第25話 急変
なのに…その年は例年に無く冷夏で、慌しく秋がやってきたかと思うと、どんどん気温が下がって朝晩冷え始める頃、あんなに元気に飛びまわっていた姉さんが仕事場で倒れた。
初めは原因不明で、夏からの無理がたたったんだと、とにかく休むように病院からいわれ。検査のために入院した。
それ後も芳しくなく、回復の兆しも無いまま検査の結果が出た。
家族として立ち会う者は僕しかいないので、兄貴のかわりに出かけると、カンファレンスルームと書かれた机ばかりの大きな部屋に通された。
「血液の病気です。解りやすく言うと血液の癌です。治療法もあるので早速このまま入院した方が良いんですが…本人にどう伝えるかご主人に当たる?お兄さんと相談して頂きたいんですけど」
「血液の癌…」
それは…姉さんの癌告知。このまま治療が上手くいかないと余命半年と宣告された。
「余命半年…あと、たった半年」
姉さんに残された時間が後半年…僕はその言葉を否定したくて目を閉じた。不安でどうにかなりそうで、頭が考えることを拒否して兄貴に連絡する事もできず。姉さんの顔も見れず、そのまま練習室に引き返してピアノの前で譜面台を睨みつけていた。
「姉さん、なんで…」
余命半年…そんな話。最悪、姉さんが後半年でこの世からいなくなる…………
窓が白みかけた頃、夢遊病者のようにフラフラと砂湖の家に向った。
ドアを開けた砂湖の顔が引きつるほど僕の姿は憔悴しきっていた。
「砂湖…僕」
「晴ちゃん、何、どうしたの」
砂湖の顔を見て一気に力が抜けた。崩れ落ちるように玄関に座り込んだ僕に砂湖がしがみついてきた。
「晴ちゃんどっか悪いの?」
僕は砂湖の胸に顔をうずめて力なく泣いた。そして、ボロボロになりながらとつとつと意味不明の話をした。
「僕は聞きたくなかった。だって身内だって?僕じゃないだろ。
一番最初に聞かないといけないのは兄貴だろ。兄貴だよ…だって僕は、僕は…」
姉さんとの時間が頭の中に点滅する。姉さんの作ってくれたご飯が次々と浮かんでその味が蘇ってくる。また泣いた。
「姉さんがいなかったら僕生きてないよ。今は無いよ。全部全部…無いよ」
涙が枯れたら眠くなった。砂湖の膝で仰向けになって天井を眺めながら、焦点の合わない目を泳がせて砂湖の声を聞いた。
「一番悲しいのは私…いつも何もしてあげられない。こんなに悲しい晴ちゃんを何も出来ないで見ないといけない私。私はあなたをずっと待ってる。待つのが嫌で別れても忘れられないでいる」
「砂湖…」
誰が一番なんて思う冷静さに僕がどんなに悲しんでいるかが感じられた。一晩うつろに過ごして、
「兄貴に連絡しないと…」
白濁した頭の中でかすかに針が動いた。
三日後兄貴が成田に着いた。さすがに今回はとるものもとりあえず帰国してくれた。僕は兄貴とどう口裏を合わせようかと飛行機の発着の見えるロビーに腰掛け、外を見ることも無く考え込んでいた。
長い時間を過ぎてようやく呼吸が出来るようになった僕は、兄貴にどう説明しようか考えていた。
姉さんとどう接するか、どんな病気にするか、みんな話してしまうのか、それを話し合うつもりだった。
抗がん剤がいくつかあることや造血肝細胞移植をすれば治る可能性があるとかで、はっきりと病名を伝えた方が良いというのが医者の意見だった。本人にちゃんと覚悟があったほうが治療がし易いとも言われた。
確かに姉さんなら頑張れるだろう。あの通り弱音をはかない人だから、頑張りやさんだから…
「仕事は?」
「替わってもらう訳には行かないから今回は一時帰国させてもらった。様子を見てこっちに帰れるように頼んでみる」
「姉さん…死ぬんだぜ、後半年って言われた。なんで俺が…」
そっから先は何も言えなくて、兄貴は何も答えない。
「もちろん、僕の方が姉さんの近くにいるし、なんかしてやれるのも僕だろうけど、でも、僕は姉さんの旦那じゃないし、一番近い身内じゃないし」
ただ兄貴を責めていた。話しているうちに胸が詰まって気持ちが不安定になった。向かい側にいた兄貴が僕の横に座りなおした。僕は兄貴に慰められながら、冷静な兄貴に腹を立てていた。
「どういうつもりだよ」
「……」
「そんなに冷静に、反対だろ、慰めるのは僕だよ」
僕が泣いたら兄貴は冷静にならざるをえない。そうわかっていても兄貴の態度が気に入らなかった。
「多恵さん、今日ここで夜明かししてもいい?」
ピアノの前にうずくまって僕はひたすら打ちひしがれていた。
「病院はいいの」
「兄貴が帰ってきたんだ。僕は出る幕無いから…」
「なんだ、そう言う事」
「あの二人のことはわからないから、理解できないから、そばにいるとイライラする。腹が立つ。姉さんが病気になってから兄貴に腹が立って仕方が無いんだ」
多恵さんは落ち着いて部屋の片づけをしながら遠巻きに僕を眺めていた。
「晴人は優しいからね~でも、泣けないのも寂しいものよ」
…そうだ。姉さんの病気は多恵さんにも耐えがたいものなんだ。
それでも多恵さんは取り乱したりしない。辛いこともたくさんあるだろうに、あのお葬式を超えてから涙など一度も見せずに健気に暮らしている。
多恵さんも兄貴も冷たいんじゃなくて強いんだ。そうだ…自分の悲しみを一人で受け止めることが出来る。僕には出来ない。もろすぎる。それが兄貴が薄情にみえてしまう理由なのか…
「晴人、人生いろんなことがあるけど、誰にでも色んなことがあるけど、たいていのことはあきらめて笑い飛ばすけど、今回は辛すぎて何かを恨みたい気分になるね」
多恵さんは静かに言った。
「悲しんでしまうとそこから抜け出せなくなる。冷静になればなるほど心が固まって反応するのが難しくなる」
「反応できなくなる?」
「そう、表情が固まって泣くことも笑うこともできなくなる」
多恵さんの辛さもそこまでなんだ。でも、何かをうらんでも仕方の無いことを誰もが知っている。だから何も言わずに我慢している。
考えた末、姉さんにはすべて本当のことを打ち明けることにした。そのほうが良かったと姉さんは言ったけど、隠さない方が良いに決まっているけど…後半年の命だということは最後まで言えなかった。
気丈に治療を続ける姉さんに弱い顔を見せるわけには行かないから、僕は前よりも複雑な多重人格になって、明るい時と落ち込んだ時の落差が尋常ではなかった。
「そのくらいの違いは昔からあったよ」
ユンちゃんはこともなげに言う。
僕は自覚が足りないだけでそうとう振り幅の激しい毎日を送っていたらしい。
「そうね、晴ちゃんは時々普通じゃないと思うくらい明るい時があって、普段はMAX暗いよね。平均的な時はまあ、珍しい」
ま、待ってよ…
「野球してる時のテンションで事に望めば何だって良い方にクリアできるよ。その時間を増やせばいいだけだ」
そ、そ、そんな?相当みんなに迷惑をかけて暮らしてきたんだなと反省しながら、漠然と、姉さんの前にいる時の自分のあり方は、野球をしてるときの晴ちゃんとみんなが決めてくれた。
「あれこれ悩まなくてもお姉さんの前に出れば明るくて素直な晴ちゃんになるのよ。悔しいけどお姉さんはあなたにとってそんな人なんだから」
砂湖はそう言って姉さんの前にいる時の僕は最高だと半分嫌味みたいに言っていた。
こうやって僕を支えてくれるたくさんの心がある。だから…兄貴のいない間僕が姉さんの支えにならないといけないと、苦しいけど自分に言い聞かせた。
姉さんの病気を受け入れることにした後の僕はとても精力的に動いていた。バンドの仕事と多恵さんの代わりのクラブの仕事。姉さんの病院通いと、毎日、これはあの消極的な僕じゃないと驚くほど、悩みもしがらみも感じずに、動いていた。
そうするしか自分を保つ方法はなかった。
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