第6話

 翌日の朝、パンの耳だけ残す妹とお母さんがまた言い合いをして、今度は癇癪を起こした妹がわたしの牛乳のコップをわざと倒してきました。

 汚れたせいでもう一度着替えてから家を出たけれど、登校班の集合時刻にはちゃんと間に合ったので何も問題ありません。

 今日も雨が降っていました。長靴を履きたくない妹は家を出るときに大泣きして、いまだに泣きながらも登校班の6年生に手を引かれてやっと歩いています。

 こんなとき、実のお姉ちゃんであるわたしがついてあげるのが当たり前なのでしょうか。

 わたしにはわかりません。手を差し伸べれば噛みつかれるので。

 泣いていてもぼーっとしていても、誰だって歩いていれば学校にはちゃんと到着します。門のところには何人かの先生が立っていて、班の子たちは先頭の6年生に続いてあいさつをします。いつのまにか泣きやんだ妹もみんなも、大きな声で。

 列のいちばん後ろにいるわたしは、あいさつはできなくても、ちゃんと会釈をして通り過ぎます。

 大丈夫、横断歩道にいるボランティアの人ににらまれることは多いけど、学校の先生ならきっと大丈夫。

「おい」

 びくっとした拍子に木の枝に傘が当たって、水滴がたくさん落ちてきました。

 振り返ると、4年生の担任をしている怖い先生が、腕組みをしてわたしを見ていました。

「おはようございます」

「……………………………………」

 圧たっぷりのあいさつをされて、数秒間固まったあとどうしたらいいか考えたけど、やっぱりわたしは頭を下げるしかありませんでした。

 すると、顔をしかめた怖い先生の横にいた、5年生のわたしとは違うクラスの担任をしている先生が、何かに気づいたようにはっとしました。彼が怖い先生に、何かをそっと耳打ちします。何か、というか、まあ。

 わたしは登校班のみんなに置いていかれていたので、その隙に追いつこうと思って小走りで進みます。門から靴箱までにだいぶ距離があるので、校内に入ったとはいえ班行動をすぐに崩してはいけないのです。

 走りながら、なんだか急に泣きそうになりました。雨だからでしょうか。

 でも、そのとき。

 梅雨じゃないみたいな爽やかな風がどこかからか一瞬だけ吹いて、わたしの前髪をまきあげました。

 ふと立ち止まります。

 班にはまだ追いつけていません。それでも、進む気がなくなっちゃったんです。

 さっきの風で、ふいに、この前に音楽室でちょっとだけ聴いたあのピアノの旋律を思い出しました。

 わたしの毎日も、あんなふうに綺麗な風の匂いがすればいいのに。

 思わず、うつむきます。濡れた真っ黒のアスファルトと汚れた長靴しか見えません。

 ………………。

 わかっています。

 わたしだって、わかっているんです。

 こんな毎日を変えないといけないって。

 「仕方ない」で片付けちゃだめだって。

 それに、変わってほしいって思い続けるだけじゃだめだって。

 自分で変えなきゃだめだって。

 家族への親近感がまるでクラスメイトと変わらないのも、何をするのにも声を出さないから失礼な子だって思われるのも、いろんな人がわたしを呼んでくれなかったり置いていったりして忘れることも、日常になっちゃだめだとはわかっているんです。日常にしちゃ、だめだって。

 すべてが声のせいじゃないのもわかっています。それでもやっぱり、音ほど人の注意を簡単に引けるものはないでしょう。

 だから、それを持たないわたしは個性を作り出してアピールしないと、誰もわたしを見てはくれない。

 しかし現実は、わたしにはなんの取り柄もない。

 苦手なことがあっても別の方向から立ち向かう夕灯さんとはまるで違って。

 どうしたら、いいんだろう。

 立ち止まったまま動かないでいると、後ろから来た知らない登校班の人たちが、邪魔そうに物珍しそうに横を通りすぎていきました。

 わたしは変に目立ちたくなんてないので、無理して右足を1歩前へ出します。

 それをしばらく繰り返してようやく、ごった返す靴箱につきました。わたしの登校班の人たちはすでにわたし抜きで短い反省会をして解散していました。

「あ、おはよう」

「……………………」

 クラスの中で姫花以外にひとりだけ、わたしによくあいさつをしてくれる女の子がいます。いつもはちょっと嬉しくなるのだけれど、今日はちゃんと返事のできない自分に嫌気が差してしまって、無理やりに笑顔を作り出しました。

 ふと、夕灯さんは上手く喋れなくても「またね」って自分から言おうとしていたのを思い出して、改めてすごいなぁとため息が出ました。

 さっきの女の子にでも、あっちから声をかけてくれないと、わたしは手を振ることすらしない。朝や帰りのあいさつラッシュの時間帯は、なるべく空気になろうとしてしまうのです。

 ほら、こんなんだからなんにも日常が変わらない。

 時間もわたしを置いていって進みます。もう朝の会、歌の時間。だらだらとした『6月の歌』の渦の中でもわたしは口を閉じたままです。

 隣の夕灯さんはどうしているかというと、唇は動いていないけれど指先がひらひらしています。無意識にピアノを弾く動きをしているようにも見えます。

 もしかしたら、彼には音感があるのかもしれません。音源を聞いただけで楽譜を見なくてもピアノを弾ける人の話は、よくいろんなところで聞きます。

 そんなことを考えて気を紛らわしていても、朝に沈んでしまった心はなかなか浮かんでくれませんでした。

 今年度は新学期に希望を持っていました。でもこの現状はなんでしょう。助けてくれる親友や、お手本にしたいような人が身近にいるのに、わたしはわたしを変えることができていません。

 夕灯さんみたいになりたくても、工夫とか言われても、結局はなにもできないままでいます。

 なにも。なんにも。



〝こんな毎日を、変えたいんです。〟

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