第5話 阿閉貞征の願い

 時は戻って天正元年八月。櫓に立つ貞征の視界には、琵琶湖の輪郭がはっきりと映し出されていた。左手には主家浅井家の居城小谷城、正面には織田方に下った磯野員昌の居城佐和山城が遠くに見えた。まるで二者択一を迫られているかのようであった。

 

 阿閉淡路守貞征のかねてよりの夢は、この日の本の歴史に名を遺すことであった。年齢も七十五を過ぎ、残された時間がわずかであることを本人も自覚していた。ならば、夢を叶えることよりも誰かの願いを叶えたいとすら思うようになっていた。


「殿、織田方より使者が来ております。」

「よし会おう。」

 貞征は北国街道を守る要害山本山城の城主として、北から浅井領へ侵攻する織田軍を幾度となく跳ね返してきた。しかし、今回の侵攻は話が違った。織田信長が自ら三万の軍勢を率いて城攻めを開始したのだ。主を裏切り織田方へ降るか、最後まで戦い城を枕に討死するか。八月に入ってからの一週間絶えず思案を続けていた。


「阿閉様、お久しぶりでございまする。私がお伝えしたいことはお分かりでございましょう。」

 山本山城を訪れた織田方の使者は木下秀長であった。織田軍北近江攻めの軍団長木下秀吉の弟にあたり、この二年間で何度も降伏勧告に訪れ貞征と会話を交わしていた。

「うむ。儂もそろそろ潮時だと思っておる。じゃが儂も七十五を超えた。いまさら織田に降って何が出来ようか。それならば最後までこの城で戦い抜いて死にたいと思う儂もおるのよ。」

「心中お察しいたしまする。されど阿閉様はまでお元気でいらっしゃる。必ずや近江のため、そして天下のために大いなる役目を果たすことが出来ましょう。ぜひともここはご決断くださいませ。我らも阿閉様がお味方になった際には、できることならば何でも致しまする。」

「七十五年生きたと言えど、主に弓引いたことなど一度もない。そんなことが出来る器ではないのだ。」

「阿閉様。こちら内々に入手した浅井長政殿からの阿閉様宛の文にございまする。先月に織田に城より送られたものにございます。」


“阿閉淡路守殿。いや、阿閉の爺様。すでに大勢は決し申した。降るも戦うもあなたに任せまする。ただ、二年前に交わした約束、それだけはどうか果たしてくだされ。私からの最後の頼みでございまする。”

 貞征の心は決した。

「城を開城いたす。信長様にもよしなにお伝えくだされ。」


 降伏勧告に応じたことを信長から評価された貞征は、山本山城を安堵され、小谷城攻め、そして朝倉家の居城一乗谷城攻めに従軍した。ただその陣中でも、長政と交わした二年前の“約束”をどのように果たすか、それだけが貞征の脳裏を駆け巡っていた。


「犬上郡藤堂村におる“藤堂高虎”という男を探して、ここに連れてまいれ。」

 山本山城に戻った貞征は家臣に命を出した。

「承知いたしました。すぐにも出立いたします。」

家臣の名は渡辺了。この命の裏にある本当の目的を、誰にも知られてはいけなかった。そのため、家臣団に加わって日が浅くほかの家臣らとの交流が少ない了に白羽の矢を立てた。貞征は了の人柄の良さが、“約束”の達成に不可欠なものと考えていた。


 三日後の亥の刻を少し過ぎたころ、藤堂高虎が山本山城に到着した。貞征は深呼吸して、高虎が待つ大広間入った。

 動揺を察されないように表情をほころばせ、朗らかな口調で話し始めた。声色がいつもと違うのは自分でも分かった。しかし声の震えを隠すためには致し方ないことだった。


 何とか初日の会話を終えた。貞征は疲れ切っていた。武士としての将来に期待を膨らませる高虎と対照的に、貞征は不安で満ち溢れていた。

自分は嘘をつくのが苦手だ。前々からわかっていたことではあったが、ここまでとは自分でも思っていなかった。このままでは長政との“約束”が果たせない。貞征は焦った。

 不安に駆られた貞征は一週間以上高虎には何も告げることが出来なかった。自分が作嘘によって、高虎に想像以上の傷を与えてしまうのが怖かった。長政が見込んだ若者を自分の手で終わらせてはならないという責任感が貞征を押しつぶそうとしていた。


 三日三晩策を練り、ようやく高虎に指令を与えた。阿閉那多助と広部文平の暗殺という命であった。高虎が正直にこの指令を受け入れて実行することを貞征は願い続けた。


「殿。藤堂高虎より二つの首が本丸に届けられてございます。」

 何とかうまくいった。貞征は安堵した。当然本物の二人を殺させたわけではない。事前に二人の屋敷に、二人と入れ替わる形で牢につないでいた咎人を入れていた。

 本当の勝負はここからだった。

「早朝に高虎を縛り上げてここへ連れてまいれ。」

貞征はひっくり返りそうな胃を何とか抑えて命を出した。


 高虎は汚いものを見るような目で貞征を睨みつけていた。貞征は申し訳なさを押し殺して高虎を煽った。ここまで汚い人間になりきるのは辛いものだったが、亡き長政との“約束”を果たすべく自我を消し去った。そして、捨て台詞を吐き出した途端、二年前の長政との会話が鮮明によみがえってきた。


「阿閉の爺様よ。最近私は面白い男と会ったぞ。」

「面白い男とな!どこの誰でございますかな?」

「藤堂高虎という犬上郡の土豪の子だ。知らぬだろう?」

「はい。聞いたこともございませんな。どのようなところ面白いと思われたので?」

「弱気になっていた私のことを、ひるむことなく堂々と叱咤したのよ。」

「殿の前そのようなことをする男がおりましたか!これはこれは風変りな男でございますなぁ。」

「あの目は将来大物になる眼をしておった。この浅井家にいてはその才を殺すことになってしまうと思い、召し抱えはしなかった。」

「なんと!もったいないことを!」

「良いのじゃ。浅井家はこの数年できっと終わる。私の人生もう長くはないだろう。そこで爺様に頼みたい。私が死んだあと高虎に会ってやってはくれないか?」

「私は浅井家の家臣にございまする。殿がこの世におられぬならば、私もきっと空の上におりましょう。」

「何を言うか。何としてもそなたには生き延びてほしい。そして私の願いを叶えてほしい。」

「・・・。この老体にできることであれば。」

「うむ。高虎は私に“人間誰もが何かしら弱さを抱えている“と言うた。私もそれは間違っているとは思わぬ。だが、その考えが高虎の視野を狭めてしまっていると思うのだ。そこでだ。爺様には悪者になっていただきたい。」

「なんと!」

「高虎を欺き、この乱世の汚さと醜さを教えてやってほしい。長くこの乱世を戦い抜いてきた爺様にしかできぬ事じゃ。」


 自分がした返事は覚えていなかった。ただやれるだけのことはやった。あとは高虎を折を見て逃がすだけ。そう思った。

 しかし、貞征の横にいた家臣が、貞征の目配せの意味を勘違いし、刀を抜いて高虎に襲い掛かったのだ。

「やめろ!」

 貞征は叫んだがうまく声にならなかった。緊張で喉は潤いを失っていた。失敗した、長政様にどう詫びを言えばよいのか、悔恨の念が貞征に押し寄せた。ぐっと瞼に力をいれた。


 その時だった。突如として爆発音が聞こえた。目を開くと一面真っ白で何も見えない。曇りがはれ、部屋中を見渡しても高虎の姿はなかった。

「了!了はおるか!」

「はっ!ここに。」

「高虎を追え!見つけたら高島へ迎えと伝えよ!捕らえる必要はない。そしてもう儂の名は出すな。」


 高虎が暗殺の計画を練っていた三日間、貞征は二人の男を呼んでいた。

 一人目は磯野員昌である。元浅井家家臣であり、織田家への降伏後佐和山城から高島郡へと移っていた。貞征とは幾度と戦場を共にした三十年来の戦友であり、全幅の信頼を置いていた。

「突然呼び立ててすまない。」

「そなたに呼ばれたらすぐ来るさ。して何の用だ。」

「儂は今、藤堂高虎という者を預かっておる。亡き殿からの頼みでな。」

「殿とは長政様のことか?」

「そうだ。もしこの者がここを出たならば、そなたに引き取ってもらいたい。」

「承知した。されど出ていくと思っているのだ?」

「そこまで含めて殿の頼みであるからな。そして折を見て再びこちらに戻してくれ。」

「よう分からんが引き受けた。儂に任せておけ。」

員昌は三十年前から変わらない朗らかな笑顔で答えた。


 二人目は木下秀長であった。この時はすでに“羽柴秀長”と名を改めていた。

「秀長殿。なんでも致すと仰せであったな。」

「できることならば。」

「ならば一つ頼みがある。」

「なんなりと。」

「今儂が面倒を見ている藤堂高虎という男を、いつかそなたの家臣にしてやってはくれぬか。」

「何故でございましょうか。」

「儂と亡き浅井長政様の希望が込められた男じゃ。天下の中心に近いお方に召し抱えてもらいたい。」

「ならば私ではなく兄に。」

「いや!ここは秀長殿にお願いしたい!織田方の使者としてきたそなたに初めて会ったその日から、この思いは変わっていないのじゃ!」

「そこまで仰せでしたら。時が来たらまた参りまする。」

秀長は当惑した表情を浮かべながらも貞征の頼みを引き受けた。


 誰もいなくなった大広間に、貞征は大の字で横になった。

「頼む。高虎よ。生き延びてくれ。」

 

高虎を成長させた男は、悪を演じた心優しき故老の名君であった。

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