第29話 刻の音

 木枯らしの吹く寒い日…病院から緊急の連絡が入った。

 急変だった。楽しみにしていた兄貴の帰国を待てず、満足に食べられなくて小さくなった姉さんが、 突然亡くなった。肺炎による急な死で、死に立ち会えたのは僕だけだった。

 後二月待ったら兄貴が帰ると知らされて素直に喜ぶ姉さんの顔を見てから、ちょうど一月後のことだった。それはあっけなく突然で、心の準備も出来ないまま全てを奪い去った。

 砂湖が駆けつけてくれたとき、僕は半狂乱だったらしい。泣き叫んで狂う方ではなく、落ち込みが激しすぎて生きている反応が感じられないという。

 目がうつろで焦点が合わず。話も出来ず。何一つ反応できない。そんな状態から抜け出せないまま、告別式に出席するのも不可能で、砂湖が箪笥から出しておいてくれた礼服に手を通すこともできなかった。

「晴ちゃんどうしたら良い」

「しばらく様子を見よう。あんまり刺激しないようにそっとしておこう」

 祖知は相当心配したらしい。僕のことをわかっているやつだから、その繊細さが恨めしいとこぼしていた。

 姉さんを失うのがこんなに辛いことだとは想像できなかった。もともと、人を失うなんて非日常過ぎて誰も想像できない。

 僕は立ち直れないまま砂湖に介抱されて多恵さんの離れで昼と夜を反対にして暮らしていた。

 それから一週間しないうちに、あかりが生まれた。

 それは間違いなく吉報だった。暗い闇に覆われた世界に儚げな光が差すような。こんな僕でも心を奮い立たせて生きないと、と思わせるような。

 名前は約束どおり僕がつける。どんなに打ちひしがれていてもそれだけは譲れない。僕にたった一つ任された役割だから。

 姉さんを遠く連れ去ってしまって、もはや闇しか写さない空。その闇の向こうにあるはずの光を想像しようとしても深く沈んだ心は浮かんでこない。そんな気持ちのままどうかなりそうになっていたとき…新しい命は逞しくこの世に生まれた。

 僕は自分の子供だと言い聞かせ、どんな時も守ってやると決めていたのに出産に立ち会えなかった。分娩室の前でオロオロする父親の役をやってやれなかった。どう考えても前向きな気持ちになれなくて多恵さんに合わす顔がなかった。僕の代わりに砂湖が、その役割を変わってくれた。

 それでも、あかりの顔は見たかった。無事生まれたと聞かされた時、閉ざされた闇がかすかに揺れる気がした。多恵さんも僕もこの時のために必死に生き伸びてきた気がした。

 病室のドアを開けると、多恵さんが落ち着いて、

「晴人…」

 と言おうとして一瞬息を呑んだのは、僕の姿がそれほど変わり果てていたから。飲まず食わずで体重がかなり落ちていた。

「女の子よ。遥の生まれ変わりだと思って大切にする」

 と、僕の心に温かい息を吹き込むように、奇跡のように笑った。

 この子が生まれてくるわずか十ヵ月の間に多恵さんは二人の大切な人を失った。それでもこんなに美しく笑えるのは、凄いことだよ。この子が居てくれたお陰なのかと感謝するしかなかった。

「晴人、本当に名前付けてくれるの」

 と、多恵さんが聞いた。

「うん、任せて…」

 無理して笑った。多恵さんに余計な心配を掛けたくない。

「この子のお父さんの名前、もらわなくていい?」

 力なくも素直にそう聞いた。多恵さんなりの思いがあるかもしれない。

「ううん、それは考えなくていい。しがらみの無い名前がいいな。この子の未来だけを明るく照らすような名前」

「そう、ゆっくり考えてみるよ。ようやく顔も見れたしね。写真撮っても良い?」

 鞄からケータイを探すのに中身がこぼれた。

 多恵さんは大切そうにその子を抱えて僕のケータイにニッコリ微笑んだ。ケータイのカメラ機能など使ったことも無い僕は、一端のお父さん気分で多恵さんに教えてもらいながらシャッターを押した。

 僕が帰った後、この子にいっぱい話しをするんだろうか。多恵さんにも思い出したいことや、思い出したくないことがいっぱいあるはずだ。

 僕は楽譜と曲の入ったMDウォークマンとライブスケジュールを綴じたファイルを乱暴に鞄に詰め込んで病院を後にした。

「あ、今病院出るからあと三十分くらいで着くと思う」

「どうだった元気な赤ちゃんだった」

「うん、女の子だった」

「そんなの、みんな知ってるよ。聞いてなかったの」

 と砂湖が優しく笑った。

「記憶が曖昧ではっきりしないんだ」

「晴ちゃん、無理して出てこなくて良いよ。このまま家に帰ったら」

「いや、大丈夫…」

「今どこなの私行こうか?心配なんだけど」

 砂湖に心配掛けるのに胸が痛んだ。なのにいざとなると頼ってしまう。

「ごめん、待った」

「そんなにやつれてるのに、話って何」

 僕がうつむくと嫌な空気が流れた。でも、確かめなくてはならない。僕はあかりの父親になる。

「ごめん。僕と別れてもバンド続けられる」

 不意に声に出てしまった言葉が自分の胸をえぐった。あかりの父親になる以上砂湖は幸せにしてやれない。そう確信してこれ以上中途半端に続けられないと思った。

「確認するまでないわ。私たちはもう終わってるじゃない。晴ちゃんにとって私がなんだったのかわかる気がしてる。今は必要ないんだなって事も…」

「砂湖…」

「こんな言い方すると不愉快かもしれないけれど、別れる別れないはSEXするかしないかだけってことじゃない?」

 少し砂湖の語気が荒くなった。

「違うよ。砂湖、そういうつもりで言ったんじゃない」

 僕は砂湖のストレートな言い方にうろたえた。

「僕の兄貴と姉さんは多分そんなこと超越して愛し合ってた。多恵さんも、もうそんな関係この先一生ない人を愛したまま生きていく、僕は、僕は…」

「生きてるってそういうことだと思うわ。男と女だもの。実情は色々あるよ。離れてるとか、相手が死んでいないとか、でも私たちは生きてる」

 語気が強まる砂湖の心音が響いてくる。

「僕にはよくわからないんだ。そういうことも含めて。僕はひょっとすると砂湖のこと自分のもんだって勘違いしてたのかもしれない。一人が好きな僕が砂湖だけはOKって心を許してた」

「それがOKじゃなくなった?」

「いや今でも砂湖だけに許してることは多いよ。粗知に吐けない弱音もある。だからそれも違う。でなきゃバンドは続けるって言えないだろう。嫌ならバンドも抜けるさ」

「晴ちゃんが今、一番守りたいものは何?心に浮かぶ一番大切なものは何?」

「あかり…」

「あかり、何?それ名前?」

「多恵さんの娘に僕が名前を付けるんだ」

「なんで晴ちゃんが…」

 砂湖は悲しそうな目をした。

「僕が父親になるって前に約束をしたんだ。本当の父親になんてなれないけど」

「多恵さんと結婚するってこと」

「いや、多分、結婚なんて望まれてないよ。多恵さんがあかりは姉さんの生まれ変わりだって、僕もあかりに心を奪われてるみたいなところがある」

「そうね、だから、晴ちゃんが本当に守りたいものはその子じゃないと思うわ」

 きっぱりと言った。

「貴方をそこまで落ちこませているものをどうにかしなきゃ。多恵さんと生きていこうと思ってるなら、もっと前向きにいろんなものを割り切って生きていかなきゃ」

 砂湖は多恵さんとのことを許しているのか?それにしても言っていることがよく理解できない。ただ、砂湖の心の中に充満している悲しみや怒りが大きな塊になって押し寄せてくるのがわかる。

「私は貴方に幸せにしてもらわなくても大丈夫だから…

晴ちゃんが心を痛めて生きているのを見たくないから。自分に嘘をついて生きて欲しくないから…私はどんな言い方をされても晴ちゃんの事が本当に好き」

「砂湖…」

「本当に好き…多恵さんひどいと思う。そんな重荷を晴ちゃんに背負わすなんて」

「違う僕が自分でそう言ったんだ」

「言わせたのよ。晴ちゃんが優しいのをいいことに」

 砂湖が立ち上がった。

 面倒をかけるだけかけてこんな言い方をした僕を砂湖は許せないだろう。だけど、僕の支えだったあかりを…もう少し抱きしめていたいんだ。


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