第3話 浅井長政という男

 初陣から二年が経過したある日、屋敷の中に衝撃が走った。高虎が浅井備前守長政直筆の書状で小谷城に呼び出されたのだ。呼び出しの名目は、姉川の戦及び宇土城攻めでの功とある。

 高虎は理解に窮した。どちらの戦にも参陣していたのは事実だが、まったくと言っていいほど活躍した覚えがない。謙遜でもない。侍大将の首をとったわけでもないし、ましてや生き抜くことに必死で、倒した敵兵の首など一つも持ち帰っていないのだ。頭の中で思案を巡らせども答えは見つからなかった。そんな高虎をよそに父虎高、そして新七郎は浮かれたように声を弾ませている。

「高虎やったな!さすが儂の子!期待の通りじゃ!備前守様からたんと褒美をいただいてまいれ!」

「兄上なら必ずこのようなことになると思っておりました!もしかしたら兄上が浅井の家臣団の席に列せられる日もそう遠くないかもしれませんな!」

「そうかもしれるな!そうなったら儂も備前守様に引き合わせてくれよな!」

 高虎も二人に合わせて笑みを浮かべようとするがうまく笑えなかった。やはり何かがおかしいのだ。


 自室に戻って再び書状と向き合った。腑に落ちない、あまりに不可解だ。浅井家は近江国の大半を領するいわゆる“大大名”であり、その当主備前守長政は村の小土豪の嫡男に過ぎない高虎にとって、雲の上どころかお天道様の如きお方であった。ましてや今は織田家との戦の真最中。戦況芳しくない中でわざわざ高虎のような者を名指しで呼び出すのは不自然だ。

 その日はうまく眠れなかった。翌朝、満面の笑みの父と新七郎に見送られ小谷へと発った。


 小谷に到着した高虎は自らへの扱いに驚いた。番所を抜け、対面の場とされた大広間へ向かう道中、城勤めの兵たちがみな高虎に頭を下げる。“浅井家”が招いた客人としての扱いであった。大広間の入り口に一人の男がいた。

「藤堂殿、お久しゅうございまする。備前守様がもうすぐお越しになります。さあこちらへ。」

 彼の名は寺村小八郎。姉川の戦で高虎と同じく磯野隊に属しており、数多の兜首を挙げたことで長政に気にいられ、この時は側近を務めていた。高虎から見れば自分とは対称的なエリート中のエリートだった。そんな小八郎が自分を同等に扱ってくれたことが正直嬉しかったが、やはり複雑な気持ちであった。自分は小八郎とは違い、ここにいる所以などないのだから。

 大広間に長政が入ってきた。相変わらず一度見たら忘れぬほどの美貌、そして圧倒的な風格に高虎は圧倒された。


 高虎は一度だけ長政に会ったことがあった。会ったと言っても見かけただけであったが。嫡男としての正式な登記を行うべく父と共に小谷城を訪れた帰り道、愛妻市と共に馬にまたがり城下を回る長政にはまさに“貴公子”と呼べるほどの風情が漂っていた。生まれ持った“もの”が違う、一生この人には追いつけない。そう感じたのを高虎は覚えていた。


 着座した長政は声を発することなくただ笑顔でこちらを見つめている。元来沈黙が苦手な性格であった高虎が自ら口を開く。

「この度は備前守様御自ら御招きくださり、この藤堂与吉高虎光栄の極みにございまする。して備前守さまにおかれましては・・」

「堅苦しい挨拶はよい。それに備前守などと呼ぶでない。変に肩に力が入ってしまうであろう。長政で良い。」

「はっ、長政様」

「様・・。まあ良い。高虎よ。そなたを読んだのはほかでもない。一度そなたと話をしてみたかったのだ。」

「話、でございますか。」

 高虎には全くと言っていいほど自分置かれている状況がつかめなかった。

「そうじゃ。聞くにそなた・・・。小心者であったそうではないか。」

 高虎は困惑した。構わず長政は続けた。

「犬上郡に自らを小心者と蔑んでいた大男がいると聞いてな。それが今やわが家のために尽くす剛の者であると知って、興味をもって呼んでみたというわけだ。わしは今窮地にいる。自分を変えたいと思っている。何がそなたを変えたか、教えてはくれぬか。」


 あの女か。高虎はすべて合点がいった。あの女は浅井家中の者だったのだ。

「兄の言葉にございます。」

「ほう、兄の言葉か。」

「左様にございます。兄は北畠との戦で命を落としました。兄は私にとって妬むほど憧れた人でございました。その兄が生前に言っていた“人間誰もが何かしら弱さを抱えている“という言葉が、自分にかかっていた”小心者“という霧を晴らしたのでございます。」

「人間みな弱い・・か。わしも弱いということだな。」

 しまった、と高虎は思った。

「いえ!そのようなことは決して!」

「良いのじゃ。俺は弱い。この世の誰よりも。周囲の言葉に流されるまま、義兄の期待を裏切り、最愛の妻を苦しめた。弱いところしかないのだ。」

「長政さまは決してそのような!」

「庇うな!そんなことは何度でも聞いた!もうわかっていることなのだ!俺が弱かった。そのためにこの浅井は!この近江が終わりに向かっているのだ!」


 先ほどまで高虎の目に映っていた美しい長政の姿は見る影もなかった。

 広間に冷たい沈黙が走った。甲高い音がこだましているように感じられた。再び高虎が沈黙を切り裂いた。

「弱くあっては・・。弱くあってはならないのです!長政さまはこの近江の主!この国の民の主でございます!弱いところがあったとて、その弱さを塗り替えなければならないのでございます!我らのため強い長政様、強い浅井家であってくださいませ!」

 言ってしまった。勝手に口をついていた。小八郎をはじめとする側近衆からの冷たい視線が注がれているのを感じた。

「そなたはここにいるべきではない。」

「申し訳ございませぬ。お望みとあらばこの場で腹を切りまする。」

「そうではない。泥舟となったこの浅井家に、そなたは身を預けるべきではないと申しておるのだ。我らは遅かれ早かれ沈む。義兄上のことだ。浅井に関わったものすべてをなで斬りにされてもおかしくはない。そなたのような志高き若者の貴重な命、このようなところで無駄にしてほしくはないのだ。」

「私はこの近江の者にございます。たとえ沈む日が来ようとも浅井様の元で・・」

「案ずるな。そなたにはいつか身に合う仕官先が見つかる。こちらでも手を尽くす。それまで身を潜め待っていてくれ。」

 高虎にはもう拒む術がなかった。

「しかし、仕官と申されましても私は武士ではございませぬ。長政様にお仕えできぬならば村へ戻り村のために生涯をささげる所存。」

 長政は薄い笑みを浮かべた。


「ならば武士になればよいではないか。」

 長政は自らの脇差を高虎の手に乗せた。

 

 元亀三年七月十九日、武士藤堂高虎の人生が始まった。

 石高を得ていないのだから武士ではないと申す者もいるだろう。だが、高虎にとってはこの日が全て始まりの日だった。

 青く澄み渡った空、轟く蝉の声、長政様の笑み。この日のことを忘れることはない。

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