第1話 腰抜け与吉

 自分は小心者だ。部屋に入り込んだ羽虫を追い払うことすらできない生粋の小心者だ。自分のことなのだからよく分かっていた。名こそ高虎という立派な名を背負っていたが、自分の心の中ではいつまでも“腰抜け与吉”として自らを描いていた。


 しかし周囲は強者を羨む目を向けてきた。藤堂与吉は“虎の子”で、郡内で最も大名に近い男であるともてはやす者もいた。与吉に悦びの感情は湧かなかった。それどころか悔しかったのだ。ただ一方で、褒め称えられる理由を与吉自身も自覚していた。


 まず第一に、“虎の子”と呼ばれるのには両親の名が関係していた。父は近江国犬上郡藤堂村の土豪藤堂虎高であり、諱に“虎”の一字がついていた。母はそのまま“とら”という名であった。おなごには珍しい名であるが、母は多くの人は思い描く“母”という偶像をそのまま写し書きしたかのように立派なおなごであった。

 第二に、与吉の背丈と風貌だ。身長は十を迎えた冬にすでに五尺を超えており、加えて父にも母にもない立派な太い眉毛と、喧嘩で付けた目元の傷がその風格を引き立たせた。おかげで槍修行では負け知らず、喧嘩でも負けたことがなかった。


 そんな与吉が唯一敵わないと思った男がいた。兄の高則であった。与吉より一回り二回りも小柄ながら、真剣勝負で与吉が勝ったのは一度だけだった。高則は藤堂家の嫡男として大切に育てられていたため、滅多に屋敷の敷地から出ることはなかった。そのため郡内でその評判を知るものはなかった。兄の存在すら知らぬ人々が与吉に賛辞を送り、“藤堂与吉”という名を過剰なまでに崇めていた。この状況が与吉には日に日に耐えがたいものになっていった。

 与吉は恵まれた体格を生かせる武芸にしか精を出していなかったため、当然勉学でも高則よりも劣っていた。逃げるように武芸の鍛錬を積み、郡内の腕自慢たちを打ち倒してなんとか心の平静を保とうとした。しかし、それも長くは続かなかった。があった。自然と自らを卑下するようになり、自分への賛辞がすべて“腰抜け与吉”と言っているように聞こえるようになった。

 大きな体に似合わない与吉の小さな心が限界を迎えた。与吉十二歳の夏のことであった。


 家族とはほとんど口を利かなくなり、朝早くに屋敷を出て村の不良とつるむ日々。

 様子を心配した高則が、従弟の喜左衛門を与吉の説得に派遣したが逆効果であった。いつしか喜左衛門も共につるむようになった。


 それから一年ほどが過ぎたある日の晩、自室のふすまが勢いよく開いた。そこには血相を変えた母が立っていた。母のそんな顔を見るのは初めてだった。正直家族の誰とも話をしたいと思わなかったが、母に必死の手招きに応え居間へ向かった。廊下へ出た途端、何か冷たいものが背中を通ったのを感じた。

「嫌な予感がする・・。」

 小声で与吉が漏らす。居間では血まみれの父が倒れていた。かろうじて生きてはいるようで、与吉を見て安堵したようなため息をした。


 父と兄が浅井軍の部将として北畠家との戦に向かったことは知っていた。知っていたと言っても直接聞いたわけではなく、喜左衛門から伝えられただけに過ぎない。

 父の隣には必死に手当てをしている女中がいて、その傍に脇差が置いてあった。その時与吉は気づいた。兄の姿が見当たらない。

「父上・・。兄上はいずこに・・?」

 正直答えはなんとなくわかっていた。ただ信じたくなかった。全く歯が立たず、自分を武士の子とも呼べないような体たらくな生活に追い込んだ兄が簡単に死ぬなどとは思いたくなかった。

 自分で勝手に意地を張って口を利かなかった挙句、一度も話すことなく兄弟という唯一無二の関係が終わってしまった。今まで弱い自分に対する言い訳として“小心者”という言葉を使っていた。しかしこの時初めて自分が“本当の小心者”だったことを知った。この事実は与吉の心を大きく震わせた。ただでさえ暗いものであると感じていた将来が、まったくと言っていいほど見えなくなった。とにかく一人になりたかった。そのことだけは覚えている。


 しかし、現実はそんなに甘いものではなかった。嫡男を失った藤堂家は連日てんやわんやであった。与吉は元服し“高虎”と名を改め、兄に代わって藤堂家嫡男となった。諱である“高虎”も重荷に感じられた。自分の中では自らはいまだに腰抜けで小心者の与吉であったのだ。


 与吉が嫡男となって四日目の朝、村で賊が暴れているという一報が入った。藤堂家は土豪といっても小土豪。収めている村の治安を守るというのも大切な務めであった。正直気乗りはしなかったが仕事は仕事。眠い目をこすりながら現地へと向かった。

 少女が賊に人質に取られている。与吉の中で何かが切れたのを感じた。嫡男になった以上本当の武士としてこの村を守らなければならない。頭の中で描いていた自分の心像が“腰抜け”の文字が消えようとしている。

 何も躊躇することなく賊の集団に突っ込んでいく。一対数十だっただろうか。次々に立ち向かってくる敵をなぎ倒す。自分の弱さなど脳裏によぎることはなかった。

 少女を助けることが出来た。称揚の声が響き渡る。何年ぶりだろうか。自分への賛辞の声がなんの障壁にもぶつかることなく鼓膜へと伝わってくる。

「お助けいただきありがとうございました!高虎さまの戦いぶりまさに、千里を翔る虎のようでございました!」

「虎か・・!俺の名の通りだな!」

 久々に本当の笑顔を作ることが出来た気がした。微笑む村民らの顔が兄と重なって見えた。


 もう与吉に迷いはなかった。この村を、そして自分自身を全力で守ると決めていた。正真正銘の“藤堂高虎”であった。

 草むらから音がした。賊の一味だろうか。女が出てきた。表情は険しくまるで百姓とは思えない。

「何者だ。」

「見させてもらった。見事であったな。」

「何者だと言っている。名を名乗れ。」

「お前は強い。その上で問う。あの女を助けた。」

「名を名乗れと言っておるだろ!」

「答えろ!」

 ものすごい剣幕だ。只者ではないと高虎は思った。

「なぜ・・。そりゃこの村の民だからだ。民が困っていたならば助けるというのが領主の務めだ。」

「なぜその決断ができた。自分を小心者だと思っていたのではないのか。」


 血の気が引いた。自分では自分を“小心者”と思っていたが決して誰にも言っていなかった。親しかった喜左衛門にも、である。なぜこの女は知っているのだ。

「分からぬ・・。」

 高虎に言えた言葉はこれだけであった。

「お前には兄がいた。兄はお前より全てにおいて秀でていた。そうだろう?」

「あぁ、そうだ。」

「お前が一歩を踏み出せたのは兄のおかげなのではないか?お前に人間としての価値を与えたのはきっとお前の兄だ。」


 全てがつながった。兄高則が死地となる戦場に赴く直前、ふすまもあけずに高虎に語り掛けたことがあった。

「人というのは弱い生き物だ。誰もが何かしら弱さを抱えている。その弱さは必ずどこかで足を引っ張ってくる。それは自分を知らないことが第一の原因だ。お前は立派だ。自分の弱さを知ったのだから。あとは乗り越えるだけだ。頼むぞ。」

 やっとこの言葉の意味が分かったのだ。乗り越えるものが見つかった時、高虎は強くなれた。

 この気づきは高虎にさらなる勇気を与えた。だがそれと同時に兄に礼を言えない無念を痛感した。


 我に返った高虎に一つの疑問が浮かんだ。

「待てよ。なぜこのことをお前は知っているのだ?」

 うつむいていた顔を上げたが、もうそこに女の姿はなかった。

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