雨だれの音

@wakumo

第1話 心に住む人

あの日の天気がどんなだったか記憶にない。

ただ…部屋の中は薄暗く湿っぽかった。雪が降っていたのかも知れない。全てを消して余りある静寂。砂湖がさめざめと泣く。その声を聞いて息をするのを忘れて、秒針の音も消えて、自分が何者なのかもわからないほど衰弱していった。その空虚な感覚が今も消えず体に残っている。この虚無感を手渡すはずの兄貴も帰ってこない。このまま……この悲しみを抱えたまま生きていけるのだろうか。

姉さんを見送るために仕方なく大人になった。無邪気なままでいてと言われて、その通りにした。誰よりも甘え上手だったはずなのに、僕は自分でも驚くほど大人になった。

今も何一つ忘れてはいない。大好きだった…僕の兄貴の…愛する人。



 …5年前…

 炭酸水を開けたままお笑いチャンネルに釘付けになって、唇の端で薄ら笑う僕は、童顔で年相応に見られたことは一度もないけれど…あと何日かでやっと二十歳を迎える。

 ケーブルテレビはチャンネルが多くて自分の気に入った時間が過ごせる。暇を持て余すと飽きもせず一日中好きなお笑いを見て笑った。ただ笑える単純な時の流れが、好きだった。

 ミュージシャンを志し、五つ年上の兄貴を頼って、無謀にも十五で東京駅に降り立った時から、小さな壁にぶつかり迷ったりしながらも、指を折って数えれば、早、五年濃密な歳月が流れていた。

 故郷の両親は元気にしているかな?僕の無謀な東京遠征にとにかく大反対していたけれど、勝手に家を飛び出して強行突破した僕にさえ、見限る事無く気を掛けてくれていた。

 あの時の僕は、ギターを弾くことだけしか考えられなかったから、それなら東京という妄信が棄てきれず、兄貴大学二年の秋に、周到な計画を立てて、置き手紙を残し、リュック一つで夜行バスに乗った。

 全てを捨ててロックに生きるはずだったのに、かたぶつの兄貴の執拗な説得に負けて、夏休みの間に住民票を移し、ミュージシャン志望だからと斜に構えながらも、ちゃんと高校受験までして、自分の居場所を確保した。

 東京で受験する?って、兄貴の説得とはいえ自分でもその意にそぐわない行動に呆れてしまった。でも、兄貴の言うことは何ひとつ間違いがなくて、自分を思ってくれる熱心な説得に応じる心のゆとりも多分にあった。

 自分のことをよく判った人のアドバイスは聞く耳を持たなくちゃと思う…未熟な自分を認識することが何より大切だと、東京へ出奔する前に大好きだった科学の小田先生から教わった。

 僕を形作る全てのものは何処か素朴で反発と言うロッカー的資質に欠ける…学校に執着しているわけでもないし、学校という場所に未練があったわけでもないのに、僕は兄貴からの助言に従ってちゃんと受験して高校に行こうとしている。そこには自立しきれない、兄貴の過保護さのせいにして押し切られた形にしながらも、いつまでも子供でいたいという無邪気な願望もちぐはぐに存在した。

 学生でいる理由は…たくさんあると兄貴は言う。東京で生きていくための人間関係も必要だと諭されたし、日本語もまだまだ完璧じゃないと…自覚はないけど、多分当たっている。兄貴の見解は正しい。

 金銭感覚一つをとってもまだ未熟だろうと言う。金銭感覚を高校で…高校に行ってそれが得られるのか。他にもたくさんあるらしいけど漠然としていて説明しづらい、でも、このまま社会に出るには早すぎると、見切り発車した自分自身が、切ないほど感じられたから。

 父親からも多少の仕送りはあったものの、二十歳そこそこの兄貴にそこまで頼るのは申し訳なくて、人生で初めて必死に働く毎日が続いた。

 田舎にいた時、近所の田植えを手伝ったり、野菜出荷場でバイトをして小遣い稼ぎの経験はあったが、何処にも切実な本気があったわけじゃない。本格的なバイトとなると覚悟が必要だと思ったが、それが…これが予想以上に面白かった。

 あの頃…勉強よりも、仕事をするのが楽しくて、アルバイトでも何でも仕事と名がつけば引き受けた。とにかく何もかも忘れて打ち込める。仕事に対するそんな習性がいつの間にか自分の中に根強く出来つつあった。お金が要ると言うより必死で体を動かす仕事そのものが面白い。

 学校が終わると一目散で駆けだして、コンサート会場の設営に走ったり、モギリのバイトをしたり、手当たり次第引き受けたバイトは我ながら見事なチョイスだった。と思う…

 姉さんのおかげで珍しいバイトもたくさん経験できた。

 姉さん…兄貴の恋人。東京の二人目の保護者。

 説教が得意な兄貴よりも実利的に作用する姉さんは頼もしい。芸大出身で、音楽や芸術関係に関わっている同級生や先輩が多かったから、その伝であれこれ目新しい仕事を紹介してもらえた。

 音楽をやるために田舎から出てきたのになし崩しに音楽に関係ないバイトに走ってお金を稼ぐだけだったら洒落にならない。とわかってはいても、現実は、なかなかそうなるものでもない。僕にはラッキーにも姉さんがいてくれたから、たくさんのその道の出会いがあった。

 そんな仲間との関係がずっと続いている。僕の人生はその頃からの繋がりで今も変わらず成り立っている。



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