第32話
暗く曇った空。ひとっこひとりいない通学路に粉雪が舞っていて、そこで固まるわたしと夕灯さん。
きゅ、急に……なんだ!?
体温が急激に上がったせいで暑くすら感じ、両手の自由が利くならば手袋を外してしまいたいと思うほどでした。実際は上着越しに感じるこの手首の圧力を振り払う勇気はなく、何もできず硬直しています。
まさか校門からずっと走ってきたのでしょうか? 彼はまだ肩で息をしています。インフルエンザ予防のマスクはずり下がり、冷気に晒される頬は上気して、フリースの上着は前のチャックを開けっ放しだしランドセルも閉めていないし、これじゃあ先生に怒られてしまいます。
こんなに急いで、一体、何を?
わからなくてちょっぴり怖い。しかしわたしの手首を握る赤くかじかんだ指は微動だにせず、絶対に逃がさないぞという彼の意思すら感じました。わたしはもちろん動けません。
彼はわたしを掴んでいない方の腕で、汗で髪が張り付く額を乱暴に拭いました。見るとその先の手には、何か紙の束が握られています。
夕灯さんはそれを、無言でこちらに差し出しました。
……これは。
数え切れないほどの疑問が一度に押し寄せます。どうして? なんで? だって、だってこれって……。
握られていたものは、ざら紙の楽譜が2曲分。
「夏俐さん」
見慣れた粗い印刷の音符の羅列がすぐにピアノの音で脳内再生されます。なぜかわからないけど、急に泣きそうになりました。
「ごめん、なさい。ずっと、ずっと、今まで」
「伴奏、奪っててごめんなさい」
「この前の、夏も、ほんとうに、……」
さっきのびっくりが、いつのまにか夕灯さんの真剣さに吸い込まれてしまったようです。だから、本当に突然だったけど、ゆっくりゆっくり話す彼の言葉が染み込むように全身に伝わって、そして、それを全力で否定したくなりました。
あの夏の光景が目の前に浮かびます。冷たい目をした音楽の先生、必死に訴える夕灯さん、涙でぼやけたあの床と、頭で流れつづける『祈りの歌』。
……違う、違う。あなたが謝る必要はこれっぽちもない。わたしがだめだっただけ。
わたしが、わたしなんかが挑戦してはいけなかっただけ。こんな邪魔者に、頑張ってきた夕灯さんが謝るなんて、そんなの。
……でも、この言葉も、こわれたわたしでは届けることができない。
「ほんとうに、ごめんなさい。あ、あのときも」
夕灯さんは絶対に目をそらしません。
「あのときも」
その、大きくてまっすぐな瞳に涙が浮かんで。でも、わたしは何も言えなくて。
「夏俐さん、泣いてたのに、なにも、なんにも、できなくて」
「ごめんなさい」
「今まで謝れなくてごめんなさい」
声があるなら言うどころか叫びたかったくらいでした。それは、それは絶対に違う! って。なんでもいいから、彼の謝罪を否定したくて、いいえ、否定しないといけないとしか思えなくて。
心の中でわたしの知らない感情が吹き荒れていました。でも、震える喉は、やっぱり何も音を出してはくれない。
彼に握りしめられたふたつの楽譜が目に入ります。片方は未来へ翼を広げ、もう片方は思い出を慈しみ忘れないと誓う。どちらも知っている合唱曲です。
なんとなく、彼のしようとしていることがわかってきました。
でも。
どうせ、こわれたわたしの中に音楽はないと、言われるのだから。何もできることはない、最悪の邪魔者なんだから。
だからもうやめてほしくて、この手を離してほしかった。でも、わたしはそれを伝えられないし、夕灯さんもそうしてはくれませんでした。
「えっと、な、夏俐さん。あのねっ」
彼は大きく息を吸って、涙で震える声を絞り出します。
「卒業式、伴奏……弾いてくれる?」
……やっぱりです。
わたしが焦がれ続けた伴奏。もちろんやりたいに決まっている。でも、でも、でも!
結局、あんたは邪魔者だと払われて終わりならばもう、これ以上……。
「だって、ぼくは……ぼくは」
「夏俐さん、こわれてないと思うから」
ああ、そうです、そのときでした。
突然まったく聞いた事のない声が響きました。
聞いた事のない女の子の大きな声、ちょっと怒ったような強い口調で、でも明るくて澄んだ声。不思議で強い光をはらんだ声が、急に身体中に響いたんです。しかしわたしはその声にばかり構っていられず、震えたまま、目の前の彼に向き合います。
夕灯さんが、また口を開きました。
「だって、だってね」
「あんなに楽しそうにピアノ弾いてて」
「あんなに上手くなるのが早くて」
「声がどう、とか関係ない」
「夏俐さんがこわれてるわけ、音楽しちゃだめなわけ、ないっ」
急き立てるような彼の声に、涙でぐしゃりと震えが混ざります。
気づかないうちに、わたしの瞳にもじわじわと涙が込み上げていました。燃えるように熱い頬を涙が伝ってあわてて拭います。
こわれてない、と言われて、不思議と心の奥でほっとしている自分がいました。
きっと。
本当は、自分はこわれてなんかいないんだって思っていた。そう思いたかった。
だって、音楽が、ピアノがしたかったから。いつでもどこでも、あの楽しさに触れていたかったから。
でもわたしは、こわれた自分を邪魔者だとしか思えない。だからどうか、こわれてないって言って欲しかったんだ。
他の誰でもない、あなたに。
……ああ。
ああ、そうか、そういうことだったのですね。
わたしが本当にクリスマスに欲しかったあの得体のしれない何かは、こわれていない自分でももちろんオルゴールでもなく、消失でもない。
空高くからやってきたキンと冷えた風が、粉雪と共に吹き抜けていきます。
わたしが本当に欲しかったのは、あなたの声が紡ぐその言葉だった。
だから今、こんなにも胸の奥が熱を持っているのでしょう。
「あ、あのね」
「あのね、ぼく」
「こんな……ぼくだけど」
「夏俐さんとまた、友だちになりたい」
また、あの女の子の声が聞こえます。
『ほらね』
楽しそうに弾んだその声を耳にしたのは、それが最後でした。
……うん、そうだね。本当はやっぱりわたしも。
ずっと思ってた。本当はあなたと前みたいに、いや、前よりももっと仲良しな友だちでいたいって。
この気持ちを、夕灯さんに伝えないと。まあ、でも、こわれていないわたしでも、やっぱり声は出ないので。
だから、こうするしかないのです。
わたしは夕灯さんのその言葉に、顔をちゃんと上げて、彼の手のひらをぎゅっと握り返しました。
夕灯さんは不思議です。というか変わり者かもしれません。卒業式の合唱2曲、どっちもの伴奏をわたしに譲ろうとしていたのですから、なんならお馬鹿さんと言ってもいいでしょう。
近くの小さな公園で行われた半分筆談の話し合いは白熱し、最終的に彼は「でも夏俐さんが先に好きなほうを選んで」とようやく譲歩を見せました。しかしわたしはそれもだめだと思い首を横にふると、彼は困ったように笑って「じゃあ一緒に、せーので指さそう」。
「せーのっ」
〝夕灯さんのピアノの中には、星空が広がっていました。わたしは、いつか夕灯さんと友だちになりたいと思いました。〟
〝わたしはこわれてないって、本当でした。だって、わたしは今日初めて、自分の声を聞けたんです。〟
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