第9話
――ごくり。
今年もやって来ました。わたしがここ5年間ほど、毎年勇気を振り絞っているときが。
相手は音楽の先生よりももっともっと怖くない存在。でも、心の遠さはあまり変わらないかもしれません。
そう、その相手は、わたしのお母さんです。
お母さんはスマートフォンを片手に、わたしが両手で持っているホワイトボードをじっと見つめています。
わたしが丁寧に書いたその文章、一応ちゃんと呼んだお母さんは目をそらしてこう言いました。
「だーめ。あんたが行ったらどう考えても迷惑になるでしょ」
……今年も、だめだったか。
内心はかなりしゅんとしていたわたしですが、それを見て取られないように、数ミリだけのがっかりを顔に浮かべてうなずきました。
家でのわたしの『声』となっている、百均のホワイトボード。それにはこう書きました。
〝夏休み、姫花の家でおとまり行ってもいいですか? 姫花のお母さんは良いって言ってるらしい〟
わたしはこれを、小学生になってから毎年繰り返しています。
最初はわたしだって迷惑だと思って、お母さんに聞く前に断ろうとしていました。どう考えても迷惑。だってわたしは喋ることができないから。
一般に言う、障がい児というやつだ。と、大人たちは言っていました。
でもその考えは案外すぐにひっくり返ることになります。それは小学1年生の8月、姫花のお母さんに会ったときのことです。
『え? お泊り? えーおいでおいで!! 大歓迎よ! 食べれん物ある? あ、その前に夏俐ちゃんのお母さんにも連絡しないとね。電話番号とか今度教えてもらえるかな? それかそちらが良かったら直接会いに行くけど!』
姫花の『お泊りしていい!?』を聞くやいなや、マシンガンのようにそうまくし立てた山﨑家の母。あの笑顔にまったくの嘘が混ざっていなくて、姫花と同レベルで喜んでいることが伝わってきました。
迷惑じゃない、むしろにぎやかになって喜んでもらえるならわたしだって行きたいです。すごく。でも我が家の許可が出ないので、まだおあずけにするしかありません。
もしかしたら、中学生になったら許してもらえるかなぁ。
わたしはまだまだ諦めていません、来年も、来年だめだったらその次も挑戦します。それを繰り返すうちに、親の許可が要らない歳になってしまうかもしれません。まあ、それはそれでいいでしょう。
だって、姫花とはいくつになっても友だちでしょうから。
そんなことを考えながら、文字を消したホワイトボードを置いてピアノの前に座ります。重たい蓋を持ち上げると、白黒のステージが現れます。暖かい色合いの白と漆黒。押し込めばとーんと音が鳴る。
今は妹も習い事に行っているのでいません。文句を言う人はいない、ふふふ。
練習曲の冊子を開いて、今週の宿題である青丸がついた番号の曲を見つめます。冊子に
勝手に閉じてしまわないように他の楽譜でページを止めて、いざ鍵盤に両手をはわせます。
楽しい。
――音が歩く、進む、回る、流れる、跳ねる、沈む、そしてまた歩く。
機械的な動き。それでも工夫すれば、波や風のようなふくよかさを出すこともできる。
どんな単純な練習曲だろうと、いや、練習曲だからこそ、最後の1音の指を鍵盤から離すまで意識して。
そしてわたしの周りが無音になり、はー、っと音にならないため息をつきました。
やっぱり、楽しい。
変な義務感で始めて続けていたピアノが、楽しい。
ピアノを前にして集中してこの音をなぞっていると、悪いものや嫌なことがあまり浮かばなくなります。
ちょっと前までは嫌でもあの音楽の先生の言葉や顔が浮かんでいたのに。
ほら、今だって、ピアノを弾き終わってやっとこんなことが脳内に出てきました。弾いている間は、先生や音楽発表会の存在すら忘れてしまったような、そもそも最初から存在なんてしなかった世界にいるような気もします。
負の方向に振れるものがわたしから遠のく。しかし、だからといって良いものや綺麗なことが無数に浮かんでくる、というわけでもないのです。
すべてがどうでもよくなります。目的のはずの伴奏でさえ、どうでもいい。別に伴奏なんてできなくてもいい。ただこうやって拙くても音を紡いでいけるなら、それだけでいい。
気がつくと、家にお母さんもいませんでした。妹の迎えにでも行ったのでしょうか。
ま、どうでもいっか。もっと細かいところを弾こう。ひと通り終わったら、もう一度頭から通して弾こう。そしてそれが終わったら、今度は練習用じゃないほうの曲だ。今の曲は――。
今まで、日々の中で楽しいことと言ったら姫花と遊ぶことと、あとは読書くらいでした。夏休みなんて、宿題が終わったら本当にずっと本を読んでいるだけでした。
でも今は、違います。景色なんて見えないし、風なんて吹くわけがないけれど、わたしにはピアノがある。
夕灯さんと比べたら、わたしのなんてただの音。でもただの音でもいい。だって楽しいから。
その日、満足してピアノの蓋をそっと閉めた頃には、空が橙色に染まり始めていました。
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