第34話

 ついに卒業式本番。わたしはピアノ椅子に座って待機中、「ぼくはこの曲やりません」と夕灯さんが宣言したあの日を思い出していました。

 初めての卒業式練習での突然の宣言。次は合唱の練習というところでいきなり伴奏者がボイコットして、何も知らないみんなはさぞびっくりしたことでしょう。

 かくいうわたしも、「どうにかできるから全部ぼくに任せて」と自信満々の彼からとうとう何をするつもりか聞き出せておらず、きっとこの300人ほどの空間でいちばん驚いていたことに違いありません。ほんともう腰を抜かすかと思いました。

 音楽の先生は目を丸くしてしばらく黙り込み、「この曲はやらないし、練習してないので弾けません」ときっぱり続ける夕灯さんを、「どうしてしなかったの? じゃあ誰がすればいいの?」と責めたてます。その声は困惑が多すぎて、いつものあの鋭さや冷たさを感じられませんでした。

 面白いことが起きている雰囲気を察して、待たされてる5、6年生たちが興味しんしんに彼らを見つめます。

「あのね夕灯さん、もう本番まであとちょっとしか……。大体、冬休み前に楽譜は渡したでしょう?」

「でも、ぼ、ぼくは弾きません」

 直前で伴奏を拒否された『未来の歌』。これを弾くのは、そう――。

「ぼくより夏俐さんのほうがっ、上手く弾けるので!」

 いや絶対、絶対夕灯さんのほうが上手いけどね!

 わたしを手のひらですっと指した彼は晴れやかな、まるで人生の念願が叶ったような笑顔をしていました。

 思わず立ち上がってしまいめちゃくちゃ注目されてそれはもう恥ずかしかったけれど、でも、こんなに大勢の前ではっきり宣言してくれた友だちの姿にわたしは今でも憧れています。

 さあ、彼のおかげで迎えられた本番が始まる。

 緊張感と春の空気でいっぱいになった体育館。今からはわたしたちの音楽を満開にしてみせます。


 『未来の歌』。

 どこまでも高く高く続く青空。春の南風が、空を飛ぶ真っ白の鳥と共に吹き抜けていきます。どこまでも、果てしなくどこまでも。

 夢に向かって一心に翼を広げる鳥。目指す先は大空なのか、煌めく瞳はその先に何を見ているのか。透明な風を受け、まっすぐまっすぐ空を裂いていく鳥の姿は、夢を追いかけて未来へと進むわたしたちのようです。

 澄みきった風。力強い純白の翼と、突き抜ける青空。

 さあ、明るく未来へいこうじゃないか!


 弾き上げて、まず後ろで待機する夕灯さんを返り見ました。

 どう?

 すっと背筋を伸ばして立っている彼は、にっこりと素直で素敵な笑顔を見せます。

「すごい、最高だよ」

 小さな声でささやかれて、湧いてきたこの気持ちはもう、何とも比べられません。わたしはこの6年間でいちばんいちばんいちばん嬉しい気持ちになりました。

 とうとう、卒業です。



 輝かしい『未来の歌』に続いたのは、5年生による今年も同じの『羽ばたきの歌』です。

 それに力強く背中を押され、どこまでも進めるような気でいたみんなも、次に夕灯さんの弾いた『思い出の歌』に心を揺さぶられたのでしょうか。そのときから泣きだした子が多く、前の2曲により明るい希望でいっぱいだった体育館に優しく大切な影が落ち、卒業をみんなの心に確かなものとして据えたことでしょう。

 卒業式というこの場にこの3曲はあまりに最高の組み合わせです。最後までわかりあえることはなかったけれど、やっぱり、これを選んだあの音楽の先生はすごい方なのでしょうね。

 それと、わたしはその瞬間を逃しませんでした。縛るものがあると風の吹かない夕灯さんのピアノに一瞬だけよぎった、宝物のような素敵な匂いの風。その風はみんなの心に染み渡ったのか歌声が良い意味で揺れて、その揺れは聞く人の心も揺らして、さらさらと美しい波が広がっていったのをわたしははっきり感じていました。夕灯さんの力に、ちょっぴり恐ろしくなったくらいです。

 そんな卒業式ももう終わり。

 目を涙に濡らしながらも笑い合う卒業生の中で、わたしはまた風に吹かれています。

 でも、まだひとつ楽しみが残っているのです。

 わたしの小さな手から伸びる細い紐。日に当たり輝くそれを辿って見上げると、先についた真っ白の風船は空を透かしてほんのり水色に染まっていました。

「夏俐ー!」

 振り返ると、ふわっと紐の先で風船が揺れ動きます。

「ほら、見て見てー!」

 今ちょうど貰ったのか、駆け寄ってきた姫花も風船を握っていました。桜みたいな可愛いピンク色。さすが姫花、今日は周りが全部彼女らしい桜色です。

 ふたりで短い坂を下りて運動場へ進みます。集まった卒業生たちはみんな、配られたふわふわ浮かぶ風船を楽しそうに眺めていました。一面がとってもカラフルで、すごく綺麗です。

 幼なじみ怜歩さんはさすがにチョコレイトを極めてなかったみたい。こげ茶の風船とかそりゃああんまりないでしょう。

「そこは貫いてほしかったなぁ」

 姫花が彼の真っ赤な風船を見上げてぼやきます。

 そこで、青色の風船を貰った夕灯さんも来ました。今日の青空よりもちょっとだけ濃いブルー。

 ふと気づくと流れで4人集まっていました。姫花と怜歩さんはクラスの友だちのところに行かなくていいのかな? と思っていたら、夕灯さんも同じ考えだったのかわたしより先にそれを訊いてくれました。

「ああ、あたし夏俐と一緒がいいから」

「おれらのクラス絶対叫ぶしうるせえからさ」

 なるほど、姫花はわたしと一緒がよくて怜歩さんは姫花と一緒がいい、と。

 わたしと夕灯さんは顔を見合わせ、ふふふっと笑い合います。本当に、良い友だちです。これからも大切にしなければ。

 4つの風船は隣と触れたり離れたり、羽ばたく瞬間を待ち望むように楽しげに揺らめいています。

 卒業式のお楽しみ。これから卒業生がみんなで一斉に、この風船を大空へと飛ばすのです。

 南風にふわふわただよう百いくつの風船たち。今、運動場の前の方で合図が出されました。

 みんながはしゃぎながら紐から手を離します。

 解き放たれた風船たちは、すっとまっすぐ天に向かって飛んでいきます。姫花のも、怜歩さんのも、夕灯さんのも。

 その光景に見とれていて少し遅れたわたしも、ふわっと手を開きます。

 綺麗な真っ白の風船は、未来に向かって。

 空高く飛んでいく様子を、わたしはずっとずっとずっと見上げていました。



 END

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今日はわたしの風が吹く 彼方みるく @kanata_milk

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