第13話
心配する姫花の視線を浴びながら、今日もわたしは体育館ステージの最前列に立っています。背が低いから仕方ない。歌わないのに真ん中にいるのも仕方ない。
いよいよ本番が来週に迫っています。練習も大詰めの今、ぴりついた雰囲気の中どうにか息をするしかありません。
でもやっぱり、去年までに比べたら気持ちが楽かも。きっと、成長と諦めのおかげです。
それでもさらに楽をしたいわたしは、先生の顔から目をそらします。顔ごと他の方向を向けば悪目立ちしてしまうので、あくまで視線だけ。
夕灯さんのピアノからは、あの夏のような夜空は広がりません。
歌声の渦の中でぼーっとしていたら、不意に先生が手を止め、ピアノも歌も止まりました。
「次は、合奏と合唱の両方を通しでやってみます」
本番通りの練習です。そう声をかけられて、みんなが静かに定位置に移動します。聞こえるのは靴下と床の擦れる音だけ。誰もなにも喋らないのは、先生を怒らせるとめんどくさいから。
いつも通りのがちゃがちゃとした合奏。わたしは鉄琴の担当です。合奏を終えたら、バチをさっと片付ける。そして、黙ってすばやく合唱の形に整列。もう何十回もやったので慣れています。
整列が終わると、普段の練習通り先生の指揮が始まってピアノが入ります。曲はもちろんあの『星空の歌』。でもやっぱり、風は吹かない。
歌が始まり、わたしは置物になります。
通し練習なら、さらに何も考えなくていい。
今年になりようやく諦めることを覚えて、気が楽になりました。結局声は出ないくせに、みっともなく金魚みたいに口をぱくぱくする必要はない。ただ、立っていればいい。
1番が終わる。ピアノ間奏が始まる。それを淡々と眺めているような気持ちでいました。
やはり今までのような焦りがないです。諦めって肝心なのかもしれま、……せん。
「……………………!」
指揮、が、止まりました。
少し遅れてピアノが止まり、それに気づいた歌がようやく止まります。
ステージに並ぶ5年生たちに、さわさわとどよめきが広がりました。
「え、なんで」
「あれ? 通しじゃないの?」
その中心で、わたしはひとり青ざめていました。
先生の、見たものを石にしてしまうような恐ろしい視線が、まっすぐわたしを貫いていました。
……どうして。
指揮台から降りた音楽の先生が、1歩、2歩、前に出ます。姫花のような煌めきや、夕灯さんのような光は微塵もない、暗く無情な瞳が、わたしを凍りつかせました。
わたし……今日は、何もしてない。
なんにも、みんなの前で睨まれるようなこと、してない。
「林田さん」
先生は乱暴に、わたしの名前を言い放ちました。
「そんなんなら出ていってちょうだい。要らないし、邪魔だから」
突然のことに目を見開いて固まったわたしに、先生は責め立てるように続けます。
「あなたずっと突っ立ってるだけじゃない! こんなにも他のみんなは頑張っているのに」
「口を開いたと思えばデタラメだし、注意すれば口すら動かさなくなるし」
「そんなあなたがいるせいでみんなのやる気も削がれてしまうんですよ!」
「声のこととかあるのはわかるけど、自分にもできることがあるかとか、いつか聞きに来ると思ってず――っと待っていたけど」
「伴奏をやる気もないみたいだし」
「今日まで待っても何も行動しないじゃない」
え、え、ちょっと、ちょっと待って。
わたしは、わたしは……。
「あのね、聞いてるの? 今あなたは学年全員の時間をひとりで無駄にしているのですよ!」
降り掛かったその言葉に、わたしは信じられない思いで先生を見つめます。
わたしは……。
邪魔にならなくていいなら、なりたくないの。
聞きにくることができないの。声が出ないの。
どうせ書いたってあなたは見てくれないの。
伴奏できるならしたいに決まってるの。
わたしだって、できるなら、できるなら。
みんなと一緒に、歌いたいの。
急に……急に、なんなの?
「ほら、早く出ていってください」
……それなら最初から。
「泣いたってしょうがないでしょう!」
……最初から、ここに、立つつもりはないのに。
でも、でも、ここにわたしの立ち場所をつくったのは先生でしょう?
「その涙になんの意味があるんですか。そんなだから――」
先生が言ったのはそこまでだった、と、思います。よくわからないのは、はっきり聞こえなかったし、聞くつもりもなかったからです。
わたしは突然真っ暗のなかに突き落とされて、そこで動けなくなっていました。
ああもう、このふらつく足で構わないから走って逃げだしたい。本当は。
でも「出ていけ」と言われて本当に出ていく小学生なんていません。みんなもわたしも、わかっています。大人とは、そんなものなのです。
だからもしみんなだったら、今取るべき最善の行動は誠心誠意謝ること。でも、わたしは、それを文字にしかできない。
聞かなくても聞こえる声とは違う、見ないと見えない文字は、きっとあなたは見てくれないでしょう?
じゃあ、もう――。
「………………!」
――いまさら、気づいた。
いま、今のぽかんとした先生の視線の先は、わたしじゃない。
先生は、丸くした目でピアノを見ていました。
どこかで聴いた歌が、ピアノから流れ出しています。それがすぐ何の歌かわからないくらい、わたしの頭は動かなくなっていました。
徐々に、わかります。
深い紺の空。
無数の星粒、そして、風。
夜空の匂いをたっぷりと運ぶ風。
レモン色をした大きなひかり。
そうだ、ピアノの音、夕灯さんの『星空の歌』。
さっき止められたところの続きです。4小節の間奏を終えて2番に入ると、おそるおそる探るように、みんなが歌いだしました。
先生の指示もなく歌声が生まれたのは、きっと彼のピアノのおかげです。ただの伴奏じゃない、本物の夕灯さんのピアノ。風の匂いを運ぶような音に歌を煽られて、草花は歌うしかなかった。
最初は数人。でも声の束が集まって、次第にいつもの合唱へと進化します。
その様子を、いえ、正確にはピアノだけを、先生はあっけにとられて見つめていました。
ピアノから、あの夏のような夜空がくっきり広がっていました。
きっと、この場にいるみんなにも見えている。
先生は立ったまま固まっていて、まるで金縛りにあったようです。
……先生はこの景色、見たことがなかったのか。
――そうだ。
今しかない。
わたしは、一度服の袖で目元を拭うと、もう何も迷わずに、体育館の出口へ駆け出しました。
誰も、止めようとはしませんでした。
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