてくれることが多くなりました。お母さんと妹は相変わらずまったく興味がないのだろうけれど、有名でクリスマスっぽい曲なら今日くらい喜んでくれるでしょう。そう、家族くらいはこんなわたしでも笑顔にできるはずです。
遠い遠いところにうっすら見える思い出から目をそらして、止まっていた歩みを再び進めます。ちらちらと少しだけ白い雪が舞っていました。寒い。濡れないうちに早く帰ろう。
「!!」
突然でした。
背後から強い力で肩をつかまれて、驚いたわたしは振り向く前に至近距離で大きな熱を感じ、それにさらに驚いて転びかけ、でも冷たい手がわたしをがしっとつかまえました。そして、ようやく、ふたりとも静止します。
あまりに突然の衝撃に置いてけぼりにされていた心臓の拍動が今になって急加速します。くらくらする頭とぼやける視界のせいで状況が把握しきれず、話せもしない唇が勝手にあうあうと動いてしまいました。
はあはあと息の上がった人が、わたしの手首をずっと握っています。走ってきたのか頬を真っ赤にさせて、寒さのせいか鼻もトナカイみたいに真っ赤っ赤で、うるんだ瞳はまっすぐわたしを見ていました。
……もしわたしが声を持っているこわれていない楽器だったとしても、この瞬間はきっと何の音も出せなかったでしょう。
目の前にいたのは、夕灯さんでした。
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