第2話 遙姉さん

 昼を少し過ぎたころ、玄関のベルが鳴って、二、三日撮影に出かけると言って姿を見せなかった姉さんが訪ねてきた。

「今日は、仕事じゃなかったんだ?家にいるならもっと早く帰ってご飯作ってあげれば良かったね。はいこれ、お土産」

「あ、どうも、ありがとう。お~今回は倉敷だ~」

「あら、お土産見ただけでわかっちゃう?」

「姉さんのお土産はワンパターンだからね。京都に行けば『おたべ』で、高山に行けば『さるぽぽ煎餅』名古屋に行けば『きよめもち』あれは、うまいな~。また近いうちに行って来てよ」

「晴君こしあん好きだよね。私はどちらかと言うと粒あん派だな。夕飯は?どうする」

 兄貴の恋人はいつも僕に優しい。

「いいよ、もうすぐ出かけるから。今夜はライブだから。この前多恵さんに誉めてもらったんだ。だんだん曲が様になってきたって」

「まあ、多恵にも困ったものよね。あなたのこと可愛い可愛いって。若い恋人みたいに、仲間が集まるとみんなに自慢している。晴君は…それでいいの?」

 良いも悪いも僕に選択の余地なんてない。

 多恵さんとは、こうして僕の義理の姉に成るべくこの家にセッセと通う遥姉さんの、大学時代の大親友だ。

 音大の教授と不倫しているという艶めかしい噂のある…

 大人の女性の多恵さんは、美人でとてもセクシー。免疫のない僕はフワフワと頼りなく、いつ食われるかと不安は感じているが、周りの心配をよそに、今のところその兆しは無かった。

 しかし、この多恵さんが、姉さんからの恩恵を一番受けていると思われる所以で、多恵さんの丁寧な個人指導のおかげで、コードだけを頼りにミュージシャンを目指していた向こう見ずな僕に、明るい一筋の光が差した。

 心に浮かぶ不確かなメロディーをひとつひとつこぼさないように五線譜に刻み付けていくと、人の眼に見えるようになり、あいまいな思いが音楽という形になった。

 人類共通の暗号を手に入れた田舎出の新米ロックミュージシャンは、ようやくこうして自分の選んだ道に線路らしきものを敷き、その上をトロッコまがいの人力車で走り始めた。

 姉さんは、東京に戻って来ると毎度忘れず真っ直ぐこの家にやって来る。最早、帰趨本能のようにここが本拠地と言わんばかりに。

 仕事で地方に出かけることが多いからか、休みの日には家でこまごまとした片づけをしたり、料理を楽しむのが趣味だと言っている。小柄なバイタリティーあふれる新進気鋭の物撮りカメラマン。

 兄貴の婚約者だと周りから聞かされた上で出会った遥ねえさん。僕は必然的に初めから姉さんと呼んでいる。姉さんと呼ぶことで正しい関係。この人は兄さんの大切な人。自分とどういう距離にあるかを認識しようとしている。

 友達と共同で事務所を構えて、主に食べものの撮影に関した仕事をしている。姉さんの写す写真はほんとうに美味しい色をしている。子供の頃から極端な偏食の持ち主の僕には、食べたくないものが多い。嫌いなものを食べようとすると身体の調子を崩す。食べなくてもいい、この美味しそうな色をしている物体は、純粋に美しいと思えた。

 そして、もう一方の保護者である兄貴は、大学を卒業してから輸入食材を扱う商社に勤めている。そのパンフレットの写真取りで二人は知り合ったと聞いている。

出会った最初の日、神経質そうにあれこれ強面で指揮する兄貴に一目ぼれしたって言うから「ひえ~!」っと思いっ切り引いた。

 器の大きさと言い、温和な性格と言い申し分ない兄貴だし、堂々とした営業っぶりを姉さんから聞かされるたび『我兄貴、たいしたもんだな~』と他人事のように感心する。身元引受人としても一目置いてはいるが、なにせ夜も昼も無い仕事の鬼。

 現場の設営など、最後の最後、開店の直前まで変更の指示を出すので、業者からも煙たがられる。完ぺき主義とでも言うか、物事に妥協が無いと言うか。この人の下で細かいことをくどくど言われながら働くのは絶対嫌だと思う。

 でも、惚れた弱みか、そこが姉さんのツボだったと言うんだから僕には何も言うことはない。それがこの二人の運命だったんだろう。

 姉さんはその時のインスピレーションをずっと大事にして迷う事無く生きている。兄貴と結婚するのを夢見ていると言うような淡い憧れ的なものではなく、もっと現実的に、一緒に生きていく人をとにかくこの人と決定してしまっているなんて…その決断力には驚くものがある。

 だけど、その兄貴は、そんなだから上司に見込まれ、今では担当にしている仕事が多すぎて常に海外出張に出かけることとなり、二人はすれ違いを繰り返す。実際僕はこの眼で、この家で、二人が幸せそうに一緒にいるところをほとんど見たことがないというのが現実だった。

 共働きが当たり前の時代とはいえ、この状態での結婚って成立するのかなと腑に落ちない気がするけど、二人はそのつもりでいるらしい。

 なんでそこまで結婚という形にこだわるのか僕にはまだ分からない。姉さんはすでに通い婚のように仕事が明けると毎日この家に通って、どっちかと言えば僕にご飯を作っている。

 僕としては…東京の寒空の下で、親元を離れて暮らしている僕としては、涙が出るほど助かるけど、姉さんと二人向かい合って食事をするたび本当にこれで良いのかなあと思う。


 料理をするのはストレスの解消になるらしい。僕の世話が気分転換になる。と言う。兄貴に惚れた経緯といい、このピュアな性格と言い、女として申し分ない姉さんは、この世で最後の女神なのかもしれないと思うしかない。

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