小心の虎、あの城へ翔る
@-kotobuki-
第0話 覚悟の餅
「もうここらで良い。結局こんな俺がこの時代に生まれてきたのが間違いだったんだ。」
左腰に手を当てる。刀がない。どこかで落としたのだろうか。つくづくついてない。やっと覚悟を決めたというのに神も仏もまだ俺をこの地獄に捨て置くのか。いくら流浪の身だろうと武士は武士だ。最後は自分の手で・・。
意識が遠ざかっていく。
遠くの方で血まみれの兄が手招きをしているのが見える。
暗い。ここは地獄か天国か。かすかな匂いが鼻を衝く。
「あぁ、死ねなかったんだな。」
自分の弱さには怒りを通り越した笑みが湧く。匂いのする方へ体が勝手に動き出す。心とは裏腹に体はまだ生きたがっているようだ。
ふすまを開けると大量の餅が焼かれているのが見えた。ここから先のことは自分でもよく覚えていない。気が付くと自分より一回りも二回りも小さい男に首を掴まれ叩きつけられていたいた。
「村の百姓だな。食った分の銭を払え!」
「俺は武士だ。百姓なんかじゃねえ!」
「刀も持たないそんな恰好でか!嘘をつくのもたいがいにしろ!本当に武士ならすぐにも酒井様に突き出してくれるわ!」
「酒井?どこの小領主だ?」
「
「吉田とは三河の吉田か?遠くまで来てしまったものだ。」
「遠くとは遠江か?はたまた尾張か?」
「近江だ。故あって近江国山本山城より三日かけてここへ逃げて来た。そして万策尽き、死のうと思ったが刀をなくし死ぬことが出来なかった。」
「ほう。死ぬことが出来なかった・・か。まだ死にたいと思っているのか?」
男は神妙な面持ちと共にやっと手を離した。
「自分でもよく分からない。刀がなくともいくらでも死ぬ方法はあった。それに三日三晩飲まず食わずだったから勝手に死んでもおかしくはなかったんだ。でも俺はここにいる。あんたとこうして面と向かって話してる。」
「餅代はもういい。だがこれからどうするつもりだ。まだ意地を張って武士として生きていくつもりか?」
「俺に張れる意地なんて残っちゃいない。自ら死ぬこともできない小心者だ。俺の人生なんてどうでもいい。」
「ふざけるな!!」
男が叫ぶ。あまりの大声に隣の店の主が顔をのぞかせるが男は構うことなく続ける。
「武士になりたくてもなれねえ奴らがこの国にはごまんといるんだ!武士として生まれておきながら、自分を“小心者”だという一言で片づけて弱音を吐くだけ。そもそも自分が思い描いていた武士らしい生き方ができていないことを“小心者”に産まれたという天運のせいにしているのではないか?心の弱い自分を“小心者”の一言で片づける身の程知らずの分際で人生なんて言葉口に出すんじゃない!」
正直図星だった。だがここまで言われたんだ。ここで黙り込むことはできない。
「お前に俺の何が分かる!武士でもないくせに“武士らしい生き方”なんか説くんじゃねえよ!」
数秒の沈黙の後、男は頬を震わせながら口を開いた。
「俺も昔は武士だったんだ。今までここらの誰にも言ったことはねえがな。」
後ろから拍子抜けした「ひぇっ!」という声が聞こえる。どうやら本当に知られていないようだ。
「隠さなきゃならなかったんだ。武士が武士じゃなくなるってのはこういうことなんだって辞めてから初めて思ったんだ。お前は俺なんかより何倍も体がでかい。その傷跡は数多の戦を潜り抜けてきた証拠だ。お前は小心者なんかじゃねえ。本当の小心者が言うんだから間違いねえさ。」
頬を涙が伝うのを感じた。何年ぶりだろうか。乾ききっていた瞳に雨が降っている。
「そんなに泣くんじゃねえよ。これ、持ってけ。」
男は袋を差し出した。
「路銀だ。これがあれば近江へ戻れる。三河では当分戦は起こらねえ。お前の故郷で立身した方が早い。」
「かたじけない・・。かたじけない・・」
涙が止まる気配はない。
「ただこれだけは約束してくれ。絶対に出世して親父さんとおふくろさんにいい飯食わせてやれよ。俺の親父とおふくろの分までな。」
「・・分かった。そうだな・・。侍大将を目指してやる!」
「だめだ。大名だ。城持ちになれ。そしてこの餅屋に報告に来い。」
「ああ分かった。約束だ。」
火花を散らしていた二人の間にはわずか四半刻で笑みが生まれた。
「名前だけ聞いておく。お前が出世したと風の噂で聞いておきたいからな。」
「そうか。俺は大名を目指す“天下一の小心者”藤堂高虎だ。」
「そうか。それでいい。」
男の声には悲喜のどちらも感じられた。
別れ際に男が残した"人は弱い生き物である"という言葉。聞くのは生きてきて二度目であったが、一度目とは全く違う意味に感じられた。
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