苦難の入口 6

 

 黒いゴブリンの圧倒的な存在感。


 黒いゴブリンが一歩踏みしめる毎に、床に亀裂が生まれる。

 あれに取っては軽い行動、たったそれだけでも、普通の生物にとっては過剰すぎる力だ。

 

 戦闘に入り、もし防御に回ってしまったら、攻守の切り替えは決して起こらないだろう。

 

 それが理解出来きているのに、足が震えて踏み出せない。


 黒いゴブリンが振るう剣、もしそれを受け止めようものなら、剣は一撃で手から離れ、崩れた態勢にゴブリンの一撃が振るわれ命を落とすだろう。


 簡単に出来てしまう妄想。

 

 覚悟は出来ている筈なのに手足が震え腰が引ける。


 額から流れる汗が目に入る。

 それを目から追い出すために、数度瞬きをした次の瞬間、黒いゴブリンの姿は目の前にはなかった。


「危ない」


 反射的にクラウスの前に滑り込み、剣を前に向かって振り下ろす。


 相手の姿を視認して振った訳では無い、ただ危機感から来る焦りで剣を振った。

 振り切っていたのがよかった、剣を振った先に、黒いゴブリンが持つ剣が現れぶつかり弾き合う。


 力の差を埋めたのは剣の振り、その完成度のおかげだ。

 僕が剣を振り切っていたのに対して、ゴブリンは剣を振るう予備動作の為に僅かに剣を引いていた、その引くタイミングで、僕の剣はゴブリンの剣とぶつかった。


 力の向きが正面ではなく、後方だったから生まれた奇跡。

 

 足で床を蹴り上げ、黒いゴブリンに対して体をぶつけ鍔迫り合いを行う。


「助かった」

「クラウスもう少し下がれ」

「ああ」


 歯を食いしばり、黒いゴブリンを睨みつけながらクラウスに叫ぶ。

 探知魔法を使う余裕はない。

 全身の筋肉を活用する、ただそれだけに全神経を使い、体の力全てを剣に込めている。

 とてもじゃないが他の事をする余裕はない。

 

 背後に聞こえる、ザっという足音だけがクラウスの現状を表す便りだ。 


 剣は黒いゴブリンの肩近くまで押し込めている。

 あと少しそんな希望も、黒いゴブリンが両手で剣を持った途端潰える。


 黒いゴブリンに押され、互いの中心点まで剣の接触地点は戻る。

 位置こそ互角だが、腕の力のみで場面を戻した黒いゴブリンに対して、僕は全身の筋肉を総動員している。


 それにだ、体全ての力を使うには、角度が重要だ。

 もし、これ以上押し込まれでもしたら、それも出来なくなる。


 ここが最終防衛ラインなのだが、残念ながら腕が痺れ始めた。

 力が抜けるが、それは気合と骨の耐久力任せに、その場でじっと耐え続ける。


「ぁぁぁぁあぁぁ」


 目を瞑り、歯を食いしばる。

 顔を下に向けながら、腹から声を出し、その場にしがみつく。

 

 後数秒持てばいい。

 そんな弱音が心を覆い尽くそうとしたきだ。


 黒いゴブリンが持っている、剣の持ち手がギギという音を発した。

 次の瞬間、ゴブリンが持っている剣の持ち手が砕け、僕の持つ剣は、壊れた剣を押しのけゴブリンの素肌に触れ、ガンという音を鳴らす。

 

 とても生物の肌が出していい音ではないが、呆気に取られていた意識は戻って来る。

 

 剣を僅かに引きスペースを作ると、黒いゴブリンの右肩から左腹を切り裂く。

 黒いゴブリンの傷は浅くはない、現に奴の足元には血の池が出来ている。


 これはチャンスだった。

 腹に傷を作った事により、黒いゴブリンの動きは出血と、体に中心部近くで生まれた異変、欠損が、体の正確さを奪う。


 勝てないと決めつける程の相手に、雲の意図を掴むような勝機が見え始める。

 

 だから忘れてしまった、狂った獣は命断たねば止まらない事を。


「な」

「ぎゃぁっぁぁ」


 黒いゴブリンは斬られながらも勢いを止めず、こちらに突っ込んでくる。

 そして右拳を固め、顔面目掛けて拳を振り上げた。


 腰を落としているため、先程のように後ろへ飛び、衝撃を逃す事が今回は出来ない。

 そんな中でも行えた小細工が、拳の進行方向に剣を滑り込ませる事だ。

 後は祈りを込めて、拳の瘤に対して剣の刃を垂直に構え、待ち受ける。

 

 だが、それら全ての祈りは、ゴブリンの拳に文字通り打ち砕かれる。


 剣の刃を打ち砕いたゴブリンの拳はそのまま僕の顔面を捕らえ撃ち抜く。

 そのあまりの勢いに後頭部を床にぶつけ、さらにそこから体は跳ね上がり、空中で一回転、うつ伏せで倒れ込む。


「クッソ、ポジトロンブラスト」


 掠れる意識の中、クラウスがゴブリンに光線を放っているのが見える。

 

 僕が受けたら一撃で消し炭になるレベルの魔法。

 クラウスが放った光線は黒いゴブリンへ命中したが、奴の足が止まることはない。


 何事もなかったかのように魔法の中を進み、クラウスの前に立ちふさがる。

 そしてクラウスの首を掴み持ち上げた。


「が、倒れるのが早すぎだろ」

「ぎゃ、ぎゃ、ぎゃ」

「や、やめろ、俺は死にたくない」


 黒いゴブリンはクラウスを苦しめたいらしく、指先に少しずつ力を入れ、彼の顔色の変化を楽しんでいる。

 クラウスの顔は青くなり、そして次第に口から泡のような物がで始める。

 そこで一度手を離し、黒いゴブリンはクラウスに呼吸をさせる。


 息を荒げ、四つん這いで息を吸うクラウスを確認。

 そして顔色が少し良くなったのを確認すると再び首を掴み、また少しずつ締め始める。

 

 だが、所詮は理性のない獣。

 クラウスの顔しか見ないゴブリンは彼の暴れる手足には気付かない。


 そして次第に勢いをなくす手足、このままではクラウスは死んでしまうだろ。


(た……、たて……よ)


 意識の中ですら、言葉を思い浮かべるのがやっとの状況で何が出来る? そんな己の自問自答に、こんなのは僕の望んだ死に方じゃないと、答える。


 死ぬなら自分だけ。

 否定される犠牲にはなりたくない、肯定される犠牲になりたい


 だが、そんな罵倒も意味をなさず、体は動かない。

 先ほど食らったゴブリンの一撃、たったそれだけで体は限界だった。 

 

「やめろ」

「……」

「やめろって言ってるだろ」


 もう立ち上がれない筈だった。

 だが、クラウスの首を掴むゴブリンの腕を僕は今掴んでいる。

 

 それにしても悔しいな。


 同じ右腕、しかも僕はゴブリンの手首を掴んでいる筈なのに、ビクリとも動かない。

 大木かと思わせられる黒いゴブリンの腕には力を込めても爪痕すら残せない。

 何も出来ないだろうと、黒いゴブリンは腕を掴んでいる僕から目を逸らし、歪んだ笑みをクラウスに向ける。


 でもそれが、僕という器の不相応なのかもしれない。

 

 ゴブリンには勝てるという下らないプライドで立ち上がり、崩れた心を補強し続けた、そんな憐れな男の……だが、それと目の前の命を諦めるのは別だ。


 素手ではどうにもならない、だから武器を持ち出す。

 折れた剣を両手で握りしめ、クラウスの首を掴むゴブリンの手目掛けて振り下ろす。


「いいのか? 無視したままで」


 僕らの言語を理解しているは思っていない。

 ただ、言葉には意思が宿るいう、ならその意思を伝えるだけだ。


 黒いゴブリンはこちらを見ると、目をぎょっとさせ、クラウスの首から手を離し、その場を離れる。


「下がってろ」


 クラウスから言葉は帰ってこない。

 だが、ヒュー、ヒューといった呼吸音が聞こえて来る。


 クラウスはもう動けないか。

 それだけ判断し、黒いゴブリンへと足を進めようとしたその時、僕のズボンを誰かが掴む。

 あまりに弱々しい掴み方、僕はその主に向かって。


「大丈夫だ。結界が解けたら逃げろ。もう、そろそろだろ?」

 

 その一言で、ズボンを掴んでいた手は離れる。

 

「やめろ、死ぬぞ」

「心配してくれるのか?」

「ああ、悪いか?」

「悪くない、でも僕は行くよ。明日、希望を持って生きたいから」

 

 振り返りると、クラウスは縋るような目をこちらに向けていた。

 そんな彼に明るく笑いかける。


「クラウス、約束通り守ってやる」

「ほんとか?」

「ああ、じゃあなクラウス、いい子になれよ」


 背中越しに手を振りながら、黒いゴブリンへと歩いていく。

 それにしても、黒いゴブリンは随分離れた場所に行ったと、意外に思っていた。


 謁見の間入口付近にいる僕らに対して黒いゴブリンは高座近くでこちらの様子を伺っている。


 考えられる時間が出来た。

 まぁ、それを何に使うかはまだ決めてはいない。


 何がないか、まずは身近な腰袋から調べた。

 期待はしていなかった、だが左側の腰袋に瓶のような、ひんやりとした物が手に当たる。


 瓶を触りながら、中身の液体が何かを思い出そうとする。

 ポーションの線はない。

 先ほどルシアさんから貰った物は、ベンさんに渡したので全てだ。


 残る可能性はトールの依頼の時に矢に塗った……。


(そう言えばこれ、家において来るのを忘れてたっけ……待てよ、これがあればあるいは)


 思わず笑みを浮かべてしまう。

 

 もしかしたら時間稼ぎくらいはできるだろう。

 それに運が良ければ、あの黒いゴブリンを殺せるかもしれない。


「待っててくれたのか、ありがとな」


 折れた剣を両手で持ち、黒いゴブリンに向かって構える。

 そして先ほどとは違い、今度はこちらから近づき上段から剣を振るう。


 上段からの斬撃、その一撃は黒いゴブリンの右腕で防がれた。

 

 ジンとした振動と痺れる手、斬っても皮膚から血が出ない、さらには剣と腕がぶつかった時火花が散った

、コイツの手は金属か何か? とツッコミたかった。


(まったく、これの何処が狂ってるんだか、狡猾過ぎない?)


 そして剣が皮膚を斬り裂けないと知ると、黒いゴブリンは防御を選択した。

 ゴブリンは守るだけで、だがこちらは手を止めることは許されない。


 黒いゴブリンは僕が手を止めると、後ろにいるクラウスに視線を送るのだ。

 圧倒的な身体能力を持つ黒いゴブリンに、横を抜けれられたら絶対に追いつけない。

 だから、常に体の正面に置き、僕から意識を途切れさせないよう剣を振り続けるしかない。


 黒いゴブリンが何を待っているかはわかっている。

 それは僕の自滅。


 剣でゴブリンの皮膚が斬り裂けなくなったのは、僕の体、その不調が関係している。

 恐らくゴブリンから受けた顔面への一撃、その時のダメージが剣を鈍らせている。


 そして上段に剣を構えた時だった。

 お腹に激痛が走り、思わず体の動きが止まる。


 黒いゴブリンはその隙を見逃さず、左手で手刀を作り出すと、腹部に向かって突き出す。

 その手は腹を容易に貫き、それと同時に剣が床に落ちた音が周囲に響き渡る。


「ぎゃ?」


 手は背中まで貫通している。

 誰がどう見ても黒いゴブリンの勝ち、しかし、その当の本人がどこか納得いかないように首を傾げていた。


 耳がピクピクと動いているのを見るに、きっと音が気に入らなかったのだろう。

 それは失敗したな。

 少し

 右手で黒いゴブリンの首を触ると奴は体を跳ねさせた。

 急所を触られるのは怖かったか? でももう遅い。


 右手から電流を流し黒いゴブリンを操る。

 体は脳から信号を受け取り動く、といっても操るのは現実的に難しい。

 ただ、首に流れる信号を乱し、相手の手足を封じる事位は出来る筈だ。


、黒いゴブリンは鼻息粗く体を動かそうとしているが、予想通り首からしたが動かないらしい。


「さて、余裕も出来たし、あれもやるか」


 先ほど信号を乱せても体を操るのは難しいと考えていたが、それも条件次第みたいな所はある。

 

 首元にある鈴に魔力を流し、音を鳴らす。


「やっぱり、首からしたは無理か。ただ口と首は行けそうだな」

 

 黒いゴブリンの顎が上がっていき、口もまた開く。

 元々目が血走っていたゴブリンだが、命の危機、その恐怖が目の中に宿っていた。


「気づくのが遅かったな、僕も痛いし早めに終わらせよう」


 左の腰袋から瓶を取り出し、その蓋を口で開ける。

 その時だった、今まで動かなかったゴブリンの右手が動き、僕の左手に触れる。

 最後の抵抗、だがそれも強めた電流によって力を失い、垂れた。


「逃げないでちゃんとお飲み。森番特製の毒だ、しかも原液。滅多にお目に掛かれないものだよ。」


 瓶の中身をゴブリンの口に流し込む。

 そして瓶の中身を全て飲ませた後は、腹部に刺さったゴブリンの左腕を引き抜く。

 ゆっくり、ゆっくりと体の中身を傷つけないように、そして腕を引き抜き、ゴブリンの首から右手を引き抜くと、黒いゴブリンは泡を吐きその場で倒れた。


(もしかしたら、この腕を腹から抜く作業が、生涯で一番きんちょうしたかもしれない)


 深呼吸も溜息もしない。

 体を動かす事事態が辛いのだ、出来るだけ優しく負担のないか呼吸に気を配る。

 

 そしてそのタイミングでクラウスが貼っていた結界が解けた。


「俺はこれで逃げる」


 それだけ言うとクラウスは謁見の間から飛び出して行ったが、次の瞬間、彼の叫び声が廃城に響き渡る。

 恐らくスケルトン達に見つかったのだろうが、流石にそこまで面倒は見れない。


 足元にいる黒いゴブリンに再び目を受けると、泡を拭き、そして体を痙攣させ白目を向いている。


「すげぇな、お前」


 体の信号を乱していた為、ゴブリンの体は一種の麻痺状態。

 そんな中でも、ゴブリンの左腕は強く床を叩き付け続ける。


 わかっていたこと、恐らくこの黒いゴブリンは、先程与えた毒では死なない。


 だが、毒を中和し自由に動けるようになるまで、少しの猶予はあるようだ。

 

 段差を登り、高そうな、クラウスが座っていた高座の後ろに回り込む。

 そしてその椅子を背に座り込んだ。

 

 右に目を向けると、僕が歩いて来た道を示すような血の道がある。

 このままだと黒いゴブリンが目を覚ました直後、真っ直ぐこちらに来てしまう。


「だが、それでいい。それがいい」


 あの黒いゴブリンの優先は変わったはずだ。

 流石に命の危険を感じさせた相手を無視する事はありえない。

 ほんの僅かだが、クラウスの為に時間を作れる、それだけで今は約束を守ったという事にさせてもらおう。

 

「姿は隠せた、最後に見る顔は誰になるのやら」


 薄れる視界で前を見るが誰もいない。

 辛うじて聞こえるのは、謁見の間にある時計の音くらいか。

 

 200年も手入れもされていない筈の時計が、今も正常に動いている、それに感動しながらもゆっくりと目を閉じる。

 

「流石に眠くなってきた」


 もう腹部は痛くない、むしろ少しぽかぽかし始めた。


 助けが来なければ確実に死ぬ。

 今まで僕なら、死の恐怖に怯え、泣きじゃくっていた筈だ、だが今は何処か自分が誇らしく満足していた。

 

「そうか、これが人を助けるって気持ち……悪くないな」


 本当は前から知っていたのかもしれない。

 配分依頼で関わった人々が僕に向けてくれる笑顔。


 それで落ち込む事はなかった、むしろ胸を張れ、その日の夜は珍しく僕がベンさんに食事を奢った。

 

「もう少し生きてみたい。よく腐り果てて死にたいって思ってたけど、本当は死にたいと思ったことはないんだよね」


 そうわかってた、先がないのに頑張るのは少々僕には辛すぎた。

 だから諦めずに腐りたいと願った。

 本当は大切な人達との未来が欲しかった。

 

 これからするのは悪あがきだ。


 腹部に右手を触れ、魔法を発動する。

 

 レガリアに頼り切った魔法を使っている奴らなら難しいだろう、でも僕の調整特化の魔法体質と、学んだ魔方知識なら、これからやることは難しくない。

 

 魔法で血を操り正しい血流の流れを再現、これ以上の出血を防ぐ。

 擬似的な血管みたいな物だ。


 探知魔法を併用すれば、損傷箇所の把握は簡単に出来る。

 だが損傷した臓器を治すことは出来ない。

 

 だからあくまで「悪あがきだね」 

 

 死の間際だからだろう。

 今まで怖かった筈の未来を直視出来る。


 多分だけど、僕がもう1度歩き出すには新しい理由が必要だと思う。


 レティシアとの約束は今でも大切だ。

 でも、グレアムさんが言ったような、僕だけの理由。


 偽善がいいな、独善で誰からも理解されない。

 でも僕がこうしたいと自分の意思で決めたハチャメチャな物がいい。


 だってこの世界で僕という人間は一人だから。


「まったく、普通の魔法は使えないくせにこんな事ばっかり上手くなってさ、とにかく疲れた」


 そしてようやく魔法の発動を終える。

 後は維持するだけだ。


 自身を卑下する言葉が思わず口から飛び出したが、今はどんよりとした気分ではない。

 心暖かな面持ちで身を委ねる。


「明日あったら何をしようか、何を目指そうか?」


 目を開けておれず、ようやく眠りにつく。

 きっといい夢が見れますようにと自然な笑みを浮かべながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る