第21話 買い物
「多恵さん珍しいね。買いものなの」
友達のイラスト展をのぞいた帰り、駅からトボトボと歩いて行くと、昔ながらの商店街のくだもの屋さんから多恵さんがずっしりと重たげな袋を抱えて出てくるのが目に留まった。僕は歩幅を広げて多恵さんに追いついて声をかけた。
「あら晴人、今日はどちらへ?」
小首を傾げる多恵さんが実に可愛い。
「多恵さんこそ」
「果物が食べたくて、出かけてきたの。この頃出かけてなかったから運動も兼ねてね。自転車で出かけなかったの?」
「うん、飯田橋の画廊に行ったの。駅から近かったから」
「そう、曇ってたしね。朝から降りそうで降らない、はっきりしない一日だった」
多恵さんは空を見上げて屈託なく笑う。妊娠してから多恵さんは危険な感じが皆無になって、前にも増して性格が丸くなった。もともと素敵だった多恵さんが少しふっくらして女性的に見える気がするのは、僕の妊娠してる女性に対する憧憬だろうか。
残念ながら体調が優れない毎日なので家にいることが多く、あんなに精力的に動いていた多恵さんの行動範囲が狭まっているのが残念だった。だからこそ、こうやって太陽の下で多恵さんに会うのが嬉しくてはしゃいでしまった。なるべく健康的に過ごして欲しい。嵩張る多恵さんの荷物を受け取って二人でブラブラとパーキングまで散歩した。
陽の当る時間に女性と歩くのは照れ臭い。多恵さんのお腹が膨らんで幸福そうに見えるのも照れ臭さに余計拍車をかけた。
「多恵さんはお嬢さんだから綺麗なことに間違いはないけど、こうして歩いていると普通の奥さんに見えるね」
「普通の奥さん?それは誉め言葉なのかな。嬉しい。
昔から歩くことってあんまりなかったの。ピアノ弾いてる間は車で移動ばかりでゆっくり一歩一歩歩くなんて考えたこともなかった。思ってみると子供の頃から車ばっかりで忙しかった。そんなの異常事態だよね。でもね、異常だなんて思わなかった。
この子はゆっくり育てるかな。英才教育は止めて」
「英才教育…って自覚あるの?
「うん、多分自分でも少し酔ってたとこあった」
「さすが、多恵さん。子供の頃から凄かったんだな。僕が野山を走り回っていた頃、もう仕事をしてたんだね。
僕はこの頃、地下鉄と自転車ばっかり。この辺りは交通の便がいいから…時間も読めるしね。
多恵さん、落ち着いたらまた仕事、少しづつ入れていくの?」
「今は無理かな…指が忘れないように軽く練習はしてるけど、人に聞かせるほどじゃないわ」
多恵さんは穏やかにそう言う。
「晴人にお願いするわ。貴方ならオリジナル曲とか私とは路線がちがうから、お店の人も楽しみにしてるみたいよ」
それは寂しい話しだ。仕事が増えるのは、僕にとってはありがたい事だけど、多恵さんのファンは僕の比じゃない。このまま多恵さんがフェードアウトしてしまったら大変だ。代打の僕が恨まれてしまうんじゃないかと不安がよぎった。
「それこそ多恵さんもゆったりした時間を有効に使ってオリジナル曲をまとめてアルバム作るとか、情報を発信しないとファンが泣くよ」
「そんなことも思うけど、なにしろ当分は子供のことに専念しないといけないと思うの」
「そう、残念だけど仕方ないかな」
そんな話をしても決して寂しそうじゃない。人前でピアノを弾くことはなくなったけれど、この頃の多恵さんはピアノを弾いていても楽しそうだった。反面、ストレスを感じない伸びやかな演奏を僕一人で聴くのはたくさんのファンに申し訳ない気がしてコンサートの景色が思い出された。
「今度、身内を集めて演奏会しようか?姉さんとか、足立さんとか、どう?」
「そのくらいならいいかもしれないわね。晴人が計画してくれるの?」
「発起人は苦手だから誰かに頼むかな」
「だと思った…」
僕の頭には足立さんが浮かんでいた。
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雨だれの音 @wakumo
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