第31話 練習再開
もう一度練習を始める…?想像ができなくてやり切れなく持て余す、暗い後ろ向きな自分と向き合うのは苦しい。それは、酸素の薄過い長いトンネルを抜ける感じ…もう一度立ち上がる踏ん張りが必要だった。
何もかも無くしたと思う程、姉さんが全てだった…青春の一番多感な時期を他人なのに兄さんの婚約者と言うだけで母のようにいたわってくれた姉さんは、身近な一番の保護者で、叶わない片思いで、触れることが出来ないことが初恋よりいっそう罪深く、ぬぐい去るのが難しかった。
遠い道。長いこと置き去りにしていたこの道にもう一度自転車を走らせる。それは二年という…僕にとっては悲しくなるほどの孤独と、温かい愛を思い返す時間だった。
戸惑いはまだあった。だけど、弱すぎて今さら自分を反省する力も無い。砂湖は半ば脅迫気味にああ言ってくれたけれど、裏切ってばかりいる僕を、ユンちゃんはあったかく迎えてくれるだろうか。トンマンに笑える冗談を言えるだろうか。その後、祖知は幸せにしているだろうか。
自分で閉ざしていた扉を開けるのはシンドい。こんな重い扉だったかと身につまされる。その痛みが肩にのしかかる。
だけど、何度も思う、何度も地も自問自答する。あの年で全てを終わりにしてこの世から去らねばならなかった姉さんの苦しみを。それに比べれば、今までのどんな苦悩もたいしたことはないと思えるようになった。
一人で仕事をしている間にいろんなことを考えた。自分の力の及ばないところと意外にやり切れるところ。自分の限界。目の前に突きつけられると素直に認められる弱い自分。
多恵さんには、今まで通り接した。そう努力した。どんなに拒否されてもあかりの近くにいたかったし、あかりの成長を何ひとつ見落とさないように見守りたかった。
多恵さんの言う親切なおじさんでいいから関わっていたかった。
強い自分でいないと多恵さんがあかりのそばに居させてくれないと、そう言い聞かせてその場しのぎだけでもがんばろうとしていた。
あかりは日に日に大きくなり、日に日に可愛く、賢くなった。愛情は人を育てる。確実に美しい心を育てる。あかりは美しく愛らしく素直に育っている。
多恵さんはまだ、演奏を再開しない。あかりを目の前にして焦る気持ちにはならないらしく、できるだけゆったりと機が熟すのを待っているみたいだった。
姉さんがこの世から消えていく瞬間を一人で過ごしてしまった僕は、僕の中にあの時の気持ちが封印されて、そのまま重苦しく残っていた。この気持ちは誰にも解らない。それを考えるときだけ自分で自分が嫌になるほど後ろ向きになった。
風が気持ちいい。この道の先にある練習室はこの二年、忘れたくても忘れられないところだった。ペダルを踏むごとに色んなことが思いだされてそれを一つ一つ数えるように前に進んだ。
「晴人…」
「晴ちゃん」
「晴」
「よ!」
「なにが、よ!だよ」
嬉しい祖知の顔が待っていた。
「僕が泣いたら困るだろ。みんな」
にくまれ口をききながら懐かしい練習室に一歩踏み入れた。ここにいた晴人ってどんな奴だっけ?
「やあ、長いこと待たされたね」
「ユンちゃん、これ、僕の空白の二年。かな…」
「確かに…晴がすべてを拒絶して、悲しみを一人で抱えこんでた長い時間か…」
そうユンちゃんがしみじみと笑ってページをめくる。
ユンちゃんに渡したのは一人でこつこつ作った曲。楽譜だったりCDだったり…姉さんに渡したCDも含めて、全部、洗いざらいユンちゃんに聞いてもらおうと思ってカバンに押し込んできた。
ユンチャンは、じっくりと僕の2年と会話したあと、パンとノートを閉じると、
「あの曲をやらない。砂湖が詩を付けたあの曲。ちゃんと楽譜にしたよ。いつ来るかわからないこの日のために」
ユンちゃんの温かさは何からも感じることが出来る。楽譜一枚からも伝わるその温かさは、今日も変わらない。
僕たちは離れることのできない音楽と仲間と、共有することの出来る感動と、すべてを確認しあって悲しかった時間を埋めようとした。
「やあ、凄いな」
「だろ、晴の曲には砂湖の詩が似合う。晴の詩には砂湖の曲が似合う。僕の言ったとおりだろ」
ユンちゃんは自分の見つけた方程式にご満悦だった。
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