第4話
「ごっめえん夏俐! 愛しのカメちゃんたちのお世話があるから今日は帰れない! え!? 待ってくれるの!? まじ天使!!!」
放課後。こんなセリフとともに飼育小屋へ走り去っていく姫花を、軽く手を振って見送ります。
一緒に帰ると言っても校門までですが、わたしは姫花の委員会の仕事が終わるのを大人しく待つことにしました。
自分の席に座って、横にかけているブックバックから本を1冊取り出します。今読んでいるのは、学校の図書室で借りた外国の本です。
硬いカバーをめくると現れる題名。栞の位置に指を入れて一気に開くと、親しんだ活字の群れが目にとび込みます。
わたしに少しでも人より優れていることがあるとしたら、それは読書量だけだでしょうか。
小学校に入学して以来、毎休み時間が退屈なのでいつも本を読んでいたらすっかり習慣になっていました。それ以前の小さいころも絵本が大好きでした。
今は挿絵がたまにあるような本をいつも読んでいます。あんまり機会がないけど、絵がまったく出てこない本だって実は最後まで読めるんですよ。
じっとページをめくりながらファンタジーな世界へとんでいると、いつのまにか教室は空っぽになってしまっていて、蛍光灯すら消えてしまった教室にはわたしひとりになっていました。
もちろんまだまだ明るいけれど、西日にほんのり赤みがついてきて、わたしは少し不安になります。
姫花はまだ戻ってきそうにありません。どうしたのかな。
本を読む手を止めてそわそわしていると、ざざざっとほんのかすかにノイズ音のようなものが聞こえました。
5年生となれば誰でも正体は知っています。校内放送が入る前触れです。
黒板上のスピーカーを見上げると、すぐに音楽が流れ始めました。曲名は知らないけど、この少し切なくて暗い感じの音楽は下校時間をお知らせするものです。
もうそんな時間か、と思いながら、物悲しいゆったりしたメロディーを聴いていると、音が少しずつ小さくなっていきました。
放送委員の決まりとして音楽をぷつっと途切れさせるのは禁止らしく、いきなり音量を下げたり音楽を止めたりなんてしたら担当である音楽の先生が放送室にとんでくる、なんてうわさも聞いたことがあります。
たしかに、音楽の先生ならそんな細かいことにけちをつけそうな気もします。下手すれば委員会をクビになるとか言っている人がいたけど、いくらあの先生でもさすがにそれはデマでしょう。
今日の担当者はそんな決まりを忠実に守る放送委員さんのようで、お手本のように徐々に音量が絞られてからアナウンスが始まりました。
あ、放送委員と言えば……。
『げ、下校の、時間にな、なりました』
ぎこちない男の子の声に、思わずまたスピーカーを見上げました。
――この声は、もしかして。
『きょう、教室や、中庭、に、に、の、残ってる人、は』
途切れ途切れになりながらもアナウンスをやめないは、もしかしなくても夕灯さんです。
すごい、な。
彼が定型文を言い切ったのち、音楽は再びもとの音量で流れ始めます。それを聞き流しながら、わたしは少しぼーっとしていました。
夕灯さんは。
夕灯さんは、すごいな。
自分の苦手なことにでも文句言わないで。
いや、わたしみたいに、文句すらも言えなくて苦しいのかもしれないけれど。
でも、それでもちゃんとちゃんと一生懸命で。
歌えなくても伴奏をしたり、理不尽に押しつけられても委員会の仕事をまっとうしたり。
わたしには、絶対にできないです。
わたしはいつも逃げてしまいます。
声が出ないから、出せないから、いろんなことから逃げています。
よく、諦めるしかないんだよね、仕方ないよ、と励ましのようなことを言ってくれる人もいますが、違います。
わたしは、諦めてるんじゃなくて、逃げてるんです。
もっと頑張れば、頭を一生懸命使って考えれば、もっとできることがあるのかもしれないのに。それこそ夕灯さんみたいに、工夫すれば。
それなのに逃げてしまうんです。まわりに「これは無理かな?」と聞かれると首を縦に振ってしまうんです。まわりが何も言わないなら言わないで、わたしも何にもできないまま棒立ちしてしまうんです。
そんなわたしだから、夕灯さんにはもう、すごいとしか思いようがありません。
そうぐるぐる考えていると、もう帰りの放送はすっかり終わっていました。
本を読み進める気にもなれずなにもしないでいると、ふいに教室の後ろの扉が開きました。
「わっ」
振り向くと、放送を終えて戻ってきた夕灯さんでした。彼はきょとんとしたまま扉のところに立っていて、わたしはタイミングのすごさにどきっとしました。
「な、なんだ。なつ、なつりさんか」
彼はほっとしたようにそう言うと中へ入ってきました。普段自分から言葉を発することのない彼がひとりごとのようなことを言ったのと、わたしを見て安心したような顔をしたののどっちもが不思議で、わたしは誰にも見えないハテナを浮かべました。
「あっ」
その声にびっくりして振り返ると、夕灯さんが申し訳なさそうな顔をしました。
どうしたの? の意味を込めて首をかしげます。
「ひ、姫花さんが」
困ったように苦笑いしながら、彼は数分前の出来事をゆっくりゆっくり教えてくれました。
放送室から5年3組教室に戻る途中の、1階の渡り廊下。そこは飼育小屋と近く、なにやら悲鳴みたいなのが聞こえるからなんだろうと思い覗いたら、ずぶ濡れになった飼育委員たちがいたようです。
「じゃ、あぐち、えっと、蛇口が、こわる、壊れた、み、みたい。まだ、……も、ど、どらないっ、かもね」
その光景を想像するとちょっと面白いけど、大変そうだなぁ飼育委員ってすごいな、と思いました。大変と言えば放送委員もですが。どちらも放課後まで残らないといけないのは大変そうなのですごいです。
「そ、そういえば、ほう、そうさ」
放送さ? なんでしょう。
「ろ、6年生が、こ、ここの、じ、じ、時間、専門にして、くれ、くれたんだ」
そう聞いて、ピンと来ました。メモにさっと書き見せます。
〝きいてる人ほぼいないじかんだから?〟
夕灯さんはうんうんとうなずきました。
不思議なピアノを聴いたあの日、6年生の放送委員が夕灯さんを捜して話していたのを思い出しました。きっとあのときでしょう。
わたしは委員会の人の優しさに、関係ないけれど思わず笑顔になります。
〝よかったね!〟
「うん……」
ふたりの間が無言になります。これで気まずいなんて思っていたらわたしたちは生きづらすぎてさらに大変になっちゃうので、特に何も思うことなく、夕灯さんはランドセルの蓋を閉めて背負おうとしていました。
「ま、ま……」
手を中途半端に上げた彼の仕草から「またね」と言おうとしていると汲んで、わたしは笑顔で手を振ります。
「ま、またね」
夕灯さんが教室を出ていって、わたしはまたひとりになりました。
ぱたんぱたんと階段を1段とばしで駆け下りる音が響いて教室まで聞こえてきました。
その音も遠ざかったころに、わたしは立ち上がります。
下まで持っていってあげようと思って姫花の桃色のランドセルを手に取り、もちろん自分の水色のランドセルも背負って教室を出ます。
誰もいない、ただ自分の足音が反響するだけの階段を降りながら、ずっと考えていました。
〝ゆうひさんみたいなすごい人になるには、わたしはどうしたらいいんだろう。なにをどう、工夫したらいいんだろう。〟
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