第10話 兄貴の帰国

 長期出張の兄貴が久しぶりに日本に帰ってきた。毎日何処で何をしてるんだか…一度出かけると半年は帰ってこないこともある。そのくせ、帰ってくればいなかった間の時間の経過など感じさせないで人懐っこくそこにいる。今回の出張は大事な橋掛かりな仕事だったらしく帰って来てもしばらく会社に張り付いていた。

 僕に顔を見せて、まず最初に、

「CDデビューするんだって、いよいよ本格的に始動か?」

 そう言ってまず人のことを茶化す。それが兄貴の友好的外交手段なんだと分かってはいても、僕は好きになれなくてむかつく。

 姉さんの前で素直で良い子のはずの僕が、兄貴の前では屈折した子供にかわる。早くに姉さんに会えて良かった。そうじゃなかったら人のぬくもりも知らずきっと兄貴のような嫌味な大人になっていたに違いない。

「久しぶりだって言うのに何?気に入らない。第一声がそれかよ」

「嫌味なもんか、そう聞こえた?駄目だなそれじゃあ。本当に感心しているのに。CDなんて誰でも出せるものじゃないだろ」

 僕はこの問題について兄貴と話をしたくない。

「そんなことより、兄貴、僕としては姉さんのことの方が気になってるんだけど、いったいどうする気でいるの?こんなふうに毎回、驚かすように突然帰って来るだけだろ」

 と、反撃してやった。すると、兄貴ははぐらかすかと思えば笑いながらも真剣に、

「お前が姉さんって呼ぶともう人生決まったなって、嫌味じゃなくそう思うよ。でも、このとうりの生活だろ、結婚したって寂しい思いをさせるよな。

 もともと家庭を大事にしたいと言ってた奴だから、そこが気が引けるんだよ。向こうも仕事好きでこっちの仕事は手放せないし。今がベストなんだと。色んな形があると思うけど、結婚ってさ、どんな形が良いんだか。

 俺は連れて行きたいんだよ。一緒に暮らしたい。でも駄目だって…それぞれ仕事を大事にした方が良いんだってさ」

 姉さんのことを本気で考えていることは確からしい。言葉の端々から姉さんへの愛情が苦々しく伝わる。

 結婚して、一緒に住むことになったら少しは二人の時間は増えるのだろうか。と単純に思っていたが、そんな簡単な話しではないらしい。兄貴は連れていきたいって、それを拒んで仕事がしたいっていう姉さん。

 少なくとも僕がこの家にいる時間はかなり多いわけで、その僕が二人一緒のところを見ないこの現状は、どうやら結婚してもあまり変わらない事だろうと思われた。

 手を伸ばせば届くところに砂湖のいる僕の人生からは想像もつかない。それも最近はおぼつかないものになってしまってはいるけど…

 お互いに充実した毎日を送っていれば一緒にいる必要も無いのか、それとも、それも乗り越えられるくらい強い精神的な繋がりがあるのか。

 子供の頃両親の離婚で家庭を失った姉さんが温かい家庭に憧れていたとしても、相手が家の兄貴じゃ安定した同居は求められないわけで…姉さんのささやかな望みは永遠にかなえられないんじゃないかと心配になる。

「今度はどのくらいいられるの」

「一週間くらいかな」

「そんなんで、また、姉さん置いていくのかよ」

「明日、彼女のじいちゃんに会って来ようと思ってる」

「へ~」

 兄貴の答えに胸がざわっとした。

 僕の知らないところで二人はちゃんと連絡を取り合っているんだな。きっと…

当たり前だ。そうじゃなきゃまずいよ…二人のことを何でも知っているみたいに思っていた自分に自信をなくした。でも、それはその方が良かったんだ。と正直思った。

 兄貴は今回の帰国でついに腹を決め、姉さんの故郷に出向いて、育ての親のじいさんに挨拶をしたらしい。結婚式は次の機会と聞いてまだ少し時間があるなと僕は感慨に耽った。

 姉さんの故郷は岐阜の山奥で清流「飛騨川」が流れている。今はじいさんが一人で鮎を釣って生計を立てている。じいさんは有名な鮎つり名人らしい。その町があまりにも素朴で何もなくてびっくりしたと兄貴は言っていた。

 隣に観光で有名な町があってそっちはテレビのロケに使われたり、みやげ物売場も充実していていかにも観光地だったが、姉さんの住んでいた町はちょっと離れただけですっかり辺鄙な田舎で、その落差が凄いと兄貴は驚いていた。

 挨拶を済ませて家に帰って来ると兄貴から驚く話を聞いた。

「あと三ヵ月したら向こうに二年くらい行くことになったから」

「あと三ヵ月って…それ」

「向こうに会社を作るんだ。まだまだ、当分落ち着けないよ」

「姉さんは」

「知ってるよ。だから、今回、形だけでもちゃんとしようって話になったんだ」

 兄貴も喜んではいないふうに見えた。

「三ヶ月はこっちにいられんの」

 返事はわかっていながら確かめずにはいられなかった。

「いや、行ったり来たりだな。遥が一緒に来てくれたら良いんだけど、大丈夫だってさ…こっちにいてもちゃんとやれるって言うんだよな~やりたいこともあるらしい」

 兄貴には兄貴なりの悩みがあるらしい。

 そうなんだ、女が男に合わせるって時代じゃない。姉さんには姉さんの仕事や暮らしがあって、一緒に行かないと言う選択もありかと、何だか人事ながら絶望的な気持ちになるのは、僕がおかしいんだろうか、僕の頭が固くて、古くて今についていけてないんだろうか?


「晴人は愛する人と一緒にいたい?」

 疲れた顔をしてソファにもたれた僕に多恵さんが聞いた。

「はあ」

 ため息交じりに考えがまとまらない顔をする。簡単にそう思えたことが、今は難しいことになってしまっている。それをさっしてか多恵さんが慰めるように僕に言った。そう言う多恵さんだって愛する人と一緒にはいられないんだ。

「僕は子供だから、大人の気持ちは難しい…」

 むすっとそう答えた。

「ハハハ…大人の気持ちね」

 多恵さんは凄くおかしそうに笑った。

「砂湖ちゃんは幸せよね。それが砂湖ちゃんにとっても同じなら」

 それは胸がチクリと痛む一言だった。

「結婚ってそうでしょ。結婚の数だけ形があるけど、二人の考えが同じじゃないとまずいわけよ、二人がよければ基本OKじゃない。どんな形でも」

「たしかに…」

 僕は打ちひしがれた仔犬のように、相変わらず多恵さん自慢のピアノの前で、この先どうしようかと悩んでいた。

 日頃の僕に輪をかけて口数が少なくなる。多恵さんも余計な話はしないから、二人ともピアノの前にいながら何も聞こえない静かな時間が流れていた。

 あの家にこのまま住むのは止めようと思っている。

もう、兄貴と姉さんの間にお邪魔するのは勘弁して欲しいって気分だった。手が届かないものに一人で飛びついてもがいているような、手放してしまえばどうってこと無いと自分に言い聞かせたいような…

「多恵さん、どっかにアパート無いかな。あの家出ようと思うんだけど」

 僕は考えがほぼまとまると口に出してしまう癖がある。

「あら、遥がさみしがるわね。砂湖ちゃんのところへは」

「あそこには行きたくない…です」

 行きたくないと言った後で、はっきりそう思っている自分を再認識して驚く。

「行きたくないか~何か屈折してるね。晴人ともあろう者が…考えすぎは良くないと思うけど」

 返す言葉は無い。でも、何かに煩わしさを感じた。煩わしい…

「まずは独立しないと、まずいかなって思うから」

 そういう言い訳を自分でももてあまし気味。

「じゃ、この家に来るってのもダメね」

 そう言って多恵さんは悪戯っぽく笑った。

「も、もちろん…」

 僕はきっと駄目な男だ。いろんなことを言っていながら、姉さんを放りっぱなしの兄貴を責めていながら、今は形ばかりになっているけど表向きは砂湖というものがありながら、多恵さんの今の一言を未練たらたらに、逃した魚は大きいかもと思っている。

「晴人あなたはみんなから愛されてる。それは素敵なことよ。でも、みんなから愛されてるあなたは気をつけないと大事なものを見つけられないままで終わるわ」

 僕の複雑な顔色を多恵さんが見抜いている。僕と砂湖の危機を見抜いている。僕の浅い経験ではわからない色んなことをこの美しい多恵さんは潜り抜けて来ているから、僕が心配している兄貴と姉さんの結婚についても一言も言わない。

「やってみないと分からないことのほうが多いから」

 と言うのが口癖だった。

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