第18話 溶けぬ雪
ついこの前まで住んでいた見慣れた玄関のドア。開けると中から明るい声が聞こえてきた。
「砂湖?」
「それ、砂湖ちゃんのサンダル?」
目を落とすと玄関に砂湖の見慣れたサンダルが揃えて脱いであった。
「うん、やられた。姉さんが呼んだんだ」
「オッス!やっぱり二人で来ると思ったよ。みんな待ってるぞ~」
そう言ってほろ酔い加減でドアを開けたのは祖知だった。複雑な気持ちが渦巻いてその場で五秒ほど立ちすくむ。
「晴、入ろう」
ユンちゃんの穏やかな声で我に返る。
「考えすぎないで流されちゃえばいいよ。そういう時もあっていいんだ」
ユンちゃん君は本当に優しい…
部屋に入ると砂湖、祖知、トンマンが来ていた。
「晴君、遅いよ。約束は六時でしょ。もう来ないかとヤキモキしたわ」
僕の大好きなアジの南蛮漬けを手にした姉さんがあきれた顔をして笑った。
こういう機会を作ろうと何度も電話してくれてたのかもしれないと思うと、申し訳なくて下を向くしかなかった。
「よ…」
砂湖に手を上げると、砂湖もバカバカしい僕に返す言葉もないと、ため息をついた。
「はい、いつまで立ってるの、座って座って、ユンちゃん冷蔵庫からビール出して」
ポーカーフェイスのユンちゃんも姉さんには頭が上がらない。甲斐甲斐しく動いて笑顔を振りまいていて、それがまんざらでもなさそうだった。
久しぶりの姉さんの手料理は美味しかった。今夜は僕の好きなものばかり選んで作ってくれたみたいで姉さんの愛をおなかいっぱいもらった。
みんなの馬鹿騒ぎ。突然歌いだすトンマンの奇妙な歌。ミュージシャンの僕たちとしては不本意なところだけど、宴会芸としては申し分ない。
トンマンは抜群なリズム感と確かなギター捌きでうちのバンドのバンマスなんだけど、音域が異常に狭くて高音がすべて同じになる。それが愛嬌で、この中途半端な聞き苦しい歌が、酒の席ではみんなから引っ張りだこの愛される宴会芸になる。歌って上手けりゃ良いってもんじゃない。心を緩める要素も大切なんだ。
奇跡の楽しい時間だった。飲み会にもだんだん慣れてきた。みんなからはかなりな遅れをとってはいるものの、ゆっくりではあるけれど大人の階段を上がっているんだろう。
「砂湖…駅まで送るよ」
「なに、なに、珍しいね…」
「たまにはゆっくり話す時間をつくろう」
それは精一杯の一言だった。
「あの曲いい曲だった。なんて曲?」
「ん…」
「晴ちゃんの二曲目の曲」
「あ、あれ?、聞いた?題は…ん、雨音、雫、音のしない雨粒みたな…」
「霧音、むおん、霧の音…変?」
「霧音?むごん…でも、そんな感じ」
それからはしばらく黙って歩いた。
「ごめん、成り行きでだんだん疎遠になって、僕は素直じゃないから…嘘が言いたくなくて言えないことが多くなる」
「私が知りたがりだと困るわね」
「我慢するの嫌だろ。僕はめんどくさがりなのに、人一倍めんどくさい人種なんだな」
「ふふ、わかってるんだ。だんだんそうなるね。それがひどくなるね」
「だよな~どんどん性格が歪になっていく感じ?」
「そこが良いとこだって思いにくい。思って欲しい?」
「砂湖はストレートだからさ」
「私が下りたら晴ちゃんは楽になる」
「半分、半分は空しい…」
「付かず離れずにいるのがいいんだろうな…恋人と言うよりは友達。いっそ奥さんになったらまた違うのかな」
そう言う砂湖の提案を、
「どうかな。試す勇気が無い」
と、即、却下した。
「だろうね。晴ちゃんは試すなんて出来ない性格だろうね。でも、手はつなごうって言ってくれる」
砂湖が手を出して僕はそれを愛おしそうに受け取った。左利きの僕の手に砂湖の右手が重なる。砂湖の手は冷たくて、温度の高い僕の手をひんやりと冷ました。このままつかず離れず友達のままで…そんな自分勝手な我儘を砂湖、許してくれないかな…
この宴会の後、ユンちゃんは人格が変わったみたいにレコーディングの鬼と化して、僕たちは手に余るやりきれない程の課題と毎日汗だくで格闘の末、十二曲をすべて仕上げた。
そして、ついに…アルバムは八月に発売された。
初めはそれほどパッとしなかったけれど、お披露目のために夏に組んだキャンペーンが評判良くて徐々に売れていった。ラジオで取り上げてもらって初めての声の出演も果たした。
足立さんの勘によると、このまま秋までキャンペーンを張ればどうにか形になりそうだとそんな見方だった。
夏の暑さの続く中、僕たちは足立さんの立ててくれたスケジュールに従ってあちこちの小さなクラブでライブを重ねた。
ユンちゃんのバラードも砂湖の取って置きのあの曲も好評で、時折見せてくれる姉さんの顔も明るかった。
悲しいことや切ないことが多かった分良い事も少しはあるようで、僕の歌の叙情性は増した。無理に一緒にいなくても気持ちが通じ合うような、安心感と言うか余裕が生まれて、自分を追い込む気持ちがいくぶん安らいだ。
砂湖に隠したまま自分勝手に多恵さんのお腹の子の父親になろうとしている事実だけは動かず、気が晴れる事は無かった。
あれは誰に言われたことでもなく僕が多恵さんに自分から申し出た約束だから…それが、僕にあることを決意させていた。
仕事の合間に東京に飛んで帰って、多恵さんのサンルームでゆったりとピアノを弾く。口には出さないけど何かの本で読んだ胎教に良いように、気持ちを込めて鍵盤を追っている時、最高に良い気分だった。
「この曲良くない?多恵さんのために作ったんだ」
というと、
「お腹の子のためでしょ」
と、簡単に見抜かれた。そうなんだ。僕は多恵さんにというよりお腹の子に心を注いでる。それは明らかにそうだった。
「曲と曲の間に、みんなが次の準備をしてるときにその曲、風が吹くみたいにはさむといいと思うわ。とっても気持ちの良い曲だから」
気の向くままポロポロと弾いた二、三曲の中から一曲だけそれ用に譜面を起こしてライブに使わせてもらった。今までにないナイーブな曲でユンちゃんが気に入っていた。
「いや~晴も良い曲作るようになったね」
僕はこの仕事を始めてから、こうやって誰か一人の元へ届けたいと思う曲を作ったのは、初めてかもしれないと思った。
地方を周るライブと、多恵さんのキャンセルの出たステージと、自分の夜のライブをこなしながら僕一人、新幹線で夜の街を移動した。モノクロの景色が走る。流れる全てが弱虫の僕を追い越していく。
窓の外を流れる真っ黒な景色の中に時折美しい光が走って記憶の中に刻まれていく。多恵さんの体調は何週間経っても優れなくて、ひとまず仕事は休むことになり、お抱え運転手の仕事はしばらく無くなった。
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