第7話 胎動

 多恵さんと宴を囲んで盛り上がった夜。その前に足立さんから話をもらったはずなのに、僕たちは煮え切らないまま、何時も通り集まって何かしら制作に励んで明けては暮れる変わり映えのしない毎日を送っていた。CDデビューは夢だったけど夢過ぎて現実を思うには遠すぎた。

 あの話しはどっか気持ちの奥に重くのしかかっている。だけど、僕はこういう時口火を切る役じゃない。後ろから支えて頑張るのが仕事だから、切り開く役は祖知に任せきりで僕は静かに事柄が動き出すのを待っていた。

 ところが、その祖知でさえ、今回の問題はまるで意識の外で自前のキャパを超えるらしく珍しく慎重に構えて何も言い出さなかった。

 毎日、それぞれ来るべき時に備えてフツフツと気持ちの底は燃えている。何割か増しな緊張感が漂う中、課題を作ってマイペースに練習してはいたが、もはやこの息苦しさは誰かが火を付けるのを待つ埋み火と解っていても、決定的な決断を下すのは僕じゃないことを僕は知っている。

「せっかくもらったチャンスは生かさないといけないよね」

 あれから半月。ついに冷静なユンちゃんがつぶやいた。あの時以来押し寄せる重圧に抗いながらCDデビューを話題にもせず黙って練習に励んでいた僕たちは、ユンちゃんの一言でようやく重しが外れて腰を上げて現実を見る。

 雲を掴むような話しを目の前のテーブルに広げて頭を突き合わせ、計画に取り掛かかろうと、デモテープ作りの話し合いを始めた。

 僕たちの曲の大部分を作っているユンちゃんがやろうと言うんだから拒む理由も無いんだ。ようやく頼もしい声が上がって動き出そうと身構えたはずなのに…

 解っていた事だったけど…デモテープが出来たとたん、ユンちゃんは自分の家に引きこもってしばらく練習にも姿を見せなくなってしまった。

 そうなんだよ〜もともとユンちゃんはある程度形になるまでは一人で籠もって仕事をするタイプで、曲数の多い今回はユンちゃんの思い入れも半端なく、大方の形が出来上がるまで当分全員で集まれそうも無いのだった。

「忘れてたよ、これだ。目鼻つくまでいなくなるんだよ。ユンちゃんは…ユンちゃんいなくてどうするよ」

 僕は自分の目標が見い出せなくて途方にくれた。それで、仕方ないのも手伝ってこの際、思い切って気分転換にと自分も多恵さんの家に入り浸ってピアノの前に張り付いていた。

 多恵さんが『それなら良いのがあるわ』とサンルームに小ぶりなピアノを置いてくれて、回りも何だかちょっとしたホテルのアトリウムのようにしつらえてくれて、居心地良く仕事を始められる設えにしてくれた。

 ユンちゃんの強く薦めるバラード一つと、僕のイメージとは違うって文句言われそうなアップテンポの明るいラブソングと、クラシカルなピアノの音色に合わせてポツポツと雨音のするイメージの曲を考えていた。

「このピアノ?見たことないけど」

 サンルームに置かれたそのピアノは、初対面の、今まで見たことのないクラシカルな代物だった。

「倉庫から出して調律してみたの。このピアノ、小さめでオルガンみたいで晴人のイメージにピッタリでしょ」

 ピッタリ…そうは言っても凝った作りのこのピアノは見るからに高そうだ。多恵さんのお宝なんじゃないか。多恵さんは繊細に彫られた森のレリーフを細い指で撫でながらそう言った。

「私が子供の頃からこの家にあってね、時々ホームパーティーする時なんか集まった父の友達が弾いてくれたりしてたの」

 と、懐かしそうに言って、何小節かポロポロと弾いた。

「グランドピアノみたいに冴えた音じゃないけど、少しこもる音の雰囲気が晴人のイメージにぴったりなんだよね。どう」

「どうって、僕なんかが使わせてもらっていいのかな…」

「かまわないわよ。誰にも弾いてもらえないなんてピアノのほうが可哀想でしょ。忘れてたのよ。この子のこと。思い出したら無性に弾いてあげたくなって引っ張り出したの」

 そう言って笑う声に力がない。空元気を見せて微笑む多恵さんはこの頃元気がなくて、ピアノのことよりも多恵さんの体のことのほうが僕は気になっていた。

「多恵さんちょっと顔色悪くないすか」

 いつもの明るさが無かった。

「そう?実はそのうち晴人にお願いしたいことがあるんだけど、その前に遥に承諾を得ないと、と思ってる。もう少ししたらあなたにも言うつもり」

「え…」

「待ってて、それまで」

 多恵さんに待てと言われれば待つしかない。僕は納得のいかない顔で返事をした。

「このピアノで好い曲いっぱい作って。ここはこのままにして置くからいつでも使ってね」

「はい。ありがとうございます」

 やっぱり僕は「はい」と返事するしか能が無いみたいだった。

 しかし、はいと威勢よく答えてみたもののそう易々と良い曲は出来るはずも無く、それからの僕の毎日は、環境だけ整った中で、産みの苦しみに耐え悶えながら、だらだらと過ごしているような、何かに思いつめているような、ひどく重苦しい毎日になっていった。



  

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