第8話 ユンちゃんの頭の中
1曲、2曲仕上がる毎に、出来たばかりのユンちゃんの譜面がFAXで僕のところにやってくる。今時FAXなんて知らない人もいるだろうが譜面を送るのにはA4サイズで届くこれが1番都合が良い。初めは落書きみたいな書きなぐった楽譜が届き、それが変更変更とだんだん汚れのひどくなったものに変わり、一度もピアノであたることも出来ないまま、最後は音源を届けにユンちゃんがギターを引っ提げて出向いてくる。ユンちゃんから届いたラブレターは解読不可能なまま僕の記憶の中に浮遊する。
外はここのところ雨続きだった。ふと見上げるサンルームのガラスの屋根に雨が当ってパシャパシャと音を立てていた。大粒の雨がひとつひとつ滑り落ちて途中で合流して流れ落ちる。雨が感じられる空間。季節の動きが手に取るように解るこの場所。ピアノの音がいっそう雨音のように聞こえて、物悲しい。
ユンちゃんの壮大な構想からの楽曲が最終的にまとまり、よくやく仕上がってユンチャンの笑顔とともに届いた。清書された譜面を奏でると部屋が涙が出そうな悲しさに包まれた。
『この曲やばいよ、ユンちゃんはなんでこんなバラード書けるのかな。恋ってしたことあんのかな?』
僕にはユンちゃんと言う人がとても不思議だった。曲を作るために家に篭ってしまうのでいったいその間にどんな風に過ごしているのか見当もつかない。僕たちと縁を切ったみたいに姿を消して、そろそろ気になってくる頃、ある日ピンポーンとドアの前に立つ。
その過程こそが不可解な話で、ユンちゃんから送られてくる楽譜らしきものは暗号のように難解で、解読するのが非常に難しく、歌詞カードたるや文字が読めない。それに頭を痛めて来る日も来る日も悩んでいると、ある日突然、本人が出来上がったCDと譜面を持ってやって来る。
神降臨…僕は長い孤独から開放されてひれ伏す。
手には読めない譜面。じゃああれは何だったのか?一つも解けないまま抱えなくてはならなかった僕のフラストレーションはどうしてくれる…
あの難解な楽譜は?格闘して悶えるユンちゃんの心の葛藤と苦悩を伝えたくて送ってくるんだろうか?僕には、人に読めない譜面や歌詞カードを送ってくるユンちゃんの気持ちがわからない。
しかもあの解読不能な紙切れが想像できない曲に仕上がってくるんだから、どうしたらそうなるのか一度ユンちゃんの哲学を学ぶべきだ。
「ユンちゃんこれ?」
「なに?」
「一番最初に届いたユンちゃんからの宝の地図だよ」
「宝の地図ってなんだよ。大げさだよ!はは、晴人に弾いてもらいたくて送ったんだ…どうだった」
「これを弾くの?」
「ああ、傑作だろ、とにかく出来たばかりの作品は何より興奮を伴って居ても立っても居られないんだよ。晴人に弾いてほしくて…」
「ユンちゃんこれで行けるの?弾いてみて」
戸惑いなんてない。ユンちゃんは自分の送った楽譜がまさか読めないものだなんて思ってもいないんだ。
「これはどんな名曲より難解な譜面だよ」
「どれどれ、ほんとだ。インスピレーションがキラキラしてるね。この感動はこの時だけのものだよ。だんだん整備されて整ってきちゃうからね」
そう、爽やかな顔で言うユンちゃんに僕の意図するところは伝わらない。
そうか…この譜面はインスピレーションの塊…そう思えば捨てるわけにはいかない。取っておこう。さっきまで破り捨てたい心境だったけど。
「ユンちゃんここにサインしてもらってもいいかな」
「サイン、何それ」
自分の才能の凄さに一つも気が付かないユンちゃんのコレクションをこのさい収集しておこうと思った。
「恋愛も失恋も苦手だけど、ボーカルとしてはこんな曲も歌いこなさないといけないんだな」
「苦手?」
ユンちゃんがフッと笑う。僕のことを知ってそうで知らなそうで、でもそこには拘らない。
譜面を前に、曲想が身体に沁み込めばなんとかなるかと何度も弾いてみた。ユンちゃんからの録音テープも何回も聞きなおして音をとりながら、
「だんだん課題が多くなるな」
と、恋愛下手な僕はこぼしていた。
砂湖との間に吹いた小さなつむじ風はその後、不思議なほど静かにしていた。けれど、僕の中にある何かは、滲むように広がって掛け違えたまま、元に戻ることは無かった。
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