〝何度だって、春が来る〟
第33話
『やろうよ』
『ピアノ好きなら』
『大好きなら』
『それなら、逃げるなよ』
あの日のあの声を思い出してわたしはまたにやにやしてしまい、誰にも見られていないのに少し恥ずかしくなりました。
突然頭の中で響いた凛とした少女の声。その正体に気づいてからは、わたしの毎日に今までよりもずっと明るい光が差しているような気がしています。
だって、とてもびっくりして、とっても嬉しかったのです。どこか聞き覚えのあるけれど誰とも同じでないあの声、されどどこか、お母さんや妹と似ている声。それはもう、自分の声だとしか思えてなりません。
みんなのように大声で笑ったり、泣いたりすることはできない。わたしは声を出すことが絶対にできない。
それでも、それでもわたしの中にはちゃんと声が住んでいて、だからわたしはこわれてなんかいないんだって、胸を張って音楽をすることができるのです。
「あ、夏俐! いってらっしゃい」
「……………………」
いってきます。
卒業式の今日は特別に、6年生とそれ以外の学年の登校時間が違います。ふわりと素敵な香りのする空のもと、わたしはひとりで前に進みました。
ああ、いろいろなことがあったなあ。
幼稚園や保育園にろくに通わなかったわたしにとって、きっと怖くてたまらなかったであろう初めての学校生活。最初の頃のことはもうぼんやりとしか思い出せないけれど、よく毎日頑張ってくれたね、と小さいわたしをいっぱい褒めてあげたいような気持ちです。
だって、君がめげないでくれたおかげで、いろんな素敵なものに出会うことができた。素敵な人に、出会うことができた。
音楽の先生は今でも怖いけれど、彼女がいなければピアノを始めることなんてなかったし、そう、もっと言えば、わたしがみんなと同じように声で話す子だったなら、もしかしたら一生無縁だったのかもしれません。そう考えるとちょっとぞっとしてしまいますね。
嫌なことも悲しいこともあるけれど、それでも前に進むための大切なものをわたしはもう知っています。
この地球がときに理不尽に思えても、星に祈るしかないほど追い詰められても、それでも羽ばたきをやめない蝶のように凛々しく粘り強く。
毎日毎日見続けた坂道。ここは、あの雪の日の出来事があった辺りです。わたしは少しだけ歩みを緩めて通り過ぎました。
昨日の雨で洗われたような街並みと空が広がっています。今日は暖かい。甘い空気を胸いっぱいに吸い込むと、普段とは違うグレーのスカートと真っ白のリボンが、風に揺れて踊りました。
ちょうど、『未来の歌』の景色のようです。
さあ、今日はやっと本番だ!
春のきれいな風が、さっとわたしをなでて行きます。乾きかけのアスファルトを進みながら、人生初の伴奏に希望を持って優しい空を見上げました。
「お、夏俐じゃーん! おっはよー!!」
大声にびっくりしてとび上がってしまいましたが、誰なのかは確認せずともわかっています。
6年生の後半、勝手に距離を置いてしまっていた親友の姫花。そうだ、まずはあのことを話しておかなければなりません。
あれは夕灯さんとのあの雪の日の、その後。
遅すぎる帰宅を果たしたわたしを出迎えたのは、心配した母でも通知表を馬鹿にしたくてたまらない妹でも、ましてや遅刻したサンタクロースでもありませんでした。
「…………!!」
うちの玄関の前でまごまごしている、不審者、にしては可愛らしい格好の女の子。
「……んなっ!?」
目が合えば最後、彼女、姫花は一目散に飛び込んできました。
「な、つ、り〜〜〜〜〜〜!!!」
このとき骨折していたら伴奏できなくなっていたでしょうけれど今回はセーフです。
頭から突っ込まれてきつくきつく抱きしめられたわたしはあまりの苦しさに身をよじって逃げ出そうとしましたが、次の瞬間、それどころではなくなってしまいます。
「なんでなの? あたし何かしたぁ……? 謝るから……仲良くしてよっ!」
柄にもなくぼろぼろと涙を流す姫花の姿に、わたしは、殴られたように自分の過ちに気がつきました。
姫花は、わたしが邪魔だなんてちっとも思ってなかった。
姫花はグループが違うとか不釣り合いだとかそんな言葉は視界の隅にもなく、そんなこと考えたこともなかったんだ。姫花にはたくさんの友だちがいる。でもわたしのことも、ずっと、ずっとただひとりの親友だと思ってくれてたのに。
そしてわたしだってそうでした。姫花のことが大好きで一緒にいたいと思っていたくせに。本当にわたしは馬鹿で仕方ありませんね。
でもこんな馬鹿でもできることがひとつだけあって、それが、これから一生親友を大切にすることです。
桜みたいなピンクのシャツの上に、軽やかな黒いブレザーを羽織った姫花は今日も可愛い。シャツと同じ色をしたリボンが桜の花と一緒に揺れて、これじゃあみんなの注目の的になってしまうのでは?
あ! おしゃれ好きの姫花は卒業式という一大イベントでは特別な髪型してくるかなぁ、と思ってたけど。
にこにこ笑顔のまま口パクをすると、彼女はすぐに反応しました。
「ポニーテールなんだ、って? そりゃそうだよー! ポニーテールと言えばあたしあたしと言えばポニーテールでしょ!!」
見慣れたポニーテールを彼女はさらっとなびかせます。たしかに、いちばん似合っていちばん姫花らしい。そして卒業式でポニーテールを選んだのも、逆に姫花らしいなと納得しました。
「よお、お邪魔?」
「邪魔だよ」
「お前に聞いてねぇよ」
姫花の後ろからひょっこりと顔を出した怜歩さん。きっとお隣さんの彼も一緒に登校してきたのでしょう。わたしからするとなんだか久しぶりです。あと姫花、嘘でも邪魔だなんて言っちゃだめだよ。
「聞いてよ夏俐こいつさー、ブラウンの服なの。ばかじゃない? まじでチョコレイト貫く気だよ」
「ははっ。ここまで来たら貫いてやろうと思って。っつーのは嘘で普通にお下がりだけど」
そうだチョコレイトさん。もう懐かしいな。
ふたりのやり取りに笑って笑って、「夏俐テンション高いねぇそりゃそうかぁ」と言われて、ふふふと笑いました。
「おはようっ」
後ろから聞こえる弾んだ声に3人で振り返ります。
あっ。
「おー、おはよ!」
「おっはー夕灯、へへっかっけーじゃーん」
やって来たのは夕灯さん。紺色の服をきっちり着た彼は怜歩さんの感想にはにかんで笑いました。
あんたもこーゆーの着ればいいのにだから兄ちゃんのだからしゃーねーだろ、なんて幼なじみコンビがやり合う様子を微笑ましく見ていると、夕灯さんが手招きをしてこちらに顔を寄せます。
「伴奏、頑張ろうね」
ほんのり赤い顔をした彼もきっと、どきどきでいっぱいなのでしょう。
「もちろん」と「ありがとう」と、「頑張ろうね」も込めて、わたしっは最大級の笑顔で大きくうなずき返しました。
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