第9話 別離
それからしばらくして告別式があった。
朝、姉さんから突然電話をもらって言われた場所に駆けつけると、用意された黒いスーツを渡されて鏡の前に立たされた。
「それに着替えて、今からお寺に送っていくから、多恵の横にずっと引っ付いててやって欲しいの、何も言わなくていいから」
「お寺…告別、式…」
鏡に映る自分の姿を見て思わずつぶやいた自分の言葉に呆然とした。瞬間、あの黒塗りの高級車を見送る多恵さんの姿が頭をよぎる。
多恵さんのうつむく横顔と離れて行く車。二人の関係を詮索する気はないけれど、もしやあれからずっと沈んでいると感じられた多恵さんの毎日はこれのせいだったんだろうか。それが、こんな形で幕を下ろすことになるのか…
生まれて初めて腕を通すスーツが喪服とは、僕の人生、やはり負に傾き過ぎている。大人になった自覚の無い僕に見慣れない黒のスーツは似合うはずも無かった。
「多恵さん…」
そう言いかけて言葉を飲み込んだ。何も言わないで多恵さんの横にいればいいのだから、必要以上に知る必要は無いと、そう思った。姉さんの横で沈痛な空気を肌に感じて聞こえないように大きく息をした。
大きな寺の前で車が止まると、
「ここで降りて、車停めてくる」
と姉さんに急かされてお寺の門前に佇んだ。そこには想像以上に大勢の人が詰め掛け葬儀の盛大さを感じた。
『大内貴寛儀告別式式場』
と仰々しく書かれた看板を見上げ、この人の告別式、一体誰なんだ?多恵さんの大事な人なの?この先どうしたものかと戸惑っていると、車を止めて走ってきた姉さんがこっちこっちと手招きした。
「あそこに多恵いるから、行こう」
「姉さんもいてくれるの」
「うん」
『良かった』ここで放られるのかと思って動きの取れないでいた僕はホッとして姉さんの後ろを追いかけて走った。
多恵さんは顔色が悪いなんてもんじゃなく、立っているのがやっとと言う状態で、訳のわからない痛々しさだけが体中から伝わってきて辛かった。
遠くには、写真や白い布で覆われた骨壷を抱えた肉親の者たちが出棺を待って並んでいる。身内がいるべきはずの場所にいないのにこんなにやつれているなんて、いったいこの告別式の主は多恵さんの何者なんだと考えれば考えるほど、多恵さんに対する悲しみとこの大内と言う男に対する言い知れない怒りが勝手に湧いてきて、そればかりが気になって場違いな感情に陥っていた。
多恵さんの嗚咽をこらえる震えが横に立っている僕の腕に伝わってくる。僕はポケットに入ったハンカチを多恵さんの手にそっと滑り込ませた。色の無い世界。眼の前に広がる世界は元々モノクロなんだけどそれだけじゃない無機質さが僕たちを襲った。
「姉さん、今日みたいなお葬式って悲しいね。多恵さんが可哀想だった」
「晴君に辛い思いさせたわね」
姉さんは僕にビールを渡しながら静かにそう言った。
「あの人、多恵さんの凄く大切な人なんだね。
僕は明るくてオシャレな多恵さんしか知らなくて、でも、ここんとこずっと塞ぎ込んでいたんだ。それがどうしてか分からなくってもどかしかった」
「そう…晴くんもなんか感じてた?それにしても盛大なお葬式だったわね。引退したとはいえその道じゃ有名なピアニストだから」
「ピアニストなの?僕はてっきり噂の大学教授だと思った」
「噂の?噂か…多恵らしいわね。煙に巻きたいのよ、はっきりしなくてもいいこともたくさんあるでしょ。凄く大事なことも多恵はへっちゃらみたいにやり過ごす。多恵の美学よね」
「良くわかんないや。多恵さん大丈夫かな。ちゃんと生きてるかな」
「大丈夫、ひとりじゃないから」
「え?」
「支えてくれる人もいっぱいいるから。晴君もいるし、私もいるし、ね。多恵は強いからきっと大丈夫」
姉さんは確信めいてそう言った。僕にはその確信がどこから来るのか納得いかなくて心配だった。今にも消え入りそうな多恵さんの横顔。喪服の多い中多恵さんはおしゃれな黒いワンピースで身体の線を隠しふんわりとそこに佇んでいた。
確かに芯はある。何事にも堂々としてどこに出ても自分らしく振る舞う多恵さんに歯向かう者はない。でも、今日一日何も話さない多恵さんの心境は誰にも計り知れなかった。
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