第15話

 平日の昼間、しかもそこそこ田舎の住宅街というものは、恐ろしいほどに静かです。

 細い道には車どころか、散歩する人すらひとりも見かけません。無音で、生き物の気配がない。まるで、時が止まった世界に放り込まれたみたいです。

 もうだいぶ冷える秋です。地面の冷たさが靴下の足を蝕んで、ただ心臓の不気味な熱さだけが際立ちます。不規則な息はまだ白くないけれど、鼻に霞む空気はしっかりとした季節の匂いでした。

 閑静にもほどがある住宅街を歩き続け、今はまったく見たことのない場所をひとりでさまよっています。

 階段や坂が多く、学校近くの空き家が多いエリアに比べて起伏に富んだ地区です。家々の間から、たまに小さな田や畑が顔を出します。

 やはりここでも人っ子ひとり見当たりません。心細さよりも、小さじ1杯分だけ安心感が勝ります。

 人の声も足音もしない。ここにはきっと、誰もいない。

 でもだめだ。もっともっと、できるだけ学校から離れないと。

 万が一抜け出したことが先生にばれていたりでもしたら、きっと怒られるどころでは済まないでしょう。だから絶対に絶対に見つかりたくないのです。

 ……でも、日が暮れたら? 夜になったら?

 家に帰るのも先生に見つかるのと同じことです。それに、そういえば荷物も靴も全部学校にあります。

 ……やっぱり、いつかは自分で戻るしかないのかな。

 ……嫌だ。

 絶対に嫌だ。

 あんなところ、もう二度と戻りたくなんてない。

 邪魔者ならいないほうが良いに決まってる。

 わたしはあの場にいたくない。あの場にとってわたしは邪魔。

 それなら、わたしが消えれば全部解決するじゃないですか。

 どうせ家族だってそうでしょ。

 娘は妹ひとりでも、あの家族は充分幸せなんだから。話せない上に可愛げのない子なんていてもいなくても一緒。

 姫花だって。

 ……わたしがいなくても、友だちはいる。少なくともひとりぼっちにはならない。

 わたしがいなくても、きっと、きっと、大丈夫。

 ……それなら、もう、やっぱり。

 このまま、わたしが消えてしまえれば。

 ――そう思ったときでした。

「……………………!」

 わたしの背後、遠くから、かすかに足音が聞こえてきました。

 一瞬で足がすくみます。早く逃げなければいけません。

 学校関係者ではなく近所の人かもしれませんが、この時間に、ましてや靴も履かずにあてもなく歩く小学生を見つけたらどうでしょう。放っておかない人のほうが多いのではないでしょうか。

 とにかく、誰であろうと見つかってはいけない。

 逃げなきゃ。……でも、もう、走れそうにない。

 でも動かなきゃ見つかっちゃう!

 焦って、わたしはできるだけ早歩きで細い道を進み始めました。

 それから、どれだけの時間が経ったのでしょうか。

 コンクリートの破片が足裏に刺さりズキズキと痛みます。わたしは、変わらず住宅街の細い道を歩いていました。その道中では誰にも会わなかったと、思います。

 ただ、今もまだ、わたしは怖さにふるえています。先程のぱたぱたとした足音は消えずに今も背後から聞こえてきていて、怖くて振り返ることができないまま逃げ続けているのです。

 その足音はだんだんと近づいてきています。

 撒けない……ということは、やっぱりわたしを追いかけている?

 ――もし、先生に、ばれていたら。

 言いようのない恐怖がわたしを襲います。

 ……でも。


 でも、もしもわたしを捜してくれる人がいたのなら。


「なつりさん!」

「………………!」

 その声に驚いて、でも涙の名残のせいで素早く動けなくて、わたしはゆっくりと振り向きます。

 この声、って……。

 たった今下った、短い坂道を見上げます。

 そこには、やはり。

「み、み、見つけ、……た」

 夕灯さんが、息を切らして立っていました。

 ……え。

 なんで。

 なんで、…………彼がここに?

 驚きでかたまっていると、家ふたつ分向こうにいる彼は大きく息を吸って、言いました。

「なっ、なつりさん、ご、ごごめんなさい。す、す、すぐ助け、ら、られなくて」

「……………………」

「えと、えっと、それでっ、はあっ、はっ……」

 あんまり運動が得意じゃなさそうな彼が全力疾走してきたのか、まだぜいぜいと息が切れていました。

 なんで、そんな。

 なんで、わたしが抜け出したこと知ってるの?

 ……まさか、もう学校にはばれてるの?

 あと、あと、なんで、あなたがここに?

 言葉のすべては、今も音にはなりません。

「なつりさん」

「なつりさん、あ、あのっ、ね。一緒に……」

「……………………」

「怖い、かもだけどっ、でも、一緒に」

 一緒に学校に戻ろう……って、ことかな。

 でも、もう、学校に戻るのは……。

 怖くて、できない。

 どうしても、嫌だ。

 怖い。

 乾ききった目にまた涙がにじんできて、必死に隠していると坂の上の夕灯さんが下りてきました。

 彼が口を開きかけて、ぎゅっと閉じます。うつむいたあとに、何かを決心したようにわたしの目を見ました。

「…………っ、ちがう」

 目に宿る光は、のピアノを弾いているときと似ています。

「あ、あんなとこには、かっ帰らなくても。一緒に、な、なつりさんと、いっ、行くから」

「……………………」

「なつりさんはっ、……ひとりじゃない」

「ぼ、ぼくたちが、いるからっ」

 それを図ったようなタイミングでした。

 突然、わたしの背中に誰かがぎゅっと抱きついてきました。

 心臓がとびあがるほどに驚いたわたしですが、振り返る前にその正体を知ります。

「夏俐ぃ!! 捜したんだからね!!」

 姫花。

 そして、そのさらに後ろから聞いたことのある声がしました。

「おー、いたのか! とりあえず良かった」

 これは、怜歩さん。

 ……どうして?

 みんな、みんな、なんで。どうして。

 まさか本当に、わたしを捜して……!?

「見つかってよかったぁ!!」

 そんな。

 わたし、わたし……。

「………………………………」

 急に後悔と申し訳なさが沸騰して、ぼろぼろと涙が溢れました。

 ごめんなさい。ほんとうにごめんなさい。

 邪魔者のくせに自分勝手で迷惑かけてごめんなさい。

 この言葉も音にできなくてごめんなさい。ほんとうに……。

「わあっ、そんなに泣くなよぉ」

 さらにぎゅっと抱きしめてくれる姫花、彼女に連れてこられたのだろう向こうの怜歩さん、わたしのすぐ隣にいる夕灯さん。わたしはそのとき、みんな上履きでいることに気づきます。

 つまり3人とも、学校を抜け出して、わたしを捜しに……?

 そんな。

 わたしは、なんてことを。

 精いっぱいのごめんなさいを込めて、姫花をきつく抱き返します。

「もー……まさか誰も捜してくれないと思ってたのー? 自分から逃げ出したくせにぃ」

 姫花がいつものようなとびきり明るい声で言いました。

「絶対見つけ出すに決まってんじゃん! どこに消えてもね!」

「ま、そうだな。夏俐さん、こいつの執念なめないほうがいいよ」

「はぁ、執念って何? 愛情とか友情って言ってくんない?」

「ふふっ」

「さあ夏俐どうする? あたしはどこまで行ってもついてくよ!」

「ぼっ、ぼくたちいるから、だいじょぶだよっ」

 大丈夫。

 そうだ、考えてみれば、今に始まったことじゃない。

 入学してから今まで、学校にわたしが大丈夫な場所なんてひとつもなかった。安心できる姫花のそばにいようとも攻撃してくる存在はいる。絶対に大丈夫だって言える空間は、校内にひとつもない。たとえ相談室だとしても、そこは学校。

 でも。

 わたしと似た苦しみを持つ夕灯さんが大丈夫と言うなら。

 怜歩さんが笑わせてくれるなら。

 姫花が抱きしめてくれるなら。

 あの場所でもわたしは大丈夫かもしれない。

「あたしたちはずっと夏俐の味方だよ」

 もちろん嫌だし怖いし苦しい。

 それでも。

 ひとりじゃないなら、そんな学校でも、わたしは生きてゆけるかもしれない。

 ……戻ろう。

 みんなと、一緒に。



〝わたしはひとりじゃない。〟

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