第17話 練習室
「ユンちゃん、この詩何かに使えないかな。ちょっと自信作なんだけど。最近一人で色々やることが多くてふとした時に詩が浮かぶんだよね」
「へ~それはいい傾向じゃない。見せてみて…
晴にしては生活観のある詩だね。砂湖ちゃんの曲に合うんじゃない。変な考えはなしに、ちょっと当ててみる。もちろん調整は必要だろうけど」
「砂湖の曲か~ユンちゃんのでぴったり来るのない?」
「いや、僕のじゃ駄目だ。感性が似てるんだよ、晴と砂湖ちゃんは。無理なく合うのがいいと思うよ。やって良い?別に問題ないだろう」
僕は気持ちが落ちて黙った。
「ユンちゃん、やっぱ抵抗感じるんだよね。僕のわがままで上手くいってないんだし」
「だからそこを気にしたら始まらないよ。僕は二人に、仕事のパートナーを進めるよ。気の合う人に出会うって難しいことだろ。せっかく出会ったのに全てを否定することはないよ」
「そうだよね。確かにね。それはそう思うよ」
ユンちゃんの言うことはいちいち心に響く。人類愛に満ちている。僕がユンちゃんと出会えたこの奇跡は、二度とどこにも落ちてない値千金の拾い物なんだ。砂湖もその貴重な出会いのひとつ、なかなか落ちてない拾い物を手放すのは惜しい。計算高く言うわけじゃなく本心からそう思う。
「だいたいそんな深刻に考えなくてもいいのかも知れないじゃない」
ユンちゃんはこの件に関してどこまでも楽観的でいようとした。
「気持ちのかけ違いは何時だって何処にだって在るものだよ。もっと違う次元で信じ合うものが必要だよ」
ユンちゃんはそう言う。それを都合が良いって言うんじゃないのと口に出せないで自問自答する。唾を飲み込んで自分の覚悟と対峙する。僕は…格好良く言えば砂湖を傷つけたくない。
外はひどく雨が降っている。練習室のまどから見える景色は、街路樹が右へ左へ大きく揺れて、そのたびに窓に当る雨の音がバラッバラッと勢いを増した。
最近こんなに降られた記憶の無い僕は、思わず手を止めて雨音に聞き入ってしまうのだった。
「これは凄いね。台風でも来る?」
空に目を向けるユンちゃんの顔は穏やかで、ゆったりとしている。曲を作り終えるとユンちゃんは満足からか台風の眼のように一瞬仏様のような顔になる。そしてまた、アレンジや音作りのための作業を開始すると更に険しい顔になる。今がその隙間で、今を逃したらあんなに美しい横顔は見れないのだった。
「ユンちゃん、今日は久しぶりに姉さんのところへ行くんだ。一緒に行かない。結婚してからどうも一人で行くのはバツが悪くて、誰か一緒に行ってくれるとありがたいんだけど」
「お兄さんに義理立てなの、まあ、そんな気にもなるよね」
「今までは姉さんが家に来てくれてたから、姉さんに会うっていう感覚が無かったんだけど、わざわざ行くなんてどうも苦手なんだよね。でも、あんまり断ってるとなんか妙な感じだし…」
「僕でお役に立てるならお供しますよ」
そう言ってくれるユンちゃんに甘えて、小降りになるのを待ち、傘を差して地下鉄の駅に向った。
多恵さんの家にお世話になってからまったく車を使わなくなった。地下鉄が近くて便利なのもあるけど、一人でトボトボ歩くこの街の雰囲気もまた格別で好きだった。
この間まで自分の家だった兄貴のアパートに向う違和感が、不思議とこの雨と、傘と、徒歩のボチボチした空気にマッチしていた。
薄暗くなった小雨の降る町を男二人で歩く。姉さんの家に行く緊張が僕を雄弁にする。トツトツとこれといってたいしたことでもない話をしながら、お互いの腹の中を探るわけじゃないけど僕は色々ユンちゃんに話しかける。
改めて考えてみると、同じバンドで歌を歌って曲を作って楽しんでいる。そんな暮らしの中で僕はこうやって一緒に歩いているユンちゃんのことを、今の生活をほとんど知らないんだった。
韓国料理店を営む親父さんと一緒に住んでいた頃は、食事がてら出掛けて親父さんと話しこんだり、ユンちゃんの部屋に上げてもらってアレンジの仕方や楽器の扱いなども教えてもらった。
でも…いつの頃からかユンちゃんはセキュリティーのしっかりしたマンションで一人暮らしを始めて、それ以来遊びに行くことはなくなったと思っていたけど、ユンちゃんはユンちゃんでいろいろあるのかな。
姉さんのとのことや砂湖のこと、多恵さんの家へのピアノ修行で忙しく、昔のようにゆっくり話せる時間が無くなっていたのに、引っ越してから多恵さんの離れにユンちゃんが通うようになってくれた。そして、こうして姉さんの手料理にまで付き合ってくれて、付かず離れずのこの距離を保ってくれる穏やかなユンちゃんの性格はどうしてそうなっているのか不思議だった。
「それじゃあ、その後お姉さんに会ってないんだ」
ユンちゃんが傘を少し傾けて聞く。
「うん、時々電話はもらうけど、なんだか気が向かなくて」
「晴は恋が下手だね。僕も上手いとは言えないけど」
確かに…お互い恋とは縁が遠いらしい。自分はすぐそばに彼女がいて楽に楽しくやってきたはずだったのに、こんなに簡単にやっかいなことになり、やっぱり難しいもんだ。
「ユンちゃんの恋は?みんな話題にしないけど…」
ついでに聞いただけで答えてくれるなんて思っていなかった。
「僕にはね。韓国に許婚がいるんだ」
「ええ、許婚?」
「うん、親同士が決めた相手でね。向こうで手広く商売してる財閥の娘だよ。年に何回も会わない。そのうち結婚ってことになるんだろうけど、今はまだ興味ないんだ。
晴と曲作ったり、バンドの仲間と飲んでることが楽しくて」
そう言うユンちゃんは目が潤んでちょっと引く…その潤んだ目の真意はともかくとして、
「彼女はどうなの?」
僕はユンちゃんのことがとても知りたかった。
「彼女は僕に惚れてるよ!子供の頃からずっと好かれてる気がする」
「いくつ、その子いくつよ」
ユンちゃんのあまりの自信に突っ込んでしまった。
「「砂湖の妹と同い年。この前眺めていたら思い出した。雰囲気はちがうけどこんな背格好だなって」
ユンちゃん君にはそういう人がいたんだ。なんだかユンちゃんが頼もしく見える。
「へえ、なんか大人だな、そういう冷静な感じ。ユンちゃんは親の決めたことに従うの」
「韓国は日本より親を大切にするからね。決めてもらうのもいいかなって思うし。何で出会ってもいいわけよ~僕はそこに愛を感じるから、冒険したいとも思わないし、十分幸せだから」
そう聞いたとたんユンちゃんが神々しく見えた。もがかないユンちゃんは幸せも向こうから近づいて来るみたいだ。
僕は従順に見えて、素直に見えて、最後にもがくから幸せを手に出来ない。
結婚にも愛にもいろんな形があると兄貴も多恵さんも言う。
兄貴が探してた形は最終的にどんな形だったんだろう。僕は兄貴と姉さんの間に立ち入らないと決めているから結局その後のことは、なにもわからないんだった。
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