第16話 自転車
駅二つ離れた練習室まで自転車で行くことが多くなった。何に守られることもなく肌で風を切って走るのが気持ち良かった。
都会派を気取って車には乗らない体を装っている。東京は車がなくても困らない。交通網の発達した大都会なんだからどこへでも電車で行けると豪語していたはずなのに、電車の時間を気にせず家を出て、自分の都合で行動できる自転車は、機動力が最大の魅力で手放せなくなってしまった。多恵さんの家のそばには小高い丘があって、背の高い古い水道塔が立っている。遠くからでも目につくから、それを目標にして帰ることが出来るのも有り難いことだった。
幼い頃の僕は、自転車に乗ったことはなかった。どこへ行くにも自分の足で走り回るのが好きだったらしい。世界の中に自転車という便利な乗り物はなかった。思い出す景色の中には、一目散に自分の足で走り回る子供の姿が現れる。走るのも同級生の中でダントツに早いほうだった。流れる景色はその速度で我が身を追い抜いていく。走ること自体が自慢の子どもだったのかも知れない。
それで、自転車には馴染みがなくいつから自転車に乗れるようになったのかもはっきりと覚えてはいないけど、そんなに練習をしなくても見よう見真似でスクっと乗れたようなイメージがあった。
「そんなバカな話はない。誰だって自転車に乗れるようになるには劇的なエピソードの一つや二つあるものだ」
と、祖知がしたり顔で疑う。
オリンピックで金メダルでも取ったのかと言うほど感動しながら力説してくるけれど、記憶力の乏しい僕には、記念すべき自転車に乗れるようになった時の輝かしいエピソードがすっかり抜け落ちていて思い直してもトンと浮かんでは来ない。
今更考えてみれば、子供の頃の行動範囲なんてたかが知れたものだ。隣の川ちゃん家まで、その向こうの輝ちゃん家まで行ければ問題なかった。少し行けば川、少し行けば山、突き当りばかりのデコボコ道で、自転車は返って不便だったのかもしれない。
兄貴に聞くところによると、おばあちゃんが心配性で孫が危なっかしいことをするのを酷く嫌ったというのから推測すれば、幼い頃の自転車の記憶に関して思い当たらないのはそのせいかもしれない。それやこれやで、自転車と言う便利な道具を使うことも知らず、この年まで本格的に自転車に乗ることもなかった。
たまたま立ち寄ったリサイクルショップの店先で気の効いたロードバイクを見つけて衝動的に買ってしまった。風を切る感じが想像以上に気持ちよくて『ハヤブサ』と名付けた。自分でも笑ってしまう。この癖は簡単に消えそうにない。
坂の多かった兄貴のアパートと違って多恵さんの家はあってもなだらかな坂で、自転車生活に非常に敵している。それで思い切って少し距離のある移動は自転車に乗ってみることにした。
そしたらあまりにも快適で、雨さえ降らなければラッシュにも合わないし、止めるのも楽だし、始めたらやめられなくなった。
当然…頑丈な鍵を用意した。
「出かけた先で帰ろうとした時に置いたところに自分の自転車を見つけられなかったら絶望的だぞ」
と、祖知から脅されたから。あの言いようでは一度や二度盗難にあった経験があるに違いない。
祖知は車が好きだから、今さら自転車に乗ろうなんて思わないみたいだ。自転車移動が不自由と感じるらしく、自転車でここまで来るなら途中寄ってやろうかと言ってくれたけど、別に無理して自転車に乗っているわけでもない。
しいて言うなら隣に乗せる砂湖もいなくなったし、一人で車に乗るのは寂しくて、道を探しながら自由に走り回れる自転車の方が今の気持ちに合っているのだった。
キャップを目深にかむり、ショルダーバックを肩にかけてペダルをこぐと、景色が動き出す。そんな小さなアクションが今は落ちがちな気持ちを上げている。
荷台に洗濯物をくくりつけて公園前のコインランドリーまで走っていくこともあった。洗濯ものを放り込むとセルフのコーヒーを煎れて外の見える窓辺を陣取り、殴り書き用の手帳を広げる。
目に付く色んなものが鮮やかに色づいて気持ちに飛び込んでくる。それをノートのすみに上げていって、それについて細かく書いてみる。この時間が一時間。陽を浴びての昼寝が一時間。これは文章を作る練習にと思って始めたことだけど、意外といい詩が浮かんで僕の中で採用になることもあった。
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