第5話

 窓の外では梅雨らしく雨がしとしと降っています。

 わたしは、小さめなアップライトピアノの前に座って、そっと蓋を持ち上げました。

 あさってのピアノ教室までに練習する曲は、今目の前に楽譜を置いているこの曲です。隣の席の夕灯さんとかにとってはすごく簡単な曲なんだろうけど、わたしにとっては何もかもが難しいので、たくさん練習するしかありません。

 真面目そうに並ぶ白と黒の鍵盤の上に両手を乗せて。最初の音は、えっと。

 ここは右手よりも左手をはっきり、次は音の粒をきちんと揃える。

 そうだ、この音は黒鍵だから。

「うるさい!」

「………………」

 ……あんなのに構っている余裕はわたしにはないんです。だから、無視して続けます。

「でね! ママあのね、えっと、そしてね……」

 3拍子の曲だから1拍目を強く、指遣いはこうして回して……。

「……え? ごめんあーちゃん、なんて言った?」

「あのね、あのね、あーちゃんがあのえっと、みいちゃんとね……」

 ここも黒い鍵盤だ。あ、左手はこうじゃないんだった。リズムがよくわからない……。

「そうなの。あ、そうだ。……ちゃんは……だったの?」

「なに? 聞こえんし! おねえちゃんピアノうるせーってば!!」

 ……ここで練習を止めるだけばかばかしい。

 わたしは無反応で弾き続けます。

「ねーえ! うるせーよ!!」

 足をダンダン鳴らしながらそう訴える妹は、まだ小学2年生です。

「うるさい! 死ねっ」

 早くも半泣きのわがままな妹になんて、構うだけ無駄どころか損なのです。

 無視を決め込んで弾き続けていると、ソファーの上に置きっぱなしになっていたわたしのホワイトボードが飛んできました。

 かわしたらピアノを傷つけてしまうのでわざとよけずに、肩にぶつかって落ちたそれを拾い上げます。

「はいはい、喧嘩しないの」

「おねえちゃんがうるせーから!」

「…………………………………………」

「でもねあーちゃん、物は投げちゃだめよー。まあ夏俐もちょっとは考えなさいね」

 料理をしながらこっちも見ずにそう言ったお母さんは、「で、休んでたあの子は元気だったの?」と妹への質問を再開しました。

 わたしたちは喧嘩なんて1回もしたことがありません。

 正しくは、今までのいさかいのすべては『喧嘩』じゃありません。

 必ず、一方的だからです。

 何を言われても、わたしは、言い返すことができないからです。それに、さすがに暴力でやり返すことはしません。面倒だし、後でどっちがより重い罪に問われるかなんて目に見えているし。

 わたしは、さっき妹に投げられたノートサイズのホワイトボードを見つめました。

 学校では小さなメモ帳だけれど、家の中ではこのホワイトボードがわたしの『声』になっています。

 だから、もしあの怪獣に言い返す術があるとしたら、ここに言葉を書くしかない。

 でも、わたしにはそんなこと怖くてできないし、したくない。

 親に怒られるから怖いわけでも、強気でわがままな妹に屈しているわけでもありません。わたしは言葉のそのものが怖いのです。

 声だったら、見えない。一瞬で言葉になって、意識する前にはもう消えていて、形にも残りません。

 でも、わたしの声、文字は、目に見えるのです。形として残るのです。

 声よりも文字のほうが、ずっとずっと言葉が重いような気がするのはわたしだけでしょうか。

 本当は、言葉の重みってどんな形であろうと一緒なのだろうけど。

 妹たちに見えないように、わたしが妹に言われた2文字の言葉をそのまま書いてみました。

「……………………」

 ペンのキャップについたクリーナーですぐに消してしまいました。

 汚い言葉やひどい言葉を、目に見える文字にして伝える勇気も気力も、わたしにはないんです。わたしがこの白いボードに書くことは、決まって当たり障りのない、必要最低限の言葉だけ。

 妹がもうお母さんと話し終わったのを見計らって、わたしはピアノの練習を再開しました。

 あのおしゃべり怪獣も今はテレビに夢中で黙りこくっているから、少しくらいなら文句も言われないでしょう。

 ……なんて、そんなわけないか。

「うるせーんだよっ、やめろ!」

 あと2小節。

「耳障りなんだよ!」

 耳障り。

 …………嫌いだ!

 わたしはもう、弾くのをやめました。

 なんでそんな言葉知ってるんだろう。なんでお母さんは何にも注意しないんだろう。

 どっちもの理由を知っていながらわたしは不満に思って、もうピアノはどうでもよくなってしまって、蓋をそっと閉めました。

 妹はそれで満足したようにテレビへ向き直りました。

 これも、日常です。

 自分の部屋に戻るために階段を上がりながら考えます。

 なんで2年生のくせにあんな言葉知ってるんだろう。

 ――お父さんとお母さんが使う言葉だからです。

 なんでお母さんは何にも注意しないんだろう。

 ――妹のことが可愛くてしかたないからです。

 会話ができない長女と違って、おしゃべりで明るくて笑顔が眩しい次女のことが可愛くて、つい甘くしちゃうからです。

 片方の娘は声が出せないのにも関わらず、うちの両親の耳はいつもいつも大忙しです。妹がずっとずーっと喋ってるから。

 きっと、わたしのぶんの声も持ってるんでしょう。

 それと愛想も。

 だから、仕方ない。仕方ないとはわかっていても。

 わたしは妹が大嫌いです。

 勉強机とベッドと本棚だけがあるシンプルなわたしの部屋に入って、机に置いていた黄色い子供ケータイを手に取ります。

 予想通り、姫花からメールが来ていました。

『やほ! ねえそういえば今日の席がえでもなつりってゆうひさんの隣だった?』

『そうだよ。2連続だね』

 返信すると、さすが彼女というべきかすぐさまあちらからも返ってきました。

『先生が考えた席なのにすごいね! ぐーぜん』

 隣の席の夕灯さん。ピアノが得意で毎年伴奏者を務める、「話す」ことに難しさを抱えるクラスメイト。

 そういえば、彼にも下に妹がいると聞いたことを思い出しました。

 夕灯さんたち兄妹は似ていて仲良しなんでしょうか。それとも、彼が話すのが苦手な分、下の子はうちの妹みたいにおしゃべりなんじゃ。うちの妹は飽き性でピアノをわたしと同時に習い始めたものの1ヶ月で辞めたけれど、彼の妹はどうでしょう。もし妹さんもピアノをしていたら兄妹連弾とかできそうだな。

 気になります。でも、学校で、ましてや夕灯さんの前でまで妹の話なんてしたくないので、明日訊いてみようかなと思ったけれどすぐに取り消しました。メモに書いてまでして訊くような大事なことじゃないからというのもあります。

 そのあとも、姫花とメールで色々と話していると、1階から「いただきまぁす!」と大きすぎる妹の声が響いてきました。

 またご飯の時間なのに呼んでくれなかった、と思ったけれどすぐ、ご飯の時間にリビングにいなかったわたしが悪いなと考え直します。

 メールのやり取りを切り上げて階段を降りると、デミグラスソースのいい匂いがしました。今日はハンバーグです。

 普通に考えてみんなの好きそうなメニューだからといって、油断してはいけません。

「ほら、チーズだけ取って食べない。お肉と一緒に食べるもんでしょ」

「なんでだめなの……いいじゃん!」

「ご飯とおかずを交互に食べなさい! ご飯だけ先になくなっちゃう!」

「……………………」

 イライラ気味の声になりだしたお母さんと妹の会話を聞き流しながらわたしは、できるだけ早く、でも周りから見て違和感のない速さで黙々とご飯を食べていました。

 家の中では基本、ホワイトボードなどのわたしの『声』が常にそばにあるわけではありません。今は投げられたあとのままピアノのそばに置いてあります。

 手の届くところに『声』がないなんて、もしこれが学校だったら不安でたまらなくなるけど、家では全然大丈夫。

 別に、家族は手話が通じるからとかではありません。

「手を動かさんならテレビ切るよ! さっさと食べて」

 そもそも、話す必要がないんです。みんな忙しいから。

「なんでスープのソーセージだけ残すわけ? ハンバーグも全然食べてない。お肉嫌いなの?」

「ハンバーグのお肉とウィンナーはおいしくない!」

「なんでなの? 前は食べてたじゃん」

「ただいまー」

「あ、おかえり。ほら、パパ帰ってきたのにまだ半分も食べてない」

「………………」

「ほら、なんで『ばっかり食べ』するの! ご飯ばっかりじゃなくてお肉もお野菜も食べなさい!」

「……いぃやあ……」

「嫌じゃない。ほらさっさと食べなさい」

「……………………」

「まったく昨日はおかずだけ先に全部食べて、ご飯だけじゃ美味しくないとか言って残したのに……」

「知らんし」

「はぁ……ほらほら、スープ早く飲まないと、また冷たくなったら美味しくないって言うでしょ!」

「今ハンバーグ食べてるじゃん見てわかんねーの!」

 機嫌の悪い妹の近くにいて良いことなんて本当にゼロなので、わたしはとにかく急いで食べ終わろうとがんばります。

 やがて妹が泣き出したのも、着替えてきたお父さんが食卓についたのも気にせずに。

「…………………………だろう」

「だって………………だし」

「……、でも………………」

「…………………………」

「……なあ、夏俐はどうだ?」

「………………」

 しまった、早く食べることに集中しすぎて、お父さんの話をまったく聞いていませんでした。

 妹のせいでお母さんがイライラしてるときなんかは特に、お父さんがどうでもいいようなことをよく喋ります。必ずどうでもいいようなことだから、いつも聞き逃すのです。

 わたしが黙ったまま動かないでいると、お父さんは微妙に笑って、話を繰り返してくれました。

「あーちゃん、前よりも背が伸びたと思わないか? きっとママの美味しいご飯をたくさん食べてきたからだろうなぁ」

 妹の身長なんて別にわたしはどうでもいいのだけれど、彼女は普通よりとても小さい体で産まれた子なので、両親にとっては重要なのでしょう。

 適当にこくこくとうなずいていると、お父さんは安心したように笑いました。

 そんなふうに、あまりにいつも通りの食卓だったので、わたしは食べながら眠くなってきました。

 ちゃっちゃと食べ終えてまだ妹がぐずっているのを横目にお風呂に入り、上がって髪を乾かしたら歯磨きをして、そのあとは2階の小さな自室にこもります。

 いつもだったらこれから本を読み始めるのだけれど、やっぱり眠たかったので、日記を書いて明日の準備をしたらすぐに寝てしまいました。

 今日家に帰ってからあのホワイトボードに書いたのは、誰にも見せないたったの2文字でした。

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