第10話 心捧げる主
天下に聞こえた琵琶湖の湖岸にそびえる居城長浜城は、かつて浅井家の居城であった小谷城の資材を用いて羽柴秀長の兄秀吉の命によって拵えられた。秀長の姿は近江の武士の血をそのまま固めたかのような、そんな城堡の櫓にあった。
遠くから近づく松明の火が見えた。秀長の目は兄に似て良かった。笠をかぶるおなごの顔が一瞬日に照らされたとき、すぐにそれがシュウであると分かった。ということは隣にいる大男が、この三年名を知りながらも出会えなかった藤堂高虎ということか。
秀長は二の丸屋敷へと急いだ。この時をずっと待っていた。顔もわからぬ“藤堂高虎”という偶像は時が経てば経つほど高邁なものになっていた。形式上阿閉貞征の頼みを受けて召し抱えることにはなっているが、そんな前提などどうでも良かった。
高虎は言葉にならない不思議な高揚感に襲われていた。織田家にその人ありと謳われた出世頭羽柴秀吉の弟に、直々に召し抱えられるなどとは全く考えていなかった。織田家はかつて高虎が仕えていた浅井家の宿敵であり、羽柴兄弟はその戦で名を上げた。そんなものに仕えることが長政とした約束を果たすことにつながるか一抹の不安があったが、長浜に着くころにはそんな無用な考えは跡形もなく消えていた。
羽柴秀長の屋敷は二の丸にある。質素な外見は農民上がりが故なのだろうか、高虎はそう思った。シュウが門番の者と話をつけると、高虎は早速屋敷の敷地内へ迎え入れられた。屋敷の中から中年の男が現れた。
「藤堂高虎殿でござるかな?拙者羽柴秀長様が家臣羽田正親でございまする。藤堂殿の噂はかねがねお聞きしておりますれば、ささっ中へ。秀長さまがお待ちでございます。」
屋敷の中は異様なまでの静けさだった。秀長、高虎両社が対面へ向けて固唾をのんだ。秀長が上座に着座し、高虎が面を上げた。その時、
「な長政様!」
高虎の口は脳の制御を突破した。なんと目の前にいるのはまごうことなき元主君浅井長政その人に見えたのだ。
「私の名は秀長だ。長政ではない、がよく兄に似ず整った顔立ちだと言われるな。確かそなたの元主浅井長政苑も整った顔立ちであったと聞くが似ておるか?」
秀長はお互いの緊張をほぐすかのように朗らかに問いかけた。
似ているどころの騒ぎではなかった。まったくもって瓜二つであった。高虎は混乱する頭を置き去りにして目の前の男に向き合った。その後数回会話のやり取りが続いたと思うが、高虎は全く覚えていない。だが、ある秀長の一言が高虎を現実に引き戻した。
「そなたの兄のこと、夢のことすべてシュウや磯野殿から聞いておる。そのうえでそなたには私の家臣になるにあたり、一つ条件がある。」
「はっ。なんなりと。」
「そなたの武器は武芸だ。それは今までの結果からも明らかだ。それは認めよう。だが、武器が一つの男は今後の日の本では役に立たない。ましてや織田家そして羽柴家を支えるこの秀長の家臣となるならば尚更だ。」
高虎は気の引き締まる思いであった。武芸しか武器がないのは紛れもない事実であったからだ。秀長は言葉を続ける。
「そなたには勉学を極めてもらう。兵法、算術、交渉術。そのすべてをだれにも負けないものにせよ。それが私からの条件だ。」
高虎は下を向いたまま何も言えなかった。勉学が必要であることなど、何年も前からわかっていた。しかし心は動かなかった。武芸のみで戦えていたというのも大きな要因だが、なにより勉学を始められるほどの頭ではないと思っていたのだ。
答えに窮する高虎の肩を秀長が優しく叩いた。高虎が顔を上げるとそこには優しげな笑みがあった。あの時と同じだ、と高虎は思った。武士になる覚悟を決めたあの日、長政が自分に脇差を差し出した時の表情と同じであった。高虎の思いを認め期待に満ち溢れた笑み、その中に儚さをも感じさせる。
その時高虎は確信した。長政の思いが託された本当の男は、目の前にいる羽柴秀長であると。長政から受け取った脇差、その実物こそ残ってはいないが、あの日決めた武士であるという覚悟は高虎の心の中で燃え続けていた。
自然と覚悟は決まった。新たな武器を身に着け、天下のためにそして秀長さまのために身を削る運命なのだと感じた。
天正四年十一月のことであった。
高虎の待遇は、新参の者の中では破格であった。秀吉の小姓衆の石高がよくて百石程度、秀長の側近らは五十石程度であった。そんな中高虎は三百石を食むことになった。侍大将でもない高虎に提示されたこの数字は、秀長からの高い期待を表すと共に、高虎の学問修行に関しての大きな責任も表していた。
高虎が日々勉学に励む中でも、秀吉・秀長兄弟は信長の命で西へ兵を動かし、各地で戦をしていた。高虎は焦った。このままでは自分にチャンスが巡ってくることはない。織田家の天下への道のりは、ゆっくりながらも着実に近づいていっている。
そんなとき、自室の外からシュウが高虎に声をかけた。
「高虎。秀長さまから一報入ったぞ。」
主従の関係になったが、シュウの口調は相変わらず無愛嬌で、常体であった。
「なに!殿はいったい何と仰せだ?」
「急ぎ長浜を発ち但馬攻めに参陣せよとのことだ。」
全く想定していなかった好機が到来した。戦場は高虎が自身の価値を示す絶好の場であった。しかし疑問なのは、勉学に励むよう伝えた秀長が、何故高虎を戦場に呼ぶのかということであった。
秀長は秀吉から別動隊の指揮を任され、但馬国岩洲城攻めの陣中にいた。そこへ、意気揚々と高虎が到着した。
「高虎。よう来た。丹後の山道は厳しかったであろう。」
「何のこれしき。この高虎、秀長さまがお呼びとあらばどこの戦場へでも参陣いたしまする。」
「調子のいいことを言いよって。」
緊張感で張り詰めた戦場に、和やかな空気が流れた。その隙に高虎は、抱いていた疑問を秀長にぶつけた。
「殿、何故私をここにお呼び寄せになったのですか?私には長浜で勉学に励むという大事なお役目を殿から命じられたばかりにございまする。」
高虎の真っ直ぐな問いに秀長は温かい笑顔を浮かべた。
「高虎よ。学びというものを一元的にとらえてはおらぬか?学ぶためには姿勢を正して書に向かうことだけと思ってはおらぬか?見よ。あれが但馬の山々だ。足を運び、様々な場に身を置くことでしか得られぬ学びもある。そういうことだ。」
思い描いていなかった秀長の答え、そして考え方に高虎は度肝を抜かれた。
「高虎よ。そなたに勉学に励めと命じたのは、なにも勉学だけに努めよという意味ではないわ。そなたの武器はすでに一つある。その一つも活かしてもらわずしてどうとする。」
秀長は笑みを浮かべながら高虎の背中を優しく叩いた。
高虎が本陣を出るまで秀長は優しく高虎を激励した。この時から高虎は秀長という男の虜になっていた。
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