第2話 姉川に立って忘れたもの

「兄上―!父上様が今すぐ居間へ来るように仰せでございます!なにやら浅井備前守様からの文が届いたとかなんとかで!」

屋敷の方から元気な声が聞こえた。声の主は藤堂新七郎良勝。こいつの声は四六時中大きく、ときに気に障ったこともあるが兄を失った高虎にとって程よい励ましになっていた。

 兄上と呼ばれているが新七郎は高虎の実の弟ではない。母の弟の子、すなわち従弟にあたる。高虎が兄を亡くした戦で新七郎は父を亡くしており、母もおらず行く当てがなくなったところを高虎の父虎高が引き取ったのだ。今思えば、高虎一人に重荷を背負わせたくないという父なりの配慮であったのかもしれない。兄を失い、共に村を駆け回っていた喜左衛門も家の都合で姿を見せなくなった。突然空いた穴を埋めるかのように表れた新七郎に高虎は自然と気を許していた。

「今いく。」

高虎は屋敷の庭に生えた雑草を手入れする手を止め、父の待つ居間へと向かった。


 父は書状を片手に震えていた。目は焦点を失ったように虚空を眺めていた。

「父上。浅井様よりの文と伺いました。いよいよ戦が始まるのでしょうや。相手は朝倉かはたまた波多野でございましょうか。織田様と共に戦うのです。負けはありませぬな!」

「高虎、悠長なことを言っておられぬぞ。備前守様が思い切った一手に出られた。織田家と縁を切り朝倉家との同盟を維持される道を選んでしまわれた。」

高虎は驚きのあまり開いた口が塞がらない。そんな高虎の様子にかまわず虎高は続ける。

「先々代のころから浅井と朝倉との間に絆があるのは確かだ。ただ、今の情勢を見れば破竹の勢いで勢力を拡大する織田様についていく方が良い手であることは火を見るよりも明らか。聡明であらせられ、信長公の妹君を娶られた備前守様がこのような判断をするとは思えん。何者かが裏で備前守様を動かしているに違いない。」

高虎は浅井家の内情をよく理解していないため、その“何者か”が誰かは見当もつかなかった。ただその“何者か”が誰なのか考えることよりも、今後の藤堂家の身の振り方を考える方がうん百倍と大切であることは分かった。


「父上、して我らはどうせよと備前守様は仰せなのです?」

「遅からず織田家との戦が起こる。それに備えておくようにとのことだ。高虎どう思う?」

「どう思うとは一体なんでございましょうか?」

「いや我らは近江の中でも南東に位置している。織田様の治めておられる美濃からもそう遠くはない。今のうちに織田に鞍替えするのも・・」

「何をおっしゃいますか!我らは近江の土豪!主は浅井様ただ一人でございます!」

高虎が父の言葉を遮る。高虎は父の忠誠心のなさに無性に腹が立った。武士とは主のため、国のために命を捨てるものだ、とこの時は信じていたからだ。

 高虎の一声で藤堂家のとる道は決まった。


 一月後、ついに出兵の命が下った。相変わらず父は震えていた。先の戦で嫡男を亡くし、新たな嫡男が次の戦で初陣を迎えるのだ。恐れをなして当然と言えば当然であった。そんな父の様子を察した高虎は、過剰なまでの晴れやかな笑顔と共に言い放った。

「私は死ぬ気がいたしませぬ!たとえどんな敵が来ようともこの手で打ち倒して見せまする!」

 決して本心ではなかった。いくら嫡男として家を背負って生きていく覚悟を決めたとて戦は初めて。郡内で高く評価される自分の実力も、戦場でどれほど通用するのか知れたものではなかった。なによりまだ死にたくなかった。兄との約束を果たせていなかった。ただ全くの虚言というわけでもなかった。“人間誰もが何かしら弱さを抱えている”という兄の言葉が、つねに高虎の不安を打ち消し、大きな背中を押していたのだ。


 高虎は父と共に磯野員昌の部隊に配属され、集合拠点であり員昌の居城である佐和山城に到着した。員昌は大野木国重、野村定元、三田村秀俊らと共に浅井四翼と謳われ、常に浅井軍の先鋒を務めてきた豪傑であった。さらには部隊に属する人々の元を周り、配慮や労いを欠かさない人徳者としても知られていた。高虎もその例外ではなかった。

 首を垂れる兵士一人一人を一瞥し、時に労いの言葉をかけながら城内を歩いていた員昌の足が止まる。高虎の前であった。

「期待しておるぞ。」

員昌は一言だけ発し再び歩き出す。自分の実績と評判が佐和山まで届いていたとは。信じられなかったが素直に受け止めた。心臓の拍動が早まるのを感じた。

「員昌様のためにも必ず功を立てねば。」

隣の兵士に聞こえない程度の音量の独り言が、気付けば口をついていた。


 正直言ってこのころの高虎は調子に乗っていた。村での賊騒ぎを解決したあの日から、“小心者”の自分の心像は露と消え、戦場で活躍し乱世に名を轟かす自分の姿が常に脳裏に描かれていた。

 今思えば、員昌が声をかけた本当の理由がわかる。単純明快な話だ。ただ体が大きく腕っぷしが強そうだったから、だけであろう。名を名乗ってすらいない高虎を“藤堂高虎“という一人の男として見ていたわけがないのだ。


 六月二十七日、浅井・朝倉連合軍が姉川付近に布陣した。すでに対岸に織田・徳川連合軍が布陣しているのは松明の様子から伺い知れた。

夜が明けた。東から差し込む太陽の光が敵軍を照らす。明らかになった敵陣の全貌に、高虎は立ちすくむことしかできなかった。三万から四万程であっただろうか。村での十数人規模の諍いしか経験していない高虎に、その光景は圧倒的な恐怖を与えた。

 戦は否応なく始まった。徳川軍が朝倉軍に発砲したのだ。高虎の属する浅井軍先鋒隊が一斉に川を渡る。高虎も我を忘れて槍・刀を振り回した。

 一刻後、突然として撤退の法螺貝が鳴った。法螺貝の音に、高虎は悔しさ以上に安堵を覚えた。初陣は手痛い負け戦であった。そんな事実など高虎にとってどうでも良かった。

「俺はまだ生きている。」

 この時の高虎はまだ“小心者”であった。口だけ理想を語り心も体も追いつかない。

 その弱さがあるという事実を、高虎は見失っていた。

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