〝5年、秋〟

第11話

 今年も始まってしまいました。わたしが懸念していた、あの世界一息苦しい季節。

 ……わたしにとって息苦しいだけですけどね。

 朝の会で配られた保護者向けのプリントを、じっと見つめます。

『……年度 音楽発表会のご案内』

 運動会も終わり、残る大きな行事は音楽発表会だけとなりました。校内は、すでに音楽発表会一色です。

 毎日のようにある音楽の授業。それに加えて、朝の時間やなにも予定のない学活のときなどには、クラスでの自主練習(という名の担任監督の練習)も行われます。

 声を持たないわたしが「邪魔者」になる季節です。

 もちろん、合唱だけじゃなくて合奏の練習もあり、そのときならわたしは邪魔者ではありません。しかし実は合奏はそこまで難しくないので、あまりたくさん練習時間を取らないのです。

 いや、練習が短い理由はそれだけじゃない。うちの小学校の音楽の先生は合唱の指導で有名な人だとも言われていて、合唱には並々ならぬ熱意を持っているせいもあります。

 つまり端的に言うと、指導がすごくすごく厳しい。一般の生徒にもとても高い理想を求めます。その理想をただの小学生が叶えるためには、練習時間をたくさん取るしかないのです。

 厳しいのは歌に対してだけじゃなくて、伴奏にも。去年のリハーサルのときなんか、ひとつ上の学年の伴奏者が大泣きするまで先生に怒鳴られていました。それも全校生徒の前で。

 無論、わたしの学年はあの夕灯さんなので、怒られていたことなんて今まで一度も見たことありませんが。

 今日だって夕灯さんは完璧でした。楽譜をもらってまだ1週間だったオーディションのときとは全然違い、緻密でムラがなく端正な伴奏。音楽の授業が終わったあと、にこやかな先生に話しかけられながら肩に手を置かれていました。わたしだったら考えられないことです。

 でも、ものすごく綺麗な伴奏なのに、あのときみたいな情景や風は感じられません。

 しかしその原因は、彼のピアノじゃないとわかっています。きっとわたしの心がけがれているせいです。

 様々な嫌な思い出のある音楽の授業、さらに今は合唱の練習です。ましてやあの先生もいる空間で、あれほどの星空が浮かぶことなんて相当難しい。

 きっと素晴らしい伴奏のはずなのに、それを感じることができないほどこの季節の心は荒んでいるんだろうな。

 そのことが残念でなりません。

「夏俐? どーしたの暗い顔して」

 姫花の言葉に「なんでもない」を表すためにわたしは笑顔で首を横に振りました。

 あれ、でも。

 あの夏、夕灯さんは言っていました。

 ――『だあ、誰もいない、と、ときしか、上手く……』

 クラスの全員、全体練習となれば学年のみんな、はたまたリハーサルや本番となれば全校生徒。言葉通りにいくと、その大勢がいる前では上手く弾けないということになるのでしょうか。

 いや、わたしは何を考えている。今の彼の伴奏が上手くないのなら、一体どれを上手いピアノと言えるのでしょう。

 でも、彼の『上手く弾けた』ときのピアノは、あの星空や風が……。

 ううん、だからそれは、わたしの心のせいだって。

 きっとそう。

 ああ、図々しいけれど、またあの風の匂いを感じてみたいな。……わたしの心を綺麗にしないといけないのなら、無理か。

 だって夕灯さんの伴奏は、わたしの心が最も濁るあの合唱の時間にしか聴くことができないのですから。

 お願いすれば弾いてくれるのかもしれないけど、そのために話しかけるのもなんだかだし、そもそもピアノが使えないと。

「夏俐、そろそろ廊下に並ばなきゃ。体育館行くよ」

 そうだった、もうすぐ合奏と合唱の学年練習です。今はそれを控えた10分の休み時間。

 嫌だなぁ。

「夏俐、大丈夫、あたしがついてる」

 励ましてくれる姫花に向かって、わたしは小さなほほえみを浮かべます。

 秋らしい涼しい風が抜ける廊下。わたしたち3組が行かないと奥に教室がある4組が出られないので、早く出発しなければいけません。

 後々邪魔になるので、個人持ちであるリコーダーや鍵盤ハーモニカが必要な人以外はなにも持たずに行きます。楽譜は基本全部覚えます。

 その中で、ひとりだけ黒い画用紙に貼った楽譜を持っているのは夕灯さんです。あれはきっと『星空の歌』の伴奏譜。

 ……大丈夫、きっと大丈夫、たった45分だけ我慢すればいい。

 いや、違う。我慢するだなんて考えはおこがましい。歌えもしないのに練習に参加させていただいて、ステージに立たせていただくんだ。わたしなんかのことを、邪険に追っ払わないでいてくれているんだ。邪魔者がそこにいることを許容してもらっているんだ。

 そう、そう思っておけばきっと、苦しくなんてない。

 わたしは大丈夫。

 そう言い聞かせながら挑んだのだけれど、あの先生の顔と声で、わたしはやっぱり一気に暗くなってしまいました。

 背が低いせいで、わたしが立っているのは5列あるうちのいちばん前。それも、合奏からの場所移動の関係で、ど真ん中とまではいきませんが中央近くが立ち位置になっています。

「みなさん、もっと口を大きく開けて歌いなさい。ほら何度も言っているでしょう。縦に4本分の指が入るくらい、ですよ」

 縦に4本は結構きつくないか。まあでも、それくらい徹底するからあの美しい合唱が生まれるのでしょう。

 わたしの学校の合唱は、先生が厳しいだけあってそれはとても素晴らしいものです。毎年、涙を流す保護者が多くいます。

 練習すればしただけ上達するものというのは楽しい。だから、順位をつけたりはしなくても、児童は合唱に本気になることができます。まあ、順位をつけないのは単純に、つけてしまえば必ず6年生しか勝てないとわかりきっているからでしょうけど。

 最前列から、ピアノの置かれているステージの端のほうを盗み見ます。しかし、横の人との間に指4本分も入らないくらいぎゅうぎゅうに合唱隊は並んでいるので、夕灯さんどころかピアノの黒い身体すらも見えませんでした。

 『星空の歌』の前奏が始まりました。みんなが、指揮台でなめらかに動く音楽の先生を見つめます。

 指が1本も入らないくらいの口で小さくため息をつきました。隣の子も逆隣の子も、他のクラスの子で面識はありません。わたしのこと、さぼって口パクしていると思っていてもおかしくはない。

 合唱中、わたしは口だけは動かします。さすがに何もせず突っ立っているのは気が引けるからです。

 2番に入る前に、先生は手を振って歌と伴奏を止めました。少し考えるような仕草をしたのち、声を張って指導を始めます。

「もっとひとりひとりが歌詞の意味も考えてみなさい。それから、始めにも言ったけれど口ね、口。もっと大きく。大きく開けないとせっかくのあなたたちの美声も聴こえません。でも……」

 すっ、と、わたしを射抜くなにかを感じました。

「金魚のように無駄にパクパクするのもみっともないからね」

 ……視線。

 できるだけあの顔を見ないようにしていたので、すぐに気がつきませんでした。焦点を合わせていた先生の胸元のネックレスから目線を外して、彼女の顔を見ます。

 冷たい。

 けれど、指導中の今なら悪気があるんじゃないと思う。先生は『先生』だから、正しいことを言っているはず。

 そうか、わたしが最前列で悪目立ちして、みんなの邪魔になっていたのでしょう。

 先生は授業の中で、音楽は音だけれど見た目も大切だと言っていました。

 みっともなくて邪魔になっていたなら仕方ありません。周りに迷惑をかけないよう、修正しなければ。

 彼女はまだわたしを見ていたので、謝罪するように少しだけ頭を下げます。周囲の子に気づかれない程度に、少しだけ。

 そうすると、先生の視線がわたしから外されたのを感じました。

 この先生は、大勢の前でわたしを名指しで指導したりはしません。だから、みんなは全体に向けた注意だとしか思わない。それはお互いにとってとても都合の良いことです。

「歌うどころか喋ったことのないあなたに、正しい口の開け方なんてわからないでしょう?」

「………………………………」

 ……いま、

 今、なんて言った?

 いや、いや、違う。だって、今の先生はわたしのことをまったく見ていなかった。伝えたいことは相手の目を見て伝えるものだ、と言っていたのは先生のはずなのに。

 空耳……かな。

 一応、周囲を少しだけ見渡してみます。でも、引きつった顔をした子や、気まずそうにする子、なんのことかわからず不思議そうに首をかしげる子、そんな子は誰もいませんでした。

 ……うん、空耳だ。ただのわたしの被害妄想だ。

 大丈夫。ちょっと疲れていただけでしょう。

 『星空の歌』の間奏が始まります。しっかり指揮を見つめて、わたしは邪魔をしないことだけ意識します。

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