第4話 多恵さん
ついでに話題にチラッと出た多恵さんの事を紹介する。一番難解で僕には凄すぎる人脈を持った、砂湖が僕の浮気相手と疑うならこっちだと思う大人な女性。多恵さんは月に何ステージも抱える新進気鋭のピアニスト。子供の頃からピアノ一筋で、学校とレッスン場を往復する毎日に文句も言わず勤しみ、資産家の両親に大切に育てられたお嬢様的気質が生活のそこかしこから覗える。無心にピアノに向かうその姿は、まさに絵になる美しさだ。
僕の週に一度のピアノレッスンとしての多恵さん家通いはもう3年も続いている。考えてみたら砂湖より付き合いは長いんだった。
上京した頃。初めはギターだけで十分やれると何も知らずに思っていた僕も、姉さんに薦められるままピアノの指南を多恵さんから受けて、音楽がどういうもんかを知った。だんだん面白さにはまって、その上スジが良いといってくれる多恵さんに乗せられて、通い詰めているうちに多恵さんの磁場から離れられずリビングの空気の一部みたいになってしまった。
呼び出されるままに用も無いのに出かけて個性も様々性格も難あり勝機ありツワモノのミュージシャン仲間と飲んだり話したり物資調達係をしながら、僕は知らず知らずのうちにこの世界の住人となった。僕にとって多恵さんは一番の恩人であり、粗末に扱えない太いパトロンなんだった。
お嬢様の多恵さんだから、時に我が儘で危険なにおいがするけれど、『妖艶な女』などというステレオタイプな言葉では表せない。僕にいろんなチャンスを与えてくれる魔法使いのような…
ある意味異次元の人だから…
僕は多恵さんに言われるままに荷物を運んだり、コンサートの手伝いをしたり、クラブの伴奏に出かけたりしているうちに、粘土細工でもこしらえるようにだんだん人となりミュージシャンとなった。
多恵さんが僕を気に入っている一番の理由は、主張をしないところらしい。
「晴人は向こうを見てろって言ったら一日でも向こうを見てられると思うわ。なんでもこなす実力があるのにらしくないし」
そう便利そうに話す。もし、それが僕に与えられた役どころなら、それで一生やれる気がする。僕は自分に日向が似合うと思ったことが一度も無いから…ずっと日陰で良い…人の心の暗い所に住み着いて空気のように暮らしていたい。
出来の良い兄貴を持つと、子供の頃から日向は兄貴が歩くものだと思ってしまうものらしい。サラリーマンになって、スーツを着て、颯爽と歩くその姿は、いかにも日向の人にふさわしいとその輝きの神々しさにうつむくしか無かった。
反対に弟の僕は半人前。あくまでも日陰がふさわしい。自虐的にそう思ってはいるが…この日陰はむしろ、後ろ向きな場所ではなく、案外心地良く、それはそれなりに僕にとって最高のステージだった。
その日は、週に一度の練習日で、地下鉄を降り、裏手の路地を近回りして多恵さんの家に向うところだった。
坂の途中から見える景色の中に、黒塗りの大型車を見送る多恵さんの横顔が沈んで見えた。お屋敷の一角が緑で覆われ、長い塀が続き、遠くからでもこの屋敷の大きさが想像できる。都心でこれだけの屋敷を抱える。詳しく聞いたことはないがかなりの旧家らしい。この家にはどれだけの資産が眠っているのか。
とにかく半端無いお金持ちだから。お金の苦労は知らずに育ったんじゃないかと思われる多恵さんは、いつも体の周りに不思議な空気をまとっていて、僕には関係しようの無い歯車がゆっくり回っている。聞かないけどお父さんは相当な実業家だと、噂だけで現実を知らないものは恐れをなしている。
その多恵さんが、日頃憂いを感じさせない多恵さんが、体に巻いた柔らかなガウンのようなものを着物みたいに前で重ねて腕を組んで静かに佇んでいる。
上目遣いに眺めた僕は近眼のせいもあって不審な顔をした。それに気が付いた多恵さんが曇った顔で眉間にしわを寄せ僕を視界の端で睨んだ。そんな風に感じた。
でも、次の瞬間。そんなことは無かったかのようにいつもの明るい多恵さんに戻って僕に小気味良く手を振った。
僕も今見たことを打ち消すように顔の前に手を広げ、おどけたように指を開いて二三度細かく手を振った。
「そろそろ来る頃だろうと思った!」
そう少し声を張って言う多恵さん。今日は声が大きい。僕も笑顔で答える。僕の笑顔は多恵さんの心を溶かすらしいから、何もなかったようにあの一瞬を打ち消すように…柔らかく微笑むと多恵さんは人懐っこく笑って、一瞬にして明るくなり僕をそのガウンで包んで、家の中に招き入れた。
「多恵さん……ああ、」
僕は珍しく多恵さんの顔色を伺って自分から何か話かけようとして、俺らしくないと思って止めた。『晴ちゃんは誰からも可愛がられている』と砂湖も少々嫌味のように言うけれど、自分から仕掛けるのが苦手なだけで、黙っていると悩んでいるかと勘違いされて、慰められる。
その力を一番発揮しているのが多恵さんの前で、僕たちの近づき過ぎないこの距離は弟子としての大切な隔たりだと思っていた。
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