第12話 この上ない避難場所
高い塀に囲まれた多恵さんの家は、通いなれて見慣れているはずなのに、改めて眺めて見ると相当な豪邸だった。
東と西に通用門があって、東の門に面した一角にこじんまりとした和風の離れが建っている。使い勝手の悪そうな何も無い離れは、広めの土間と六畳程の板の間、八畳の畳の間が二つ、板の間に後づけのキッチンが付いていた。
多恵さんの屋敷の一角にあるのに一見すると独立した一軒の家に見えて、都会から忘れられ取り残されたような静かな田舎家だった。
案内してくれた光蔵さんと中に入ると、木造部分がすべて黒塗りで太い梁や柱の太さが半端なく目立ち、どこもかしこも黒々として暗い印象を受けた。
なのに、雨戸を開け、南北の窓を開け放って、改めて眺めると植栽の緑が目に飛び込み、通り抜ける風も気持ちよくてなかなかの家だった。
多恵さんの住む母屋とは中庭で繋がっている。回りを厚い緑がぐるっと囲んでいるため、独立した野中の一軒家のような自由さが感じられた。
「ここは先代の奥様のご家族が時々宿泊された家でした。奥様がたまにゆっくり過ごしたい時など、こちらで滞在されたんです。
今はお屋敷の方に客間があって、向こうのほうが便利なのでほとんど使われていません。こうやって使っていただけるなんて、私はとても嬉しいですよ」
光蔵さんも素敵な人だった。何よりこの家を愛している感じが大切に使おうと言う気にさせた。
「へえ、広いよね。全部開け放って使えば…だけど…」
僕はこの文化財級の太い梁を見上げてその迫力に少しひるみながら、本当にここに住んでいいものなのかなと疑問に思っていたけれど、そんな心配はお構いなしにドンドン雨戸を開け放っていく。光蔵さんは人が住んで生き返るこの家が嬉しいみたいに、
「何の問題もありません」
と、いたって静かに微笑んでいた。
「ここから5分くらいのところに銭湯があるんです。先代はそこに通われるのがお好きだったんでここにはお風呂がありません。ご入用でしたら母屋の方においで下さい」
銭湯とは興味が沸き立つ。
「その銭湯、今でもあるのかなあ?」
「はい、多分あると思いますよ、一度聞いてみましょう」
「あ、いいよ。どっちにあるの。探検してみるよ」
そう言った僕は、突然思い立って引越しの片付けもしないまま、ぶらりと家を出た。
本当なら大家の多恵さんのところに挨拶に行かないといけないところなんだろうけど、そこは何かが欠落している僕は腹が座っている。また直ぐ行くからいいやと勝手に決め込んでオーナーを蔑ろにした。
「ここか、やってるやってる、こんなところに銭湯があるんだ。一度入ってみるかな」
暖簾をくぐると衝立を立てただけの簡素な仕切りがあって、その向こうが脱衣所になっている。とても大雑把な昔からの風呂屋だった。『これは!』珍しいものを見つけて得したみたいにどっぷりと首までつかって『極楽極楽』と何度も唱えた。そして、改めて自問自答する。
多恵さんのところに来るについては色々あった。砂湖は今度こそ自分のところに僕が来るんじゃないかと淡い期待を抱いていたし、それを裏切られたことに腹を立てて、その落胆たるや、金輪際個人晴人には会ってくれそうに無い状況だった。
姉さんも首をかしげて、
「ずっとここにいればいいのに」
と、言っていたし、兄貴は相変わらず、
「それで自立って言えるか」
と、語気荒く嫌味を言った。喜んだのは祖知くらいで、
「部屋数が増えるなら練習室を作ろう」
と、言っていたが、引越しの手伝いに来て、部屋の使いにくさに白けてあんまり良い顔しなくなった。
それで、僕はみんなから1ミリも同情はないほど呆れられて、こうやって自由に銭湯に入ることができる。
総すかんを食らった瞬間はいつもの扱い難い自分全開で、なら誰も来るな。と高飛車に睨みつけた。
今は、独りになって落ち着いて振り返り、多少みんなに申し訳ないなんて思いながら、そうやって回りをすべて敵に回して手に入れたこの得がたい新天地の開放感を満喫していた。
僕のずるさは多分天才的だ…そう多分、みんなも当の昔から知っている。
「あ~極楽!極楽!こんな大きな風呂。最高だ~」
今度みんなを誘ってここに来よう。なんて呑気に構えて周りのいざこざにも高みの見物を決め込んで、自分勝手な振る舞いをもみ消そうとしていた。
全員一致のブーイングが聞こえる現実を前にして、これで全てが丸く収まったと感じていた。
『砂湖、ごめん…僕は悪いやつだ。いつだってこうやって自分の穴蔵だけを一番大事にする。最低だ』熱いお湯に鼻まで浸かって懺悔する。これで全てが整った。
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